第6話

「よう、智哉。待たせたな」

「待ってないよ。時間通りだよ」


 時待台駅の改札からでるなり、俊之が右手を上げて挨拶した。俊之の後ろに同じ年頃の女子が続いている。八月に入って最初の土曜日の今日は、智哉の自宅で学習会をする日だ。智哉の自宅を知っている俊之が、他の参加メンバーである女子生徒を引率して連れてきてくれたのだ。


 俊之は、胸に大きくワニがひっくり返った絵柄のついたTシャツにズボンの出で立ちだ。ワニの下には「OCOSITE」というロゴがある。俊之によれば、有名服飾メーカーのパロディなのだそうだ。


 それに対して、三人の女子生徒、神楽耶と小百合と真梨花はみな学校の夏服を着ていた。智哉の恰好は半袖の白のカッターシャツに黒のスラックス、靴はナイキのスニーカーだったが、カッターの裾をスラックスに入れていたので、ぱっと見は学生服を着ているように見える。


「じゃあ、案内するよ」


 若い男女五人は、智哉を先頭に歩き出す。駅前の商店街を抜け、線路のガード下をくぐる。そこから大きく左に折れると、大きな公園を左手にした大通りに出た。ゆったりとしたカーブを描く道沿いに歩いて、三百メートル程先の信号を渡ると、緩やかな上り坂になる。坂の先は住宅街だ。智哉の家もその住宅街にあった。


 徒歩で十分程度の距離とはいえ夏の八月はやはり暑い。五分も歩かないうちに汗が噴き出してくる。俊之は右手親指の付け根あたりを額に当てて汗を拭っていたが、小百合は花柄のハンカチに吸わせている。真梨花は手を団扇代わりにパタパタとやっていた。神楽耶はというと汗ばんではいるものの時折、白いレースのハンカチでそっと汗を拭き取るくらいで割と平気な様子だった。


 ほどなくして智哉の自宅に着いた。


「こんにちは~」

「御邪魔します」

「失礼します」


 智哉が招き入れた四人の客人は、三つの高い声と一つの野太い声で挨拶して靴を脱いだ。俊之もここでは靴をきちんと揃えている。


「あら。いらっしゃい」


 智哉の母が台所からひょっこり顔を出して答える。


「こっちだよ」


 智哉が先導して階段を上る。


(そういえば、あの子、俊之君の他に学校の友達を連れてきたの初めてじゃないかしら)


 智哉の母は、息子が学校生活に馴染んでいると確認できて安心する。


(折角、智哉が連れて来たんだから、おもてなししなくちゃね)


 母は冷蔵庫の奥から来客用に取っておいた「とらや」の羊羹を出して、切り揃え始めてからふと気づいたように呟いた。


「あら、今の子って和菓子だしても大丈夫かしら」


 智哉の母は少し考えて、お隣さんから土産にいただいたベルギーチョコも添えることにした。


 智哉の家の二階は三部屋ある。南向きの二部屋が智哉と兄の裕也の部屋だ。


 智哉は自室のドアを開けて皆を入れる。部屋の広さは裕也と同じく十畳程だったが、床は全部フローリングで、琉球畳は敷いていない。東向きの角にベッドがあり、真っ白のベッドシーツの上には黄色いクッションがひとつ乗っていた。


 反対側の壁には勉強机があり、その両横には天井まである備え付けの本棚があった。壁の半分を占めているその本棚にはぎっしりと本が――漫画もそれなりにあったのだが――並べられていた。小さい頃からこの部屋に出入りしていた俊之には見慣れた光景であったが、始めて入る女子生徒には物珍しかったらしく、興味深々の様子で本のタイトルをチェックしていた。


「好きなところに座ってよ」


 智哉が声をかける。部屋の真ん中には、前の日に智哉が両親から借りた、ちゃぶ台というには少々大きすぎる足の低いテーブルが、五つの座布団に囲まれて鎮座していた。


『好きなところに』といったせいなのか、特に席を譲り合うということもなかったのだが、神楽耶の両サイドの席は当然のように女子生徒が占有した。俊之はちらと智哉に目配せして、一瞬だけやれやれという表情を見せた。


「桐生君って読書家なんだね」

「やっぱり、勉強できるもん」

「ねぇ面白い本紹介してよ」


 智哉はちょっと答えに詰まった。確かに読書は好きで本も沢山読んではいるのだが、別に人に勧めるために読んでいる訳ではない。それに智哉はいわゆるベストセラーと呼ばれる本には食指が動かない性質だった。それどころか皆が読んでいる本を一緒になって読むのはつまらないとさえ思っていた。寧ろまだ誰も注目していないが、これから人気のでる本をいち早く見つけて、手元に置いておくことに喜びを覚えるほうだった。相撲でいえば、将来の大関・横綱を十両時代から見極めてパトロンになる喜びに似ているともいえようか。


 智哉が答える前に俊之が茶々を入れる。


「こいつは誰も知らないマイナーな本ばっかり読んでるから、お勧めされた本が面白いとは限らないぜ」

「俊之、変な事をいうなよ。普通の本だって読んでいるよ」

「それ漫画のことだろ」


 図星を突かれて増々答えに窮する智哉だったが、そこから話題を逸らしてくれたのは神楽耶だった。


「桐生くん。桐生くんはこのベッドで寝ているの?」

「え、あぁ、うん、そうだけど……」


 智哉は、頭にふと浮かんだ妄想を必死に打ち消しながら答えた。


「ふうん。そう……」


 部屋をゆっくりと見回してから神楽耶はそういった。何かを目に焼き付けているように智哉には見えた。


 智哉は自分の妄想が神楽耶に感づかれやしないかとびくびくしながら、床にゴミが落ちていないかを確認するフリをした。無論、前日の晩と今朝、徹底的に掃除した床にゴミなどあろうはずもない。ゴミ箱だって空っぽだ。智哉は仕方なく乾いた笑い声を上げて誤魔化したのだが、それで上手くいったかどうかは保証の限りではない。


 結局、本当に智哉を救ったのは、母が持ってきてくれたキンキンに冷えた人数分の麦茶と菓子皿一杯の煎餅とチョコレート、そして、とっておきの羊羹だった。



 おやつの後の勉強会は少しだらけた雰囲気になった。勉強と関係のないお喋りが混じる。神楽耶はお喋りに素っ気なく応じながら黙々と勉強を続けた。智哉は、神楽耶を自分と同じ「ガリ勉タイプ」だと判断し、少しほっとした。


 だけど……。


 ――求めに応じられなければ捨てられるだけなのよ。


 いつぞやの神楽耶の台詞が智哉の頭の中でくるくると回った。こんなに美人で頭もよくて努力もする子に一体何を求めるのだろう。智哉は神楽耶に少し興味を覚えた。


 勉強会は五時半でお開きとなった。神楽耶は、勉強について智哉に質問することもなければ、見て貰うこともなかった。神楽耶が自分に何か聞いてくれるのかと、心の隅で期待していた智哉は肩透かしを喰った。ちょっと残念だった。

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