第7話

 八月最終日。深夜――。


 時待台駅の改札を降りて直ぐに右手に折れ、信号を一つ越えた角に二十四時間営業のファミレス「ゴスト」がある。


 もう午前四時を回ろうかという時間にも関わらず、店内の半分の席は埋まっていた。モバイルパソコンで何やら作業しているサラリーマン。ソフト帽を被り、腕を組んだまま寝ている老人。コイバナに花を咲かせるOL風の四人組。流石に高校生はいないと思われたのだが、店内の一番隅の禁煙席に神楽耶かぐやが座っていた。


 神楽耶は、白いノースリーブに僅かに水色がかった薄手のショールを掛けている。黒いスパッツに覆われた長い脚は、きちんと揃えられたまま少しだけ横に流され、藍色のパンプスへと続いている。胸元には深い紺色の宝石を填め込んだペンダントが光っていた。


 どうみても高校生がいてよい時間ではない。しかし、周囲が神楽耶をちらちらと横目で見るだけで何も言わなかったのは、彼女が大学生かテレビタレントか何かだと思ったからなのかもしれない。


 今日最後の仕事に従事した電車は、午前一時を告げる一分前に駅を離れているから、かれこれ三時間近くもここにいる計算になる。


 神楽耶は文庫本を読んでいた。しばらくして、一通り読み終えるとポーチにしまい、カップに半分ほどの、すっかり冷え切った珈琲をスプーンで二、三度かき混ぜた。最後にほんの少し残ったミルクを垂らす。


 茶色の液体の中心に落ちたそれは、表面にくるくると白い渦を作ってから、気象衛星が撮影した台風のような模様を浮かび上がらせる。やがて白い渦はゆっくりと拡散して薄茶色へとその姿を変えた。


 神楽耶は、ティースプーンを珈琲カップの皿に戻そうとしたが、皿に添えられていた封の切られていないシュガースティックの脇に珈琲の雫が一滴落ちた。神楽耶は、微かにあっという顔をしたが、袋の端を摘んで、お皿の横に出す。


 その様子が退屈そうに見えたのか、二人の若い男が神楽耶に近づいた。二人共、チャラい感じではあったが、ちょいイケメンだ。二言三言、言葉を交わすが、軽く追い払われてしまった。どうやらナンパは失敗したようだ。


 神楽耶は左手首の内側に着けた時計を確認する。針は四時十分を指していた。


(そろそろ良いいい時間ね)


 時刻を確認した神楽耶はポーチを肩にして席を立つとトイレへと向かったが、その姿を再び見せることはなかった。


 一時間ほどした後、トイレが塞がったままだとクレームを受けた店員が、何か事故でも起きたのかと慌ててトイレの個室を抉じ開けた。しかし、そこには誰もおらず、もぬけの殻だった。


 その場は、何かの見間違いだということで収まったのだが、内側から鍵をかけたまま人がいなくなるなんて普通では考えられない。店員はただ首を傾げるばかりだった。



 ◇◇◇



 ――智哉の自宅。


 すーっ、すーっ――。


 程良く空調の効いた自室で智哉は静かな寝息を立てて眠っていた。パジャマは着ているが、薄手の掛布団は腹の辺りまでしか掛けておらず、そこから上は出したままだ。


 カーテンを開け放した窓から西の地平に沈みかけた満月が部屋の奥深くに光を投げかけている。ふと月光が人らしきシルエットを描いた。月明かりが照らした人物は神楽耶だった。


 薄暗がりの中、神楽耶は周りをぐるりと見渡して智哉の部屋であることを確認する。


(どうやらテレポートは成功したみたいね)


 神楽耶はテレポート――瞬間移動――能力を持っていた。彼女はファミレス「ゴスト」から智哉の部屋にテレポートしたのだ。


 神楽耶はこの世界の住人ではない。異世界からの使者だ。この宇宙と対を成す双子宇宙からこちらの宇宙に派遣されたエージェント。今、神楽耶はその本来のミッションを遂行しようとしていた。


 神楽耶はそっとベッドに近づいて覗き込み、寝ているのが智哉だと確認すると、首に掛けていた紺色の宝石を填め込んだペンダントを外して左手に持った。そのまま片膝をついてしゃがみ込み、智哉の左手に自分の右手を重ねる。


 左手のペンダントから情報を読み込むと、神楽耶の瞳がブルーからグリーンに変わった。神楽耶は、瞼を閉じて何かを検索するかのように精神を集中させていたが、暫くして目を開けると心の中で呟いた。


(……間違いないわ。やっぱりここだったのね。『宙の王そらのおう』)


 入学式のとき、智哉が落とした消しゴムを拾って渡した時はここまではっきりとは分からなかった。就寝して表層意識が沈静化している時を狙ったのは正解だったようだ。神楽耶は口元を微かに綻ばせると、左の手首を返して掌を開けた。掌の『クレスト』の深い紺色は月光に照らされ神秘的に輝いている。神楽耶は『クレスト』をそっと握り直した。


 神楽耶は深呼吸して心を整える。これからが本番だ。

 右手で重ねた智哉の手を握る。


(コンタクト)


 神楽耶のブルーの瞳が再びグリーンの輝きを帯びる。右手に集めた思念波を智哉の深層意識に潜む『宙の王』に送る。


(コネクト…)


 神楽耶の思念波が『宙の王』の思念体と接触し包み込んだ。


(エンゲージ)


 完全に捕・え・た・感覚を得た神楽耶は、『宙の王』の思念体の引き上げに掛かる。ここまでは何の問題もない。いつも通りだ。


(ドレイン・シフト)


 ――バシィッツッツ。


 物理的に音がしたわけではないが、神楽耶は電撃を受けたようなショックを受けた。何かが拒絶したのだ。


(……エミットできない!)


 心を落ち着かせてもう一度試みる。抜けた工程がないか確かめるように、ゆっくりと、確実に…


(コンタクト……コネクト……エンゲージ……ドレイン……シフト……)


 神楽耶は何度も試みるが、いずれも徒労に終わった。


(一体、何が起こってるの?)


 神楽耶は混乱していた。智哉の深層意識に隠れている『宙の王』を引っ張り出して『クレスト』に封印する。それだけの筈だった。これまでも他人の心に憑依した別人の意識をエミットして封印したことは何度もある。思念体の取り違えさえ気をつければ、神楽耶には難しい仕事ではなかった。


 それなのに……。


 ――バババババッババ。


 新聞配達の原付が外を駆ける音が辺りを震わせる。空は薄っすらと白み始めていた。


 原付の音に反応したのか、智哉が寝返りをうった。慌てて手を放した神楽耶は勢い余って、ベット脇のポートレートに触れて落としてしまう。


「……だぁれ」


 智哉が寝ぼけ眼で寝たまま顔を向ける。


 ――拙い。


 神楽耶は咄嗟に後ろ跳びすると、意識を集中させる。と、次の瞬間、神楽耶の姿は忽然と消えうせた。


「……あ、あれ、タ、チバナ……さん……あれ、あれ……」


 智哉の寝ぼけた声が月明かりに木霊した。



 ◇◇◇



 新学期の朝六時前――。


 気持ちのいい朝日が顔を出し、まだ温かみを帯びていない澄み切った空気が辺り一面を支配することを許された時間。


 自宅に戻った神楽耶は机に向かい、数週間前に話した相手と再び交信していた。


「エミットできなかっただと?」

「はい。申し訳ありません」

「ターゲットの中に『宙の王』が居なかったというのかね」

「いえ。ターゲットの中に『宙の王』は居ました。それは確認できました。エミットだけが上手く行かなかったのです」

「君程のエミッターでもかね。原因は分かったのか」

「いえ。調査はこれからです。まずは御報告を、と」

「ふむ。こちらから応援のエミッターを派遣したほうがよいか?」

「いえ。暫く原因究明にお時間をいただけませんか。原因が分からないことには、エミッターが何人居ても同じ結果になるかもしれませんから」

「ふむ……。何…ごほっ、ごほっ」

「大丈夫ですか。所長」

「……いや。大丈夫だ。失礼した。何にせよ、ターゲットに『宙の王』が居ることが確認できたことは収穫とすべきだろうな。やはり、こちらの世界ではないことも考慮する必要があるということか。……よろしい。調査とターゲットの監視を続け給え」

「はい。ありがとうございます」

「成功を期待している。頼むぞ」


 通信を切った神楽耶は、手にしたペンダントを机の上に置くと、憮然とした表情で制服に着替え始めた。明け方の智哉の部屋での出来事がどうしても納得できなかったのだ。


(なぜ、エミットできなかったの……有り得ない。完璧に捕まえていたのに……)


 神楽耶が持っている紺の宝石が填め込まれたペンダント――『クレスト』は、この世界の産物ではない。神楽耶が元々居た世界で開発された一種の封印装置であった。『クレスト』は特定の能力者が使うことで、対象者の情報思念体――魂――を引き出して封印、または開放することができる。神楽耶の居た世界では、その能力者は『エミッター』と呼ばれていた。神楽耶もその『エミッター』の一人であった。


 神楽耶はこれまで、何人もの意識体を封印、解放してきた。それがこの世界で初めて失敗した。


(こちらの世界は、やはり事情が違うのかもしれないわ……)


 文明や科学レベルの差を除外すれば、元の世界と何ら変わらないようにみえるこちらの世界でも、実際は大きく違う何かがあることは十分に考えられた。それが分からない限り、また失敗する可能性は高い。神楽耶は任務のハードルの高さに身震いした。


(テレポートは前もって確認することができたけれど、エミットの事前確認までは考えなかったわ……)


 自分だけで完結するテレポートは、確認しようと思えば、いくらでも事前に確認可能だ。しかし、他者の魂を封印するエミットはそうはいかない。神楽耶はエミットを事前確認することは考慮していなかった。


 着替えを済ませた神楽耶がベランダに目をやると、雀が一羽迷い込んで、所在なさげにうろうろしている。しばらく見ていた神楽耶は一つ試してみることにした。


(小鳥ではやったことないけれど、理屈の上ではできるはずよね)


 神楽耶はもう一度机に向かって、先程置いた『クレスト』を手に取った。そして、ベランダ正面の窓から、二、三歩離れて立つと、『クレスト』を左手に持ち、右手を雀に向けてかざす。


「ふぅ」


 大きく深呼吸してから、エミットの工程を開始する。


(コンタクト……)


 普段より集中しているのか、神楽耶の瞳のグリーンが一際輝きを増し、右の掌がほんのりと黄金色に光る。一瞬眉をひそめた神楽耶だが、それは直ぐに消え、代わりに口元に笑みが浮かんだ。


(捕まえた)


(コネクト……エンゲージ……)


 神楽耶は目を閉じた。ここからだ。


(ドレイン・シフト……シール!)


 左手の『クレスト』が紫に色を変えた。神楽耶は少し拍子抜けした様子で『クレスト』を確認すると安心したかのように息を吐いた。


「……どうやら成功ね」


 神楽耶のエミットはあっさりと成功した。智哉の時のような抵抗も何もなかった。神楽耶はこの世界でエミットが出来ないわけではないことを確認して安堵した。


 神楽耶は窓を開け、ベランダに出る。先ほどの雀はさえずりも、歩みも止め、まるで剥製のようにそこに置かれていた。神楽耶はしゃがみこんで、『クレスト』を右手に持ち変えると、開いた左手を彫像の雀にかざした。


(シフト・エミット)


『クレスト』は再び、深紺の輝きを取り戻す。神楽耶がかざした左手をそっとよけると、置物は何もなかったかのように動き出し、ベランダを二、三度啄むと、先程自分に起こったことなぞ我関せずとばかり飛び立っていった。神楽耶はクレストに封じた雀の魂を元に戻したのだ。


 神楽耶は部屋に戻ると、壁際の姿鏡に自身の姿を映したまま思考を巡らす。


(私のエミット能力が無くなったわけじゃない。でも、彼の中の『宙の王』はエミットできなかった。他に何か原因があるのね。もう少し彼を観察しないといけないわ)


 神楽耶は『クレスト』を一瞥すると引き出しに戻さず、通学鞄に忍び込ませた。そして姿見に映った自分におかしな所がない事を確認してから玄関へと足を向けた。

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