第2話

「新入生の皆さん、入学おめでとう。そして、ご両親、ご家族の皆様方、心からお慶びを申し上げます。皆さんは本日より、晴れて翠陽学院高校の生徒となりました。皆さんが本校の入学式を……」


 翠陽学院高校入学式。体育館に集められた新入生三百五十人は、緊張の面持ちで学長の話を聞いていた。ぎりぎりで遅刻を免れた智哉もその一人であったが、そのために準備された脳のハードディスク容量は僅かだった。智哉の脳の記録容量の大半は、今朝自分を救ってくれたあの少女が占めており、その記録は何度も脳内で自動再生されていた。


 智哉は、自分を不良達から助けてくれた長身の彼女がこの学校にいるかと思うと胸の鼓動を抑えられなかった。智哉は返すがえすも彼女に名前を聞けなかったことを後悔していた。


(あの大人びた雰囲気からみてきっと三年生なんだろうな。でもあれだけ綺麗なのだから、校内でもきっと有名人のはずだ……)


 智哉は自分の勝手な憶測を事実だと自己認定していた。実際のところ、彼女は智哉と同じ1年生で、この時同じ体育館にいたのだが、お互いそれに気づいてはいなかった。


 隣の男が大欠伸する。


「おい、止めろよ」


 智哉が注意する。隣の男の名は森山俊之。智哉の幼馴染だ。小学校の時はよく一緒にゲームをして遊んだ仲なのだが、腐れ縁なのか小学校中学校とずっと同じクラスだった。智哉はまさか俊之が翠陽学院を受験するとは思っていなかった。確かに成績は智哉と張り合うくらい良かったが、翠陽を受けるなんておくびにも出さなかったからだ。もっとも本人に言わせれば「そんなこと見てりゃ分かるだろ」とケロリとしたものだったが。


「いいじゃん、眠いんだから」


 どうやら朝までゲームをやっていたらしい。こんなのでどうやって入試に合格したのやら。翠陽学院高校は県下随一であることはいうまでもなく、首都圏でも有数の進学校だ。東大進学者は毎年三桁をキープし、旧帝大、早慶など名だたる大学に多数合格者を輩出している。智哉の兄もここの卒業生だ。


 学長の型通りの、そして長い挨拶が終わり、周囲の緊張が僅かに解けた隙に智哉は囁き声で俊之に言った。


「また『戦これ』かよ」

「甘いな。『げきらぶ』だ」


 俊之は、にかっと笑って即答してみせた。その音量は智哉と同じく囁きのレベルであったが、智哉には大声で自慢されているかのように聞こえた。


『戦これ』とは『戦闘機これくしょん』という現代戦闘機を擬人化したブラウザゲームだ。「戦むす」と呼ばれる翼を背負った美少女が、ミサイルを手にして編隊を組み、謎の敵をやっつける。ゲームユーザーは空将と呼ばれ、様々な戦闘機少女をコレクションしていく楽しみもある。サービス開始から三年余り経過しているが、登録会員数は三百七十万人を超えたと言われている。昨年にはアニメ化もされたという超人気ゲームだ。


 一方、『げきらぶ』とは『撃剣乱舞』という銃剣を擬人化したブラウザゲームのことだ。ゲームシステム的には、『戦これ』と殆ど同じなのだが、こちらは登場するキャラが悉くイケメンになっていて、一部の女子に大人気を博している。はっきりいって、腐女子を狙ったゲームだ。


 それを何故、男の俊之がやっているのか智哉には分からなかったが、昔から面白そうなものには兎に角やってみる俊之の性格を思い出して、やれやれと頭を振った。


「新入生総代、里崎美奈さん」


 司会の声が響く。今年の総代は女の子かと智哉はひとまず総代の子に注目した。しかし、その姿は、予想どおりなのか期待を裏切られたのか、やっぱり今朝の彼女ではなかった。



 ◇◇◇



 入学式は予定の時間どおりに終わった。新入生は各クラスに分かれてホームルームを受けることになっていた。


 智哉は俊之と一緒に廊下に張り出されたクラス分けの表を見ていた。二人共ほぼ同時に自分の名前を見つける。智哉の俊之との腐れ縁はここでも見事に発動し、またしても同じクラスだった。


「また、お前と一緒だな」

「いい加減にして欲しいよ」

「なにぃ、俺じゃ不満なのかぁ~」


 そういう俊之は何だか嬉しそうだ。進学校である翠陽学院には、全国から秀才が集まってくる。必然的に同じ中学から複数名入学する例は極端に少ない。智哉の中学から翠陽学院に入学できたのはわずか三人。智哉と俊之はその中の二人だった。それだけに、知り合いが同じクラスであることに安心する気持ちは自然な感情であるともいえる。実のところ、智哉も俊之と同じクラスで内心ほっとしていた。しかし智哉にとってのクライマックスはその直後に用意されていた。


 教室に入った智哉は、飛び上がらんばかりに驚いた。今朝の彼女が窓際に立っていたのだ。最初は妹か弟にでも会いに顔を出したのかと思っていたのだが、クラスメートだと知って二度吃驚する。まさか、こんなことがあるなんて。智哉は少し舞い上がってしまった。


 彼女の席は窓際の真ん中だった。対する智哉は廊下側の真ん中。アニメや漫画なら、主人公は窓際の最後尾か後ろから二番目の席で、ヒロインはその隣というのが定番なのだが現実は非情だ。それなのに俊之は同じ列の自分の後ろだ。智哉は俊之との岩盤の如き強固な『腐れ縁』を見せつけられた気がして溜息をついた。


「よ~し、みんな席に着け」


 中肉中背のがっしりした体格の男が入ってきた。このクラスの担任教諭のようだ。年は四十歳前後で、禿一歩手前と言って差し支えないくらい大きな額に小さな目。おでこ以外は進学校の先生のイメージとはちょっとずれていると智哉は思った。


「今日からこのクラスの担任になるワタナベだ」


 ワタナベは、黒板に『渡部彰』と大きく板書してから生徒達に向き直り、自分の担当科目は数学だと告げた。


「これから1年宜しく頼む。では、早速だが出席を取る。呼ばれたものは返事をするように」


 渡部は、教室を確認するかのように一通り見渡してから出席簿を開いた。天木博人、生駒祐一、伊吹将真、江藤武……次々と氏名を呼ばれては肯定の音声が返ってくる。中には「令碧琉レアル」なんてキラキラネームも混じっていたりするのだが、それらを渡部は間違えることもなかった。ただし、キラキラネームを呼ぶときは、一瞬間が空くのでそうだと分かってしまうのだが。


 智哉は予め出席名簿にルビでもふってあるのだろうと思いながら、机の中に用意されていた、まだ説明もされていない真新しい教科書をそっと引き出してぼんやりと眺めていた。


桐生智哉きりゅうともや

「は、はい」


 不意を突かれ、慌てて返事をした智哉の声は若干裏返っていたかもしれない。後ろからクスクスという押し殺した笑い声が聞こえたような気がしたが、智哉は敢えて聞かなかったことにした。


「よし。男子は欠席なし。次は女子の出席を取るぞ」


 渡部は男子と同様に女子もフルネームで出席を取り始めた。


(あの時、聞けなかった名前が分かる……)


 無論、智哉を救ってくれた彼女のことだ。智哉は自分がやったわけでもないのに、今朝の失敗を少し取り返した気になっていた。彼女を横目でチラチラと見ながら、その美貌に相応しい名前であることを期待した。


「立花神楽耶かぐや」

「はい」


 落ち着きのある透き通った声がそれに応える。キラキラネームであるかどうかは微妙なところだが、「神楽耶」は確かに彼女に相応しい名前だと智哉は思った。


 ◇◇◇


 初日は入学式とホームルームで終わった。


 智哉のクラスの生徒達は三々五々に帰宅し始めていた。女子生徒の中にはもう友達を作って一緒に帰る子達もいた。智哉がさり気なく神楽耶のほうをみると、彼女は早くも女子生徒達に取り囲まれていた。


「わぁ、肌きれいだね」

「カラコンしているの?」

「使っているシャンプー教えて?」


 年頃の女子生徒にありがちなセリフが聞こえてくる。こればかりは何時になっても変わらない。神楽耶は戸惑ったような、困ったような顔をしながら、それでも丁寧に応対していた。


「智哉ぁ、帰りにモス寄ってこうぜ」

「あ、うん。そうだね」


 帰り支度をしている智哉に俊之が背中越しに声をかけ、智哉は振り向きもせず答える。


 智哉は新品の教科書を、これまた新調した学生鞄に入れている。教科書を縦にして鞄の中で横に二つきちんと並ぶように几帳面にしまう。教科書なんて収まればいいとばかり、ぐちゃぐちゃに突っ込んでパンパンに膨れ上がった俊之のそれとは実に対照的だ。


 午前中で終わりであったにも関わらず、終わった解放感からなのか、俊之は大きく伸びをしてから、居なくなった智哉の前の席の椅子をひっくり返さず反対向きに座り智哉と向かい合った。


「もうちょっとだから……」


 少しだけ申し訳なさそうに答えた智哉の肘が、机の消しゴムを弾く。点々と転がる消しゴムを拾おうと立ち上がる智哉を、石鹸の香りがふわっと包む。智哉の消しゴムを拾った神楽耶が智哉の前にいた。


「はい。貴方のよね」

「あ、ありがとう」


 神楽耶は、差し出した智哉の手に自分の手を添え、もう片方の手で消しゴムを渡す。何だか恥ずかしくなった智哉は神楽耶から目を逸らした。この時、神楽耶の瞳は深いブルーではなく、明るいグリーンだったのだが、もちろん智哉がそれを見ることはなかった。


 神楽耶は智哉の手を握ったまま、一向に構わぬ様子で続ける。


「同じクラスね。桐生くん。これからよろしくね」

「……よ、よろしく」


 教室の空気が一遍に変わるのが智哉にも分かった。女子からは「知り合いだったの」という囁きとも呻きともつかぬオーラが立ちのぼり、男子からは嫉妬の感情がたっぷりと練りこまれた視線の集中砲火を浴びた。


 神楽耶は悪戯っぽい笑みを浮かべると、さよならの言葉を残して、友達になったばかりの女子生徒達と教室を後にした。


「お前、やるじゃん。惚けた顔して手が早いなぁ~」

「そ、そんなんじゃないよ」


 俊之が呆然と見送る智哉の肩に手を回して紹介しろよと詰め寄る。俊之は期待に満ちた眼差しで智哉を見ていた。どう否定しても聞く耳を持ちそうにない。結局、智哉は帰りのモスバーガーで、俊之相手に今朝の顛末と数えるのも嫌になるくらいの弁明を繰り返させられた。

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