第3話

 翠陽学院高校から、電車で北上すること十数分。市街地の外れに位置する外川駅から歩いて十五分程のとあるマンションの一室。


 十二畳程の部屋はシンプルだった。奥の壁にはキャスター付きの袖机のついたアイボリーの学習机にドレッシングテーブル。その隣に大きな姿見が掛かっている。反対側の壁には白いシーツの掛かったベットとウォークイン・クローゼットがある。黒髪の少女がその部屋の主だった。


 学校から帰った神楽耶は、制服を着替えもせず机に向かっていた。誰かと話す声が聞こえる。


「……それで、ターゲットは見つかったのだな」

「はい。まだ確証までは得ていませんけれど、有力候補ですわ。こちらの学習機関の中で、マーカー反応を示しているのは彼だけですから」

「ふむ。ならば期待できるな。何時行うのだ?」

「確実にエミットできる最適なタイミングを探しています。今は、そのための情報収集を続けているところです。そう、五セグエント内外には開始できるかと……」

「よかろう。吉報を楽しみにしている」

「はい」


 ――ふう。


 通信を切ると、神楽耶は天を仰いで、大きく一息をついた。緊張を解くために、殆ど無意識にやってしまう。手首を返して掌を開ける。そこにあったのは携帯ではなかった。綺麗な掌の上に、菱形の深紺色の宝石がはめ込まれたペンダントが光っている。神楽耶はもう片方の手でそっとペンダントを摘むと、コトリとテーブルの上に置いた。


 何時まで経っても、報告というものには慣れない。エースと呼ばれるようになってから、二周期経った今でもそうだ。矛盾はないだろうか。咎められることはないだろうか。そんな事ばかりが頭を占める。


 世間は厳しく、冷たい。少しのミスも許されない。失敗したら捨てられる。それが現実だ。自分が居られるためには、要求に百パーセント応え続けられなければならない。


 神楽耶は眼鏡を外すと、左手の薬指で、右目の下辺りをそっとなぞる。


 そして両手を膝の上において、白く塗られたウィンザーチェアの背もたれに背中を預け、目を閉じた。


 翠陽学院に入学して一週間が過ぎた。神楽耶は幼少時の学校生活とここでの学校生活の差を実感していた。


(小さい頃通った学校が、こちらの学校だったら、どうなっていたかしらね……)


 神楽耶に小さい頃の記憶が甦る。忘れたくても忘れられない記憶が――。



 ◇◇◇



「や~い。のろま~」

「傷女、お前なんか、あっちいけ!」


 教室の片隅で、嘲笑と侮蔑の言葉が叩きつけられた。言い返そうにも言葉がでなかった。本当の事だった。目に一杯涙を溜める。


 ――躰が重い。


 これでも動けるようになったのだ。五歳の頃は寝たきりだった。六歳になってようやく這い這いできるようになった。七歳で立ち上がり、杖を突いてどうにかこうにか歩けるようになったのは八歳を数える頃だった。


 入学も一周期遅れた。


 授業では、体育と体力測定が嫌いだった。

 全力で走っても、他の子の早足に追いつけない。腹筋は躰を起こすことさえできず、垂直跳びは何度やっても浮きもしない。


 学校には杖をついて通った。人の三倍以上の時間が掛かった。同級生に杖を蹴飛ばされては、その度に地面に這いつくばった。起き上がるのが辛かった。毎日、土でまみれた顔を涙でグシャグシャにした。いつもどこかに傷を作っていた。


 ――お父さん、どうして私はこんな躰なの?普通になりたい!


 涙ながらに何度も父に訴えた。


 ――命があっただけ有り難いと思え。


 父の答えはそれだけだった。


 そんな父も今はいない。優しかった母も私を庇って死んだ。


 ――残ったのは、私ひとり。


 養護施設に預けられ、学校にいっては、足を引きずるように帰ってくる毎日。

 居場所を探して、求められたものは何でもやった。


 宿題は指定された範囲以上にこなした。面倒事を押し付けられても、何も言わずに全部引き受けた。


 求めに完璧に応えていれば、居場所があると思っていた。


 ――だけど、苛めは止まなかった。


 十歳の頃になると、何もかもが自分を責め立てているように見えた。


 自分を向けられる目線が、

 道端を歩く知らない子たちのお喋りが、

 見えるもの、聞こえるもの全てが、

 自分に向けられた、批判と嘲りだと思った。


 ――もう行きたくない。

 ――こんなところに居たくない。


 ふと気づくと、道端に立っていた。教室で苛められていた筈なのに。訳が分からなかった。


 それから、そんなことが何度も起こるようになった。


 学校は、私の姿が消えたことに驚いたようだった。最初は、消えた私を探し回って教室に連れ戻してくれていたが、そのうち探すこともしなくなり、やがて何も言わなくなった。


 同級生達は、そんな私を疎み、段々と近よらなくなった。

 誰も何も求めてこなくなった。

 道端の石ころのように……。

 独りになった――。


 神楽耶は、悲しい思い出から我に返ると、ゆっくりと眼を開けた。辺りは夕闇が迫り、部屋の奥に大きく傾いた陽が差し込んでいる。


「生きるというのは、独りでいることなのよ……」


 神楽耶は呟いた。


(今、私がこうしていられるのは、結果を出しているから。作戦遂行能力がなくなったら、それでお終いよ。完璧にやり遂げないと駄目……)


 神楽耶が目を閉じて精神を集中させる。彼女の姿は白い靄に包まれ、次の瞬間にはウォークイン・クローゼットの中に立っていた。


(こっちでも問題ないわ。あとは距離だけね……)


 ゆっくりと着替えを始める。


(彼の中にきっと居るはずよ)


 神楽耶の表情は決意と期待に満ちていた。

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