第2話 人によって創造された死後の世界
瞳を閉じていても感じる光。あれだけの事故だったというのに痛みは一切感じない。意識が戻るにつれて視界に広がる有りえない光景。
延々と広がる白一色の世界。天と地の境目さえはっきりとしない。背中に伝わる硬質の感覚。まるで固い床の上に寝かされているようだ。
――フロンティアへようこそ――
何処からともなく声が聞こえた。まるで空間そのものから発せられたかのように方向性が無い声。言葉とは裏腹に一握りの感情すら込められていない。
それは間違いなく死後の世界へ足を踏み入れた事を意味する言葉だった。そして智也は自分が置かれた状況を理解する。
――貴方は、今さぞかし混乱していることでしょう。ですがご安心ください。フロンティアは貴方にこれからの快適な生活を保障します――
智也は『これからたっぷり三〇分は流れ続けるであろう合成音声』に、うんざりしつつも身体を起こした。この音声は耳を塞いだところで変わらぬボリュームで響き続けるのだ。
智也は音声を聞き流しつつ、辺りを見渡す。本当に何もない白一色。心理学のエキスパートがデザインした空間。フロンティアを訪れた者にここが現実では無い事実を効果的に伝えると同時に、混乱を鎮めるための空間なのだそうだ。
しかし実際此処にいると不快極まりない。これで本当に、何も知らずに此処へ来たものが安らぎを感じるのだろうか。
開発当時興味を持たなかったことが悔やまれる。
――ここのデザインは変更させるべきだな......
そんな思考が頭をよぎる。もっとも、死人になった今、かつての権限が何処まで有効なのかはわからないが。恐らく今までの様にはいくまい。でもこちらからでも仕事は続けられる。沙紀のように。
自分は沙紀と同じ世界に来れた。昨日まで、歪んだ合成音声を介して話すしかなかった彼女とまた会える。触れる事が出来るのだ。それで十分だ。
だから今は、自分がこうなった不運よりも、あの事故で本当のあの世行きにならなかった事実に感謝しよう。
「コード378」
説明アナウンスを遮るように口を開く。
その瞬間、脳内に響きわたる音声は唐突に止んだ。
ーーIDとパスワードをどうぞーー
「ID:SA32-66791 Password:××××××」
ーー葛城 智也 認識しました
「進行工程は今どの段階だ、ステージ2、いや3か?」
ーー現在、ステージ3ですーー
なるほど、脳細胞の一つ一つをニューロデバイスナノマシンへ置き換える作業は終了済みか。
だが一切の実感がない。これなら、無機物質化した脳(ニューロユニット)が身体から摘出される瞬間すら自分には意識できないはずだ。
ステージ4までここから3時間弱。そのころには、ニューロユニットすら解体解析されながら、思考パターンプログラムへと徐々に置き換えられ、やがて完全に物理的な形を失う。
――智也様には、沙紀様よりプライベート空間の提供がありますが、そちらへの転送を望みますか? それとも通常手続きにのっとり初期出現エリアへの転送を望みますか? ――
「プライベート空間へ」
――了解いたしました。転送いたしまします――
次の瞬間景色が引き伸ばされる様に歪む。全ての色と光が前方へと集まりデジタル的に弾け、新たな景色を構築する。
相対性理論が導く光速移動時の景色の歪みを、デジタル的に再現した現象。開発者達の遊び心が生んだ転送時の派手な演出だ。
この演出には自分も一枚噛んでいるが、それを体験出来た感動よりも、再構築された風景に智也は息を飲んだ。
今朝まで自分が居た空間。決して広いとは言えないリビングに沙紀が選んだ赤いソファー。都内に構えた自宅の風景だ。
だが今朝までそこに有った物が無く、逆にあるはずの無いものがそこにある。
散乱していたはずの、コンビニ弁当や、カップ麺にビールの空き缶が無い。綺麗に片づけられた部屋。
テーブルの上に無造作に飾られた花瓶には、沙紀が好きだった花が彩る。沙紀の気配。彼女が生活している気配がこの空間には溢れている。
何もかもが懐かしかった。あの時のままだ。全て。
沙紀と知りあったのは、中国に端を発した新種のウイルスが齎した混乱の影がようやく消え去り、日本では中央リニアエキスプレスの開通がメディアで大きく取り上げれていた年だ。2027年4月、自分が修士一年、彼女が学部卒論生として、同じ研究室に入ってきたのだ。
変わった子だった。話す事全てのスケールが大きいというか、常識を超えているのだ。そのせいで周りからは、少々浮いていた。
だが話しているうちに分かった。それは彼女が身に着けている知識が、一般の者より遥かに深く、頭の回転が並はずれて良いが故だ。そのクセして、興味の無い事は常識に思える事すら知らない。この事実が彼女特有の発言を産んでいたのだ。
そんな彼女が自分などに興味を持ってくれた事は、人生最大の幸運だったのだろう。
付き合い初めて半年で同棲。彼女が学部を卒業し、自分と同じ修士課程へと進むと、お互いの卒業を待たずに結婚しようと言いだした。
就職してない学生の身での結婚に戸惑いは当然有ったし、少なくとも彼女の父親は反対すると思った。だが同時にこの機会を逃せば、自分は永遠に彼女を失うのでは無いかという恐怖の方が大きかった気がする。
沙紀には父親がいない。彼女が中学の時に癌で亡くなっていた。その事実を知ったのは沙紀の家を訪れると決心し、その旨を彼女に伝えた時だ。そして彼女の母親は結婚に反対はしなかった。むしろ反対したのは自分の親の方だ。
自分の両親とも沙紀の事は気に入ってくれた。だが同時に、だからこそ決めるのは、安定した社会的な地位を得てからの方が良いと言ったのだ。当然の言い分だ。
しかし沙紀は、独自の価値観を伴った演説と、これからどうやって生計を立てるのか等具体的なプランまで提示し、遂には自分の両親を説得してしまった。
狭いアパートでの相変わらずの暮らし、当然式もあげれなかった。
親からの仕送りも止まったため、塾の講師や家庭教師のアルバイトを二人でやりながら生活することになった。学費は元々お互い奨学金だったからこれは、とやかく言われる筋合いはない。もっとも世間的に見れば決して褒められた行為ではないが。
自分の研究と、仕事を両立させるのは大変だったが楽しかった。自分は沙紀と出会ってからの方がよっぽど人生が上手く行っていると感じた。
不思議と研究自体行き詰まる事が少なくなったと感じたほどだ。彼女と出会い、フラついた身分で結婚したことで、かえって色々な事を真剣に考えるようになった。
アルバイトも研究も、今までになく真剣に取り組んだ。
そして後にフロンティアを生み出す事になる大手医療機器メーカーへの就職が決まり、一年遅れて、沙紀も同企業へ就職する。
それから五年後、小さいが都内に一軒家を構えるまでに至った。全てが夢のようだった。
ある日、彼女は顔を少し赤らめ、大きな瞳にことさら感情を乗せて言った。「妊娠したかもしれない」と。
そろそろお互い子供が居てもいい頃だと思っていた。沙紀の仕事には当然大きな影響が出るが、沙紀自身が仕事よりもそれを望んだのだ。
だからその日はお互い抱き合い喜んだ。
その翌週に休みを取り、二人で訪れた婦人科。この日、彼女の妊娠が確定し改めて祝うはずだった。
沙紀の妊娠が確定したのと同時に見つかった腫瘍。そして数日後に下された診断結果。
子宮頸部扁平上皮癌。
あまりに脆く崩れていく未来。
それでも沙紀は気丈に振る舞った。子宮頸癌という検査結果が出たからとと言って直ぐに子を諦めなくてはならない訳ではない。進行具合によっては産後まで経過を見守ることだってある。それを沙紀は自分で調べ上げた。
だが、彼女が思っていた以上に病変は進行していた。
全摘を進める医師に対し、沙紀は妊娠を継続しながらの『円錐切除術』を主張した。
何処までも強く、気丈だった沙紀。医者と対等とは言わないまでも、納得いくまで議論するまでの知識を身に着けていた。
だが、それでも待っていたのは残酷な結末だった。子はその半年後に流れる。そして四年後、病魔は再発した。今度はさらにたちの悪い物となって。
リンパ節への転移が明らかになると、まるで沙紀は今までの戦いに終止符を自ら打つかのごとく、フロンティアへの移住を希望した。
反対など出来るはずがなかった。日に日に痩せ細る沙紀の姿が蘇る。そして何より決断するなら脳への転移が起きる前にしなくてはならなかったのだから。
そして自分は沙紀の温もりを失った。
それからというもの沙紀との会話は、受話器を通してのものとなる。声の復元技術はおろか、感情を合成音声に乗せる技術も追いついてない。あまりに無機質な沙紀の声。この声が彼女のものとは信じたくなかった。
一人きりの自宅はあまりに広く寂しい。この家は彼女と迎える未来のために購入したのだ。決して一人でここに住むために買ったのではない。
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