第4話
ゴールデンウィークを間近に控えたその日は、月例試験の結果発表の日だった。個人のテストは前日までに本人に返却されているのだが、個人成績の順位が昔ながらの紙に印刷されて貼り出される。
最近の高校では、こうした光景もめっきり少なくなってしまったが、競争意識を高めるためには有効な方法だ。名門進学校では依然としてこの伝統は受け継がれている。翠陽学院もその伝統を受け継いでいる高校の一つだった。
智哉は俊之と一緒に試験結果を見るために、教室を出て中央廊下に向かっていた。ガリ勉をやれるだけやって臨んだ月例試験だったが、どんな結果がでるのか内心は不安で一杯だった。兄のように一番は難しいかもしれないが、せめてトップテンには入っていて欲しいと智哉は願っていた。でなければ、兄には一生掛かったってその足下にも及ばないことがはっきりするばかりか、父と母の期待を裏切り深く失望させてしまうことになる。智哉はそんなプレッシャーと戦っていた。
しかし、親は子供に学業よりも、まず人として真っ当に育って欲しいと願っているものだ。それは智哉の両親も同じだったが、智哉は兄と同じく抜群の成績を残して東大に入ることこそが親の願いであると思っていた。
「あ~あ。今回は調子悪かったからなぁ~」
俊之がぼやく。
「お前はいつも調子悪いって言ってるじゃないか」
「そうだっけ?」
ケロリとして答える俊之を智哉は気楽でいいなと思ったが、それを口にすることは止めておいた。
二人は、試験順位が張り出された紙の前に立つと、智哉は一番から、俊之は最下位から自分の名前を探し始めた。智哉の名前は直ぐに見つかったが、俊之が自分の名前を見つけるまで暫くの時間が必要だった。
無言で順位表を見つめる智哉の横にきた俊之は、直ぐに智哉の名前を見つけて素直に感想を口にする。
「おぉ三番じゃんか。流石だねぇ、秀才」
「まだ上がいるんだ。大して凄くはないよ」
「お前なぁ、謙遜も過ぎると嫌味だぞ」
口ではそう言っていても、俊之は智哉の好成績を喜んでいるようだった。智哉は、俊之のことを良い奴だなと改めて確認すると同時に、自分の事しか考えていなかったことに気づいた。
(……人の為だなんて、余裕がある人の台詞だよ)
智哉はそう思うことで、自分の劣等感を押し殺した。他人ひとの事には干渉せず、ガリ勉ばかりの今の自分を否定したら何も残らない。それを目の前に突き付けられるのが怖かった。
「俊之、お前はどうだったの?」
「三十七番!」
「全然調子悪くないじゃないか」
「へへっ。俺はヤマカンの天才なんだ」
何だかんだいっても俊之は中学時代に智哉とトップを争ったライバルだ。それなりの成績を残すだけの実力は持っている。智哉はやっぱり腐れ縁だなと思いながらライバルがいることは悪いことじゃないなと思い直した。
智哉はもう一度順位表を眺めてみた。八〇〇点満点中の七五六点の三位。とりあえずトップテン、いやトップスリーに入っている。兄ほどではないにしても、これなら親に面目は立つだろう。智哉はほっとした。
智哉の上は二人とも女子だった。二番は入学式で総代を務めた里崎美奈で七六五点。十点足らずの差だ。もう少しガリ勉すれば追いつけるだろう。智哉は睡眠時間を更に1時間削れないかと心の中で計算していた。
(それにしても……)
智哉は一番の得点をみて、暗澹たる気持ちになった。一番の生徒の得点は七九八点でほぼ満点と言っていい高得点。二位以下に大きく水を開けてのトップだ。あとどれくらい頑張れば追いつくことができるのだろう。智哉は直ぐにはその方法を思いつくことができなかった。
大きく「一、」と書かれた数字の下にある名前は、クラスメートの立花神楽耶だった。
◇◇◇
――夕方五時半。
翠陽学院の最寄り駅の二沢上町から下りの電車に乗って三つ目の時待台駅。智哉の家は、そこから徒歩で十分程の閑静な住宅街の一角にある。
「ただいま」
智哉はルーチン化した帰宅のサインを発した。
「お帰り。試験はどうだった」
智哉の母が台所で夕食を作りながら、振り向きもせず訊ねた。
「どうって、普通だよ」
二階への階段を登ろうとした智哉は、母の後ろ姿をちらと見る。
トントンと俎板が軽快な音を響かせていた。包丁がリズムを刻む度に、輪切りにされた人参がドミノのように次々と並んでは倒れていく。俎板の横の籠には皮が剥かれて四つ切りになったジャガイモが盛られていた。どうやら今日の夕食はカレーのようだ。スパイスの香りがしないのは、まだ下拵えの段階だからだろう。智哉は、テーブルに置かれたカレールゥの外箱の色がいつもと違って黒だったことに気づくと、階段に掛けた足を止めた。
「今日はカレー?」
「そうよ」
「新作?」
「うん」
「余り辛くしないでよ」
「わかったわ」
食品にもイメージカラーというものがある。カレーのパッケージで黒といえば、超辛口かスパイシーというのが一般的だ。智哉は外箱の色から、辛口のルゥを使って、母が新作のカレーを作る積りなのだとあたりをつけた。
母の返事を聞いてから、階段を登り始める。
「手を洗って、嗽をしときなさいよ」
「うん、後で」
定番のやり取りを背中同士で終え、自分の部屋に入ろうとした智哉の目に、隣りの部屋の扉が半開きになっているのが見えた。
智哉と兄の裕也の部屋は共に二階にある。階段上がって奥が裕也の部屋で、手前が智哉の部屋だ。
(……掃除でもしたのかな)
智哉の八歳上の兄である裕也は、去年の夏からアメリカに行っている。智哉は何ともなしに兄のいない部屋に足を運んだ。
裕也の部屋は十畳ほどの大きさのフローリングであったのだが、床の半分には真四角で縁のない琉球畳が敷き詰められていた。琉球畳の上には、大きなちゃぶ台と黄色い座布団が一つぽつんと置かれている。残り半分の床には勉強机と椅子。机の両脇には天井まである作り付けの本棚がある。しかし、書籍で埋まっているのはそのうちの三分の二くらいだ。残りの三分の一には、翠陽学院高校の表彰盾が、まるでパソコンのスロットに基盤を差し込むかのように、横面を見せて規則的に並んでいた。
翠陽学園では月例試験の上位三人には表彰盾が送られる。一位は金、二位は銀、三位は青、とそれぞれの色で縁取りされたクリスタル盾だ。智哉は本棚の中で押し競饅頭している裕也のクリスタル盾の一つをそっと引き出してみる。勿論、金の縁取りだ。
智哉は四月の月例試験で青縁の盾を貰っていたが、兄は金縁以外取ったことがない。智哉は一位との点差を思い出し、金と青の間には途方もない距離があると思った。
(兄さんに引き換え僕は……)
智哉は兄の本棚に寄って、受験生御用達の「赤本」を手に取り頁を繰った。東京大学と黒字で書かれた本の中身は驚くほど綺麗で、とてもこれを使って勉強したようには見えなかった。
智哉は兄との頭の出来の違いを改めて自覚したように溜息をつく。
(兄弟でなぜこんなにも違うんだろう)
翠陽に入ったのだってガリ勉したお蔭だ。智哉が中学の時につかった問題集や参考書はぼろぼろに擦り切れている。
智哉は兄が勉強机に向かっている所など見た覚えがなかった。試験だって前の日に畳に寝っ転がって、煎餅を齧りながら教科書をペラペラと眺めるだけ。それなのにいつも満点を持って帰ってくる。親も高校の勉強なんてその程度だと思っている。何にも分かってないくせに。
――ねぇ。兄さん。天才ってどういう人の事を言うの?
――う~ん。分からないな。少なくとも俺じゃあないことだけは確かだ。
――え~。
――いや、そうだな……。
――うんうん。
――智哉、お前のような奴を天才っていうんだ。
――嘘だぁ。
東大にトップ合格を果たした日、家族揃ってのお祝いの席で、智哉に訊かれた兄はそう答えた。
(僕が天才の訳ないじゃないか。兄さんが天才じゃないなら誰が天才っていうんだよ)
智哉の嘆きは尽きなかった。
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