第5話

 体育館にボールの弾む音が響きわたる。


 今日の智哉のクラスの体育の授業は、体育館を半分にして男女分かれてのバスケットボールの授業だった。


「交代だ、Cチーム入れ!」


 気合の入ったホイッスルを鳴らして、体育顧問の吉川が指示を出す。


 模擬試合を終えた智哉は、やれやれと男女のコートの境目に近い壁に持たれて座り込んだ。次の入れ替えに備えてウォーミングアップしていたDチームの俊之がそれを見て隣に座る。


「よう、秀才!ギブアップか」

「……なんだ、俊之か」

「なんだとは御挨拶だな。昨日テレビでみたぜ。なんかお前の兄貴が発見したんだってな」

「……知らない。」

「テレビ見てなかったのかよ、お前の兄貴が映ってたぜ」

「勉強してたから、見てないよ」

「流石秀才、兄貴の晴れ舞台もお構いなしか」

「……発見したのはシカゴ大のサイラス教授で、兄さんは手伝っただけだよ」

「なんだ知ってんじゃんかよ」

「だから研究チームのメンバーだったってだけ。大したことしてないって」


 去年の夏から、兄の裕也はアメリカのシカゴ大学に留学している。東大をトップで合格し、そのまま首席で卒業した。卒業後は教授の推薦を受け、物理学の権威サイラス教授の下で最先端素粒子の研究をしている。


 昨日は素粒子に関する重大な発見があったとかでテレビで話題になっていたらしい。


 智哉は、昨日の夜、電話で父と兄が話しているのをドア越しで聞いていた。なるべく気にしないようにしていたのだが、喜ぶ父の大声で中身は筒抜けだった。智哉はそれが嫌だった。


 確かに身内が脚光を浴びることは嬉しいことではある。しかし、余りにもその光が強すぎると、眩しくて見ていられないものなのだ。兄の活躍を目にするたびに、自分が光っていないことを嫌でも自覚させられる。智哉がニュースをあまり見ないのもそんな心理が働いていた。


「お前はいいよなぁ。すげぇ兄貴がいてよ。俺んとこなんか、しがないコンビニの息子だぜ」

「そんなの関係ないよ」

「お前も兄貴みたいに、東大に入るんだろ。」

「どうかな……」

「おいおい随分弱気じゃんか。お前が入れなかったら、誰が入れるんだよ」

「……知らないよ」


 智哉はそっけなく答えた。


(……僕は兄さんみたいな天才じゃない)


 智哉は軽く溜息をついた。その半分は拗ねている自分に向けられたものであった。智哉はそれを俊之に見咎められるかと思ったが、その瞬間は来なかった。俊之の目線は隣の女子コートに注がれていた。


 コートを囲むギャラリーから大きな歓声が上がる。


「おおぉ、凄げぇ、ダンクだぜ」

「俺、初めてみた」


 駆け寄るチームメイトの輪の中心にいたのは、神楽耶かぐやだった。


 ダンクシュートといえば、NBAプレーヤーの大男達だけがするものとは限らない。それなりの身体能力とセンスがあれば可能だ。アメリカでは身長百六十八センチながらスーパーダンクシュートを次々に決める選手も実在する。


「姫様~、凄~い」


 黄色い声援を背中に受けながら、神楽耶は祝福のハイタッチを、些かぎごちなく交わすと休むことなくポジションに着く。相手のボールを素早くカットしては、次々とシュートを決めていく。傍から見ても抜群の身体能力を持っていることがはっきりとわかる。そんな神楽耶を智哉は眩しく見つめていた。


「なぁ、彼女とはうまくいってんのか」


 俊之が智哉の肩越しに顔を覗かせ、にやにやしている。


「ば~か。彼女な訳ないだろ、第一僕なんて相手にするもんか」

「ま、そうだよな。入学式んときは、もしかしてと思ったけど、あれから全然だもんな」


 俊之は、両手を頭の後ろに組んで壁にもたれかかると、当たり前のように言った。確かに入学式の日こそ彼女と会話したものの、次の日から智哉が神楽耶に近づくことはなかったし、彼女も智哉に声を掛けることもなかった。俊之のストレートな物言いに、少し傷つきながらも智哉は反撃する。


「あんなに美人で恰好よかったら、他の男子がほっとくわけないよ。お前こそどうなんだよ」

「あ~、俺は駄目。すでに撃沈済みだ」


 一ミリも悪びれた素振りをみせず俊之は即答した。俊之が言うには、もう既にわんさかと男子がアタックしていっては、全員漏れなく撃沈したらしい。俊之もその中の一人だった。


「なぁ、知ってるか。女子の間でも彼女のファンクラブが出来ているらしいぜ」

「……ふうん」

「あの美形にあのスタイル。おまけに長身。まるで『かぐや姫』みたいだってもっぱらの評判だ」

「……」


 ピーーッツ。


 突然のホイッスルに二人は顔を上げる。


「よーし。Bチーム上がれ、Dチーム入れ」


 俊之は出番だと腰を上げると、智哉に振り向いた。


「お前もまだならアタックしちゃえよ。モタモタしてると姫様、月に帰っちゃうぜ」


 本気とも冗談ともつかぬ言葉を残して駆けだす俊之の背中に智哉は思いっきり、アカンベをしてやった。



 ◇◇◇



 六月末――。


 今日は四月から数えて三回目となる月例試験の結果発表の日だった。智哉は八〇〇満点中の七七〇点。ガリ勉の成果もあって、五月、六月と学年二位に浮上していた。青盾、銀盾、銀盾の連続ゲットだ。


 しかし、学年一位の座は神楽耶が不動のものとしていた。五月、六月は共に八〇〇点満点を叩き出していた。神楽耶は三連続で金縁のクリスタル盾だ。


 貼りだされた得点順位表を見ながら智哉は素直に負けを認めた。一体、彼女は家でどんな勉強をしているのだろう。もしかして兄のように、ちらっと教科書を眺めるだけで全部頭に入ってしまう「天才」ではないだろうか。そんな頭が自分にもあったらよかったのに、と智哉は心底羨ましく思った。


 教室に戻ると、神楽耶は友達の女子生徒に囲まれて何やら盛り上がっている。智哉はそおっと神楽耶を囲む輪に近づいて、彼女達のお喋りを聞いてみた。


 ――神楽耶ちゃんにアタックしちゃえよ。


 ふと智哉は俊之に言われた言葉を思い出したのだが、直ぐに打ち消した。こんな美人で天才の神楽耶に告白だなんてとんでもない……。


 確かに女の子に興味がないといえば嘘になる。


 事実、神楽耶に憧れに似た感情はある。しかしそれは成績についての事だ。恋愛感情を持っているかといわれたら首を捻る。そんな自分が選りによって神楽耶の彼氏に名乗りを上げるだなんて。そんな暇があったら勉強に当てるべきだ。そう思った。


「ねぇ、立花さんは毎日何時間くらい勉強しているの?」


 神楽耶の友達の女子生徒がいきなり直球な質問をぶつけた。智哉はピクリと反応し、耳を聳てた。こういう質問には、謙遜して少なめに答えるか、適当に誤魔化すのが相場だ。友達の前でガリ勉してますなんて答える人はあまり聞かない。


「ご飯とお風呂と寝ているとき以外は全てよ」

「遊んだりとか、電話でお喋りとかしないの?」

「全然。だって必要ないもの」

「彼氏も?」

「いないわよ」

「嘘よぉ。立花さんなら、絶対お似合いの彼氏いるってぇ。ホントは居るんでしょ?」

「ううん。本当にいないのよ」


 答えに納得しない様子の女子生徒に、神楽耶は言葉を継いだ。


「必要ないことに時間とるのは馬鹿のする事よ。だって、求めに応えられなかったら、捨てられるだけなのよ」


 神楽耶は冷たく言い放つと、手洗いにと言って輪を抜けた。


 神楽耶の言葉に呆然とした女子生徒達だったが、直ぐに神楽耶の発言の真意を詮索し始めた。


 只ならぬ雰囲気を嗅ぎ取った男子生徒達が寄ってくる。いつの間にか、男子生徒達も交えての議論となった。


 智哉はそれに参加することはなかったが、内容はしっかりと聞いていた。


 僅か五分ばかりの検討であったが、「神楽耶は昔、酷い失恋をしたことがあって、そのトラウマのせいで、言い寄る男共をみんな袖にしているのだ」という説が優勢になった。


 その説に女子生徒の三分の一くらいは異議を唱えていたのだが、残りの三分の二の女子生徒と男子生徒達は、そういうことだったのかと勝手に納得した。


 神楽耶本人を抜きにした勝手な説は、その日のうちにクラス中に広まった。


 次の日から、男共の態度が変わった。


「クラス一美人の神楽耶を振るなんて一体どんな野郎だ。俺はそんな薄情な男じゃないぜ」

「姫様、貴方に僕の全てを捧げます」

「君の心の傷は、僕が癒やしてあげる。任せて」


 ありとあらゆる美辞麗句をぶら下げて男共が神楽耶に告白した。一度フラれた男達でさえ、目をキラキラさせて、再び神楽耶に突撃していった。


 ――彼らは一人、また一人と討ち死にし、一週間もしないうちに全員漏れなく恋人戦線から消えた。



 ◇◇◇


 ぎらぎらと照りつける太陽。木々の葉が濃い緑を天に伸ばし、夏の到来を告げている。


 正午を告げるチャイムが鳴り昼休みになると、教室は一段と活気に溢れた。夏休みを目前にして、皆も何処となくウキウキしている。四月は、まだ良く知らなかったクラスメートも、この時期になるとすっかり打ち解け、仲の良い者同士でグループを作り、ワイワイとやっている。


 智哉は、自然の成り行きで、俊之を中心としたグループの一員になっていた。

 一方、神楽耶は、彼女のファンクラブの面々で結成されたグループに何度も勧誘され、半ば強引にメンバーにさせられていた。男子生徒らは、そのグループの神楽耶以外の女子生徒達を纏めて『かぐや姫親衛隊』と名付けた。


 今日も『かぐや姫親衛隊』は神楽耶を取り囲んではお喋りに興じていた。


「ねぇ、夏休みにさぁ、皆で勉強会してみない?」

「あ、名案~」


 夏休みだから遊ぼうとならない辺り、流石は進学校だ。何だかんだいっていても勉強の大切さは知っている。だが、それ以上に彼女たちの表情には、神楽耶と一緒にいたいという願望が浮かんでいた。


「ねぇ、姫様いいでしょ」

「……えぇ。いいわ」


 少し間があって提案を受け入れた神楽耶をみて、女子生徒達は早速、勉強会の計画を立てはじめる。どうやら何人かの家を持ち回りでやるらしい。智哉はそんな彼女達を遠目で見ながら、自分の家がそのリストに入ることは、一生ないだろうなとぼんやり見ていた。しかしその考えは良い方向に裏切られた。


「桐生君、あなたも勉強会に参加して」


『かぐや姫親衛隊』の一人が智哉の前で懇願していた。しかし、その声には拒否を許さない響きがあった。智哉は勢いに圧されて思わず頷く。


 なぜ『かぐや姫親衛隊』の勉強会に呼ばれるのか不思議でならなかったが、神楽耶の指名だからというのがその答えだった。何でも、神楽耶が頭のいい男子に勉強をみて欲しいといったらしい。クラスの生徒達には、入学式の一件を思い出して二人の仲を詮索するものもいたのだが、クラスで神楽耶の次に成績が良かったのは智哉だったから、大半はそれで納得した。


「う、うん、いいけど」

「じゃ決まりね」


 親衛隊の女子生徒はくるりと回って、神楽耶を囲む輪の中に戻っていく。彼女達は、ワイワイと持ち回りの順番を決めるためのアミダ籤を作り始めた。いつの間にか輪の中に男子生徒達も混じっている。智哉が参加すると分かり、自分らも混ぜろと交渉しているようだ。


 最初はつれない反応だった『かぐや姫親衛隊』も、神楽耶の別にいいじゃないという鶴の一声で、受け入れることになった。


 神楽耶の答えに男共が喜びの声を上げる。


 学習会に参加するのは男子六人に女子九人の全部で十五人。それを三つのグループに分けて学習会する事に決まった。智哉のグループは、女子三人に男子二人。智哉を指名した神楽耶が同じグループであるのは、最初から予定されていたことだったが、もう一人の男子が俊之であったのは、腐れ縁を超えて因縁なのではないかと智哉は嘆息した。


 それが神楽耶と同じグループになれなかった他のメンバーからの怒りを買っていたことを知らされるのは、もう少ししてからのことだった。

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