二話
「よし」
魔女は水面に映る自分の顔を確認して、うんと頷いた。
透き通る泉の水に浮かぶのは、そばかすのある素朴な顔立ちの少女だ。くすんだ茶色の髪を三つ編みにし、質素なエプロンドレスを着たその姿は、魔女であって本当の魔女の姿ではない。
商売でこれから街へと向かうために、『姿変えの魔術』を使ったのだ。
鏡が赤バラと同じく大嫌いな魔女の住処には、自分の姿を映す物がない。だから彼女はわざわざ、塔の側のこの泉までやってきて、自分の変身ぶりを確かめていた。
いつも通りの完璧な出来に満足した魔女は、薬の瓶が入った籠を持ち立ち上がる。
この魔術は、使う魔力量が多く、面倒な魔方陣を書いたりと手間がかかるわりに、効果が短い。
下手をして人前で魔術が解けるなどないように、さっさと仕事を片づけなくては。
ゆっくりしている暇はないと、魔女は速足で泉を後にした。
陽が傾き始め、賑やかな街の通りに、人の気配が少なくなった頃。
ようやく、魔女の持つ籠の中は空になった。
ここまで遅くなる予定はなかったのだが、今日は売り上げが伸びず、つい粘ってしまった。早く引き上げないと、魔術が切れる時間が近づいている。
魔女は心なしか焦りを滲ませた足取りで、夕焼けの赤が降り注ぐ街中を、籠を揺らしながら歩く。レンガ造りの家々には明りが灯り始め、目の端に過る店は看板を下ろし始めていた。
本格的に迫る魔術切れの時間に、ますます歩みを急がせていると、ふと、魔女はまだ店仕舞いをしていない一件の店の前で、佇む一人の青年を見つけた。
夕暮れに染まる景色の中でも、映える純白の団服。
逞しい後ろ姿に、明るい茶色の髪。
間違いない―――――ハイルである。
「!」
咄嗟に、魔女は近くの路地裏に飛び込んだ。薄暗い少し離れたその場所から、彼の様子を窺う。
実は、魔女がハイルの姿を見るのは、約二ヶ月ぶりなのだ。
あの99回目のプロポーズをされた日以来、何の前触れもなく、彼の訪れは急にパタリと無くなった。
なんせ騎士様だ。仕事でも忙しくなったのだろうと、魔女は安易に考えていたが……。
よく見れば、彼が居るのは花屋だった。
店頭では可憐な花々が、すまし顔で訪れた客に愛想を振り撒いている。だが、ハイルはそんな花たちには目もくれず、すでに欲しい花の注文を終えているようだった。
やがて、店の中から出て来た女主人から花束を受け取って、彼は大事そうにその腕に抱えた。花束を見つめて、ハイルは愛しくてたまらないといったような、慈愛に満ちた優しい笑みを浮かべている。
そんな彼の腕の中にあるのは―――――鮮やかな炎の如く咲き誇る、真っ赤なバラたちだ。
「なんで……」
知らず知らず、魔女はそう呟いていた。
極々自然に、当たり前のように、魔女はハイルがここに居るのは……いつものように、自分へと送る花を買うためだと考えていた。
彼が来る時間帯はいつもバラバラだし、今から花束を買って、100回目のプロポーズでもしにくるのではないかと。
自惚れて、いた。
だけど、彼の持つ花は、魔女が忌み嫌う『真っ赤なバラ』だ。彼もそのことを知って、最初のプロポーズからは決して、避けて持ってこなかった花。
そこから導き出す答えは簡単。
――――あの赤バラの花束は、魔女に渡すための物ではないのだろう。
「ねぇあれ、王国騎士のハイル様じゃない?」
「あ、本当だ。何か花束を持っているわよ」
ちょうど、通りすがった街娘二人が、ハイルを見つけて話題にする声が魔女の耳へと届いた。
彼女たちは声を弾ませ、会話を続ける。
「赤いバラってことは、誰かに求婚するのかしら。素敵ねぇ、ハイル様に『結婚してくれ』なんて言われたら、私なら旦那がいても了承するわ。異例の急出世で騎士団入り、性格も気さくで、おまけに美男子! 彼に求婚されるなんて、さぞ魅力的な女性なんでしょうね」
「あら、あなた知らないの? ハイル様が最近、よく王国魔術師のリラ様のところに通っていること」
「え、リラ様の!? ……うーん、悔しいけど、美男美女でお似合いだわ。騎士と魔術師なら、身分も釣り合っているし」
王国魔術師……と、魔女は脳内でその言葉を反芻した。
まず、魔術の行使に必要な魔力を有するのは女性に限られ、その才ある者も一握りだ。
だが、同じ『魔術』を使う者でも、『魔女』と『魔術師』では、その認識に大きな差がある。
前者は、私利私欲のみに力を使い、不気味で禍をもたらす、忌み嫌われる存在。
そして後者は、国に認められた、大衆のためにその力を奮う、尊き存在。
そして、話題に出てきた『王国魔術師のリラ』の名は、魔女も知っていた。
唯でさえ高い身分の魔術師の中でも、上に王国とつけば、それはこの国での身分は最高クラスに近い。特にリラは、まだ若くしてその地位についた天才魔術師。それに加え、心根も容姿も優れた、非常に愛らしい女性だそうだ。
そんなリラとハイルが……?
「じゃあ、ハイル様が頻繁にあの『毒バラの魔女』に会いに、宵闇の森に通っているなんて噂は嘘だったのね。おかしいと思ったのよ、魔女に会いに行ってるなんて。だいたい、その魔女に会ったら呪われちゃうんでしょ?」
「さぁ? 私が聞いた話だと、魔女が育ててる黒いバラに触れたら、呪われるって聞いたけど」
「どちらにせよ、ハイル様がそんな気味の悪い魔女を相手するわけがないわね。あ、それとさ――――」
――――魔女が話を聞けたのはそこまでだった。
この場に居ることが耐えられなくった彼女は、弾かれたように走り出す。
全速力で街中を駆け、途中で籠を落とし、人にぶつかっても、魔女は気にすることなく足を動かし続けた。
街から出たところで、風を受けて踊る彼女の髪は、茶色から光のない金髪へと変わり出す。汗を伝う肌も、程よく焼けた小麦色から、病的なまでの白さへと変色した。
そして、塔につく前に、泉の辺で力尽きて座り込んだ魔女は、すっかり元の自分の姿へと戻っていた。
「うっ、くっ……」
後から後から、涙が流れて止まらない。
思わず視界に入ってしまった、泉に映る自分の顔を見れば、悲しみはさらに膨れ上がって溢れた。
魔女の透明な涙は、右目からしか流れない。それは――――彼女の鼻の下から額にかけて、左半分すべてが、熟れて潰れた柘榴の実のように、醜くひしゃげているからだ。
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