第3話 再開

  僅かに開き始めた扉から光が差し込む。光の中にたたずむ影。


――沙紀......


 早く姿を確認したい。声を聴きたい。だが逆光になり顔がよく見えない。光を反射する長く伸ばされた黒髪に懐かしさがこみ上げる。


 今すぐにでも駆け寄りたい。だが、身体が強張り動かない。


「トモヤ......?」


 間違いない。沙紀の声だ。身体が震える。例えようの無い瞬間。


「喜んでいいの? ......それとも......」

「喜んでいいんだよ...... 少なくとも俺は嬉しい」


 扉が僅かな音を立てて閉まり、沙紀の顔が浮かび上がっていく。老いる事が自由であるこの世界で、彼女の容姿はあの日と変わらない。


 細められる沙紀の瞳。それ以上は見えない。視界が急速にぼやけていく。


 現実と変わらない感情の起伏。実体の無い仮想世界で再現された偽りの涙が頬を伝う感覚。


 沙紀がゆっくりと近づいてくる。そして細い手がそっと自分の頬へと伸ばされた。温もりが、頬から全身に伝わって行く。


「君は変わらないな...... あの時のままだ」

「貴方は少し老けたわ」


 涙が溜まった沙紀の瞳にぎこちない微笑が浮かぶ。


「酷いな...... 君が居なくなってから結構大変だったんだよ」


 震える両手を細い身体の背へとまわす。そしてしてそっと引き寄せた。沙紀の額が肩へと埋められる。


「ごめんね。長い間一人にしてしまって...... けど私は生きる事を諦めた訳じゃ無い」

「解っているよ」



「へぇ...... 良く出来てる。なつかしいな」

「でしょう? こっちでこの味再現するの苦労したもの。食材一つとっても、やっぱり現実のものに比べて味の複雑さが欠けているの。結局味と香りの情報に直接手を加えちゃった」


 沙紀は言いながら空中に展開したウィンドウを操作する。次の瞬間テーブルの上に出現するワインボトル。同時に展開された小さなウィンドウ―に『著作権データ。再セーブ不可』のメッセージが表示される。


 テーブルに置かれた沙紀の得意料理の数々。だがそれはキッチンに立って彼女が料理したものではない。空中に展開されたウィンドウの操作によって次々とテーブルの上に出現したものだ。


「貴方、ワイン好きでしょう? これの出来もなかなかのものよ?」

「随分豪華だな」


「今日は特別だもの。これは貴方と再会できた私のお祝い」

「俺のお祝いじゃないのか?」


「こっちの世界に来るって事は、現実で取り返しのつかない不幸が有ったってことでしょう? それを祝ってほしいの?」

「確かに...... じゃあ、これは不謹慎じゃないのか?」


「あら、私は貴方に聞いたわ。『喜んでいいの?』って、貴方は『喜んでいい』と答えた」

「君には勝てないよ。本当に」


 思わずでた情けない声に沙紀が笑った。その様子に溜息をつきつつ頭の中で


――DIR Tenement DeFreeze Glass  Type  5/2――


 と念じる。


 その瞬間、テーブルの上に出現するワイングラス。


 ウィンドウを使わない思考コマンド入力。上手く行ったことに小さな感動を覚える。思わず口元に笑みが浮かんだ。


「面白い?」


 沙紀の呆れた顔。


「たまらないな」


 言いながら、口元に浮かんだ笑みをさらに強調する。


「よかった。貴方は『この世界で暮らす人が大抵持つことになる悩み』とは無縁のようね」

「この世界で暮らす人が大抵持つことになる悩み?」


 沙紀がウィンドウへと視線を移した。


「最初の頃はこのシステムにも、色々考えさせられたわ。もちろん一度セーブしてしまえば、何度でも同じものを呼び出せるのは便利なんだけど。


 これを見ると、この世界の全ての物は形の無いデータだと再認識させられる。『私と言う存在』ですらも。技術的には『あの日の自分』がウィンドウ操作一つで呼び出せてしまう。もちろんそのような事が禁止されてる事もソフトウェアー上できない事も知ってるけど。でも可能なのは事実でしょう?」


「確かにな」

「この世界の人は、自分がデータに過ぎない事実に悩み、『自分がコピーである可能性』に怯えながら過ごしてる。


 胸に手を当てれば、確かに鼓動を感じる。お腹も空くし、喉も乾く。でもこの鼓動は単なる疑似再現にすぎないし、飲まず食わずでも死ぬことはない。この世界での全ての行動は快楽に過ぎなくて、生命活動に一切の影響を及ぼさない。何をしても自分が実体の無いデータである事を実感してしまうの」


 沙紀らしくない発言だと思った。確かにこの世界に生きる者はこの事実に苦しむのだろう。生物学的に言えば自分達は、もはや生命ではない。そして現実世界に実体を持たない存在だ。


 だが、自分だけはそれを認めてはならない。自分は開発者なのだから。自分がそれを認めた瞬間この世界の存在意義は崩れる。


 自分達の魂はまだ天に召されてはいない。精神もここに存在する。例え生物学的に『命』を失っていようとも。


 科学は魂を捉える事に成功したのだ。


 自分がこの世界に来た以上はその立場を、如何なる時も貫き通さなければならい。この世界で生きている者のために。


「現実も、こっちも本質は何も変わらないさ。


 『実体』っていうけど、あっちの世界においての『実体』ってなんだ? 原子の集合体。なら原子ってなんだ? 素粒子集合体だよね。素粒子の定義からすると、こいつが向こうの世界においての『実体』の最少単位ってことだ。けど、こいつには形はない。


 超弦理論が導く素粒子の正体とは、高次元に束縛されたエネルギーが作り出す『波』だそうだ。つまり、結局形の無い存在が物理法則に従って実体らしきものを形作っているにすぎない。


 じゃあ、こっち世界での『実体』とは何か。人が作った法則に従って、電気エネルギーが実体を形づくる。これって、大して二つの世界に違いは無いってことじゃないか?」


 沙紀が目を見開く。


「流石ね。フロンティアシステムの立案者だけのことはあるわ。


 私ね、こっちの世界でどうしてもしたいことがあるの。向こうの世界では無理だったけど。こっちでは出来る事。これを聞いたら殆どの人は『狂気の沙汰』と言うかもしれない。でも今、貴方の話を聞いて確信したわ、これは『狂気』じゃない。そしてきっと貴方は反対しない。私は貴方を選んでよかった」


「俺を試したのか?」


 沙紀はそれには答えなかった。


「君のしたい事ってなんだ。気になるよ。早く教えてくれ」


 沙紀の瞳が、妖艶な輝きと共に細められる。


「後でゆっくりね」

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