11 約束

「お久し振りです」


「ああ、きみか、久し振り」


「ご結婚なされるんですってね。おめでとうございます」


「ありがとう。でも妻候補は今更のようにグズッてるよ」


「うふふ……」


「そういえば鈴子さんは今度お子さんが幼稚園だって……」


「はい。ようやっと」


「いや、早いよ。あっという間だな。で、今日は何か用があって……」


「忘れましたか」


「いや、覚えているよ。身体の方が覚えてしまった」


「十年なんてすぐですね。あっという間」


「いや、そんなことはないだろう。……鈴子さんは結婚したし子供も生んだ」


「だからそれなりに幸せです」


「ならば、もういいじゃないか」


「けれど約束は約束です」


「ふうむ」


「でも、あの頃のことが嘘みたい。当時、健さんのまわりにはいくらでも綺麗な人たちがいたというのに……。変わったわ」


「そんなことを言ったら鈴子さんだって変わったよ。落ち着いて頬が柔らかくなった。お母さんの顔にもなった。きっとご主人がいい人なんだろうな。ぼくだったら決してそうはならない」


「かもしれません。でも」


「行為を重ねるのは簡単さ。でも、それでは結局終わらないな。いろんな拘りを消さなければ……」


「あの日から今日でちょうど十年目。一年後の昼下がりに健さんの元を訪ねた帰りの約束が十年でした」


「ぼくは十年間欠かさず訪ねろなんて言っていないよ。もっと早く吹っ切れば、そこで終わりだったんだ」


「だけど健さんは十年間を許してくれた。あのときは、それを猶予だと思いました」


「ぼくはあなたと結婚すれば良かったのかな。思い切って……。でもそれではあなたが救われない」


「救われたいと思ったことなんか一度もありません。でも長い時間、健さんの傍にいるのはきっと無理。健さんを殺してしまうかもしれないから……」


「ぼくは簡単には殺されないよ」


「ええ、それはわかっています。それに奥様と生きると決めたことも……」


「妻候補のことを知っているの」


「健さんのことはほとんど全部」


「怖いなあ」


「でも最近は知らないことの方が多くなりました」


「ぼくは鈴子さんのことをほとんど知らない」


「そうでしょうね。でも子供を産んでからわたしが美味しくなったのは知ってるはず。そんなことは、ちっとも言ってくれませんが」


「口で言えば伝わるものでもないだろう」


「最近では主人もわたしとするのがすっごく楽しみみたい。でもこんなこと口にするなんて、わたし、はしたない女になったわ」


「羨ましいな。ぼくは今でもちっとも上手くないし、それに長く持たない」


「でもあのときはわたしの全部を持って行った」


「勘違いさ。ぼくが初めての相手だったからだよ。それ以外の理由があるかどうかは知らないが」


「健さんが健さんであることがその理由です。わたしがわたしであったこともそうですが……」


「二回目の最初のときはこんな会話はしなかったね」


「ええ、確かに。だんだんと長くなりました」


「どうしてだろう」


「わかりません」


「でも本当はわかっているんでしょ」


「……としても、それはわたしの勘違いです」


「いいから、あなたの口から言ってごらんよ」


「そんな恥ずかしいこと言えません」


「でも、そのための十年だったんじゃないのかな」


「さあて、どうなんでしょう。だけどもしかしたらそうなのかもしれません。執着って変わるんですね。知りませんでした」


「ああ、ぼくも知らなかったよ。不思議だな」


「不思議……」


「今はあなたといると心が安らぐ」


「昔は違った」


「そうだな」


「うふふ」


「どの辺りから変わったと思う」


「きっと二年目には変わり始めていたんですよ」


「……かもしれないな。きみが再び目の前に現れるとはぼくは夢にも思わなかった」


「健さんが薄情な人としか付き合わなかったからですよ」


「全部じゃないさ。でも本能的に気づいた人はすぐに逃げた。だから今は幸せだろう」


「わたしも幸せですよ」


「知ってるさ。だからするにしても今日が最後だ」


「本当にもう来年はないのね」


「それが約束」


「ずるいわ」


「そうだよ」


「嘘つき」


「ああ、ぼくは嘘つきさ。だけどあなたはぼくが一番好きな人のことも二番目に好きな人のことも知っている」


「三番目の人のことも知っていますよ」


「残酷な人だな」


「女は全部残酷ですけど、わたしを残酷にしたのは健さんです」


「いったい何処で間違えたのだろう」


「愛も恋も全部がすべてが間違いです。でも心は間違いだから愛してしまう」


「鈴子さんはぼくのことなんか愛していないよ」


「はい、そうです。でも健さんはわたしのことを愛しています。もしかしたら二年目にわたしが健さんの家を訪れる前から……」


「今のあなたに少しでも自信をあげられたのがぼくだとしたら、きっとそれはぼくの生涯の宝だろうな。でも決して表には出さないよ。死ぬまで鍵のついた箱の中に仕舞っておく」


「ええ、わかっています。でも、わたしの方は決して仕舞ったりしませんわ。あのときの健さんの極上の笑顔はいつだって何処にいたってわたしのもの」

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