土曜日
今日は学校がない日だった。だけど、どこかに遊びに行こうという気にはとてもなれなかった。なんなんだろう、この消耗度の高さは。コンビニの仕事はそんなにハードワークではないはずなのに、肉体はそうでもないんだけど、精神がまいっていた。
布団から起き上がる事ができずに一日が過ぎて行く。
気がつけば、もう準夜勤務の時間だった。
今日のパートナーはお坊ちゃんで、またいつもの繰り返しが待っているんだと思うと、体がバイトにいくのを嫌がってなかなか起き出せないでいた。でも遅刻なんかしたらそれこそ若き店長にどう言われるか分かったもんじゃないから、体に鞭を打って起き上がる。
お坊ちゃんはその日も予想通り、センター便が終わる頃には事務所で寝ていた。若き店長はセンター便が終わる前に帰った。
なにもかもがいつも通りだった。
深夜勤務に来るはずの不死鳥がすでに一時間も遅れていることさえ、日常茶飯事だ。
レジに立ったまま、大きくため息を吐いた。
お坊ちゃんが話しかけてくる。
「あの、俺帰ってもいいですか? 明日朝早いんで」
お坊ちゃんのすがるような目に断る言葉が浮かばなかった。
不死鳥の場合、今日はこのまま来ない事も考えられたので、さすがにお坊ちゃんを代わりに残すわけにはいかない。事務所で寝続けられて、気がつかない間に盗難とかされたら大問題だからだ。俺が残るしかない。
「ありがとうございます! 本当によかった! やった!」
お坊ちゃんは命からがら救われたように大げさに喜んで、逃げるように事務所に駆け込んだ。なんなんだあいつは。
深夜勤務に入るのは本当に久しぶりだ。今日はずっと家で寝ていたからよかったけど、そうでなかったら気持ちが折れていたかもしれない。
深夜勤務の仕事は、フライヤー機の油交換と機械の掃除、フライドフードのショーケースとおでんの容器の洗浄、床の掃除、毎日届く大量の店内商品の補充、本と新聞の返本、これから届けられる冷凍便やパンの陳列とあげたらきりがない。仕事量以上に、それを一人でやらないといけないプレッシャーが一番キツい。
深夜勤務中は、お腹壊したからといって、トイレに駆け込む事すらハイリスクだ。
もう一度だけ不死鳥に電話をするけどやっぱり繋がらない。
今日はもう最後までやる覚悟を決めた。
不死鳥はこうやってしばしば遅刻したりバックレたりする。彼と一緒にシフトに入っている人、あるいは前後で彼のシフトと繋がっている人は常に爆弾を抱えているようなものだ。
そんなに好き勝手やっている彼なのにどうしてクビにならないのか。
それは彼が持って生まれた人たらしの才能だと思う。
不死鳥はどうしても憎めない奴だった。
ずる賢いところがあっても抜けているというか、話をしていて調子のいい事言っているなと思っていても、しょうがないから話を聞いてあげようと思ってしまう。
遅刻とバックレの常習犯だし、仕事は手を抜くし、とても人間として信用できないんだけど嫌いになれない。
理由はないんだ。だからこうなると才能だとしか言えない。
世の中には彼みたいな人も確かにいる。
実際に、若き店長が来てからも何度も遅刻とバックレをやらかしているのに、若き店長はクビにしなかった。
反省文に土下座からただ働きまで、実に様々なバリエーションでの謝り方でことごとく乗り切った彼を、パートリーダーなんかは、「あの子なんなの? 若き店長の親戚だったりするわけ?」と怒っていた。
本当に、今日みたいな事があるんだからクビにすべきなんだけどね。
もう夜中の二時を回っていた。
今日はもう来ないだろうなと思っていると、お店の入り口から不死鳥が入って来た。
レジカウンター内でフライヤー機の清掃をしていた俺は、驚きを隠せない。
不死鳥の顔は真っ赤だった。
不死鳥は、ヨロヨロとおぼつかない足取りでレジまで歩いてくる。
「ごめぇんよぉ。遅れたぁ」
不死鳥は見るからに酔っぱらっていた。
「本当にごめぇよぉ。今から出るからなぁ」
レジカウンターによっかかる不死鳥から酒の匂いがして、思わず苦笑いしてしまう。
「不死鳥」
「おう」
「今日は帰れ。俺が出るから」
「え? いいのかぁ?」
顔を真っ赤にしたへべれけの状態のこいつに任せるのは、お坊ちゃんに店を任せる以上に危なかった。
「いいから帰れ!」
自分の声が泣きそうに聞こえた。
もうなんなんだよ、この店は。
不死鳥が帰った後は、一心不乱に仕事に打ち込んだ。
余計な事を考えたくなかった。
こんな仕事の仕方が許されるのか。どいつもこいつもふざけんじゃねえよ。
気を緩めると、泣きそうだった。
でも、せめて自分だけはちゃんと仕事をやろう。人をおかしいと思うなら、自分はそうならないようにしなきゃ。
お店のドアが開いた。
ドアが開く度に音が鳴る仕組みなので、お店のどこにいてもお客さんの来店が分かる。
「いらっしゃいま……」
言葉に詰まった。一瞬見えたお客さんの姿に我が目を疑う。
涙目だから間違って見えているんだと思って、目を袖でこする。
チラッと見えたお客さんはブリーフだけだった。このお店には変わった人はよく来るけど、ブリーフ一枚だけなんてありえるのか?
慌てて仕事を中断してお客さんの後を追った。商品棚が通路を隠すので、お客さんの姿は見えない。お客さんが向かった先に別の通路から近づいていく。
お客さんはレジから一番離れた栄養ドリンクのコーナーの前にいるようだった。
うんこの匂いがした。
どうして?
最初は気のせいだと思ったけど、うんこの匂いが確かにする。さっきまでお店ではなかった匂いだ。どういうこと?
栄養ドリンクのコーナーがある通路に出て、ブリーフのお客さんを見た。
ブリーフがうんこまみれだった。
目が合った途端、ブリーフのお客さんは自分の腕で自分を抱くようにして縮こまった。
恥ずかしいと訴えているようだった。
慌てて、元来た道を戻る。
え?
どういこと?
またお店の入り口が開いた音がした。新しいお客さんだ。
背伸びして通路から顔を出すと、カップルだった。こんな時間に出歩くなよ。
ブリーフのお客さんが動き出したのが気配で分かった。
カップルが店に入って一番外側の通路を歩いて行き止まりで左に曲がって、栄養ドリンクのあるコーナーへやってくる。
ブリーフのお客さんはもう駆け出していた。
すれ違い様、女性の悲鳴が上がる。
ブリーフのお客さんはそのまま、お店を出て行く。
一瞬の出来事だった。
俺はうんこの匂いが残る現場を静かに離れた。
ここまでくるともう意味が分からない。
事務所に戻って、ペンを取るとすぐに深夜勤務者が記入する報告ノートに出来事を書いた。
うんこブリーフ男現れる。
ここでは、何もかもが常識という枠をたやすく越えてくる。
まいったな。
カップルからうんこブリーフ男のことでツッコミもなく、その後は大きな事件も起こらずに無事に朝を迎えられた。
朝勤務者は、アニメオタクとパチプロの二人だ。
お店の入り口が開くと、一陣の風が吹きぬけたように感じた。
パンチパーマにサングラスをかけた黒いスーツ姿で立つアニメオタクがいた。
アニメオタクはサングラスを取ると、スーツの胸ポケットにかける。そして腰を落とすと、両手を太ももの上に置いたポーズを取る。
「どうもおはようございやす」
俗に言うヤンキー漫画でよく見られる挨拶の姿勢だった。
立ちくらみがした。
今ハマっているアニメのジャンルがなんなのか一目瞭然だった。
時計を見た。
もう朝勤務の開始時間少し過ぎてるんだから、急いでほしい。
続いてその後ろからパチプロが店に入ってくる。
「どけどけどけーい」
パチプロは、入り口で決めポーズのままのアニメオタクを後ろから蹴っ飛ばした。
「邪魔だよ、突っ立ってんじゃねえよ」
蹴り飛ばされて、床に倒れたアニメオタクは悲鳴を上げた。
「ご、ごめんなさい」
パチプロは振り向きもしないで、店内側の入り口から事務所に入っていた。
「ほら、お前も急いで」
倒れたままのアニメオタクに声をかける。
「は、はい」
アニメオタクは慌てて立ち上がって事務所へ向かった。
「いやぁ、すんませんねぇ。ちっとばっかし、遅れてしまいましたわぁ。昨日勝ったもんだから、朝まではしゃいじゃったんですよ」
江戸っ子のような気質のパチプロは、頭を掻きながらレジに入って来た。
「いくら勝ったの?」
「聞いて下さいよ。なんと! 五万もですよ! それまでは五万円も負けてたんで、最後の最後に逆転してやりましたよ」
いや、逆転してないでしょ。
「その五万円を使い切ったの?」
「はい。祝勝会ですよ。風俗行きやしたっ」
パチプロは清々しい顔をしていた。
「お金とっておくべきじゃなかったの?」
常識的なことを口にすると、パチプロは大笑いする。
「何言ってんですか。カッコ悪い。オリャ、宵越〈よいご〉しの金は持たない主義なんですよ」
なんだか俺が間違っているのかと錯覚してしまうので、それ以上の会話はやめた。
「そっか。じゃあ、俺は上がるね」
「あっすみません! ちょっと」
呼ばれて振り返ると、パチプロは頭を下げて手の平を目の前ですり合わせた。
「ちょっと金貸してもらっていいですか? 勝ったら返しますんで」
俺は大きなため息をついた。
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