10 母
気がつくとわたしは首を絞められている。
息が吐き出せないし、吸い込めない。
吐き出しかつ吸い込みたいのにどちらもできない。
だからとても苦しいのだが、まだ死なない。
死ねないではなく死なないのだ。
人はそう簡単に死ぬものではない。
気がつくと呪詛が聞こえてくる。
大きくカッと目を見開いた、
わたしの顔の上に振ってくる。
「神も悪魔も信じないが神や悪魔がもしもいるなら是非ともこの女をこの世から消し去ってくれ」
それじゃダメだな、とわたしが思う。
それで相手を睨みつける。
「おまえの母親がいなければオレの母さんは死ななかったんだ。
オレはそのことさえ知らずにずっと育ったんだ。
母さんが耐えていることを知らなかったんだ。
だから無邪気に父さんのことを聞いてしまったんだ。
顔も覚えていない父親のことを……。
大きかった手の温もりだけは覚えている。
が、それだけだ。
オレは聞いてはいけなかったんだ。
せっかく母さんが過去に封じ込めた男のことをこの世に呼び戻すきっかけを作ってしまった。
いつだって母さんは気丈だった。
オレには強い母親の姿を見せた。
だけど母さんは女だった。
父さんのことが大好きな女だった。
か弱い、可愛い女だった。
儚い、幽けき女だった。
自分の母親を幽けき女に変えてしまったのはオレ自身だ。
オレが父さんのことを聞いてしまったからだ」
そうそれで良い、とわたしは思う。
自分の言葉で語れ、語れ……。
苦しいな。
あと何分、いえ何十秒、わたしはこの男の言葉を聞けるのだろう。
「クズ女。
見かけは綺麗だが、おまえもおまえの母親同様クズ女だ。
オレはこれからおまえの命を奪ってやる。
おまえの母親にオレの母さんの無念を伝えてやる。
肉親が突然死ぬという狂おしいまでの悲しさ/恐怖を味わわせてやる」
なるほどそういうことなのか。
それがわたしに近づいた理由か。
わたしは妙に納得する。
……と同時にあまりにも馬鹿々々しくて吐きそうになる。
あまりに陳腐で胸が悪くなる。
「オレの父さん、いやクソ親父はおまえの母親の許に行ってしまった。
母さんを捨てて行ってしまった。
弱い母さんを捨てて行ってしまった。
そうなるとわかっていたのに行ってしまった。
『だって、わたしの方が父さんのことを好きになったのだから仕方がないのよ』
悲しげな目でオレにそう告げた母さんの俯いた笑顔が忘れられない。
父さんのことが、オレのクソ親父のことが、母さんはそんなに好きだったんだ。
その事実を知って、オレは地獄に落とされたような気持ちになった。
母さんはオレの中に父さんの面影を見て耐えていた。
だからそれ以外を口にしなかった。
オレの母さんは馬鹿ではない。
だからオレが父さんのことを心底憎むだろうと予想した。
それでおまえの親父でもある男の情報を一切オレに話さなかった。
売れない画家であることすら教えなかった。
いずれオレが自分の気持ちを理解してくれる息子に成長するだろうと願っていた。
だから、どこまでも口を閉ざした。
だが、その裏には悲痛な決意があったんだ」
恨め、恨め、恨め、とわたしは思う。
憎め、憎め、憎め、とわたしは思う。
全身全霊で恨め、全身全霊で憎め……。
中途半端ではダメだ。それではわたしになってしまう。
中途半端ではダメだ。それでは少し前までの健になってしまう。
おそらくそういうことなのだ。
わたしと健はお互いのことを諦めたのだ。
だから若い健は身近な処女たちや日常に疲れ切った主婦たちを犯し続け、わたしはわたしで狂ったように/奔放なように/自らの意思であるかのように、あらゆる年齢層の男たちに抱かれることによってわたし自身を犯し続け、今でもそれから抜けられずにいる。
わたしは今、自分がこれまでし続けてきた蛮行の制裁を受けているのか、違うのか。
ああ、意識が遠退いて行く。
「オレが大学に入学して、やがて就職が決まった年、母さんは永年の想いを遂げるかのように死を選んだ。
父さんと出会った思い出の北の湖に自らの意思で入水して亡くなったんだ。
しばらくの間湖面に浮かび上がって来なかったのは身に着けていた服に石を詰め、足に縛ってボートから身を投げたからだ。
母さんがどうしてそんな方法を取ったのか、しばらく前までわからなかった。
が、わかるときには一気にわかるものなんだな。
母さんが残したわずかな証拠――油絵の具だよ。
緑色の――と当時住んでいた町の近隣者たちからの話でオレは自分の且つおまえの父親のことを知ったんだ。
同時に母さんの自殺の方法が南方の女に憧れた北方の男の自殺法であることも知った。
湖と滝の違いはあるが、伝えたかった気持ちは同じだろう。
おまえの父親はあの湖でよく泳いでいたそうだからな。
やがておまえの母親の居場所を突き止めると同時におまえのこともオレは知った。
芋蔓式におまえの幼馴染の男のことも知ることになった。
オレがおまえに近づきコトの後で自己紹介したときあの男の名を仮名に入れ込んだのは咄嗟のオレの思い付きだったが、あのときのおまえの死んだような目が生き生きと塗り変わっていく様子は見ていて相当面白かったよ。
あの男は直に結婚するらしいな。
おまえじゃない真面目そうで不美人な女と……」
そうだ、健には伴侶がいる。
あえて過去を悔いる気はないかもしれないが、生活を変えようと決心したのだ。
わたしだって己の行為の愚かさにはいつだって正しく気づいていたが、未だ自分を変えることができずにいる。
それも一つの選択肢なのだが……。
「おまえの/オレのクソ親父本人はおそらく自由人のつもりだろう。
だが過去に何度も女を取っ替え引っ替えして暮らしてきたクズ野郎だ。
オレもおまえもそんなクズ野郎のクソ親父の子供なんだ。兄妹なんだ。
だからおまえはふしだらな生活をいつまでも繰り返し、オレはオレで今人を殺そうとしているんだ。
母さん、ごめん。でもオレにはこんな方法しか思いつけない。
母さんの恨みを晴らすための方法を……。
この女の母親がいなければ母さんは父さんとずっと一緒にいられたとそう思って長い間暮らしてきた。
そしてやっと始まるんだ。
母さんの恨みを晴らす二幕劇がやっと……」
男が言って、わたしの首に力を込める。
込めたはずだ。
が、それは少しも強まらない。
プルプルと指の先が震えている。
それでわたしの息が勝つ。
ゲホゲホゲホと激しく咳き込みつつも他の身体のパーツの力を借りて男の両手を弾き飛ばす。
猛烈な生のパワーで弾き飛ばす。
「ぐぉほ、ぐぉほっ、ぐぉほ、ぐぉほっ……」
身体を九の字に曲げて/真っ直ぐに伸ばして、わたしが大きく咳き込んでいる。
気が遠くなるほど苦しいが、結局のところそれくらいだ。
だからわたしは生きている。
一旦はわたしを死の淵に追いやった男だったが、そこまでだ。
「げほっ、おえっ、あなたの恨みは所詮その程度のモノなのよ」
激しく咳き込みながらわたしは言う。
「わたしの命を奪うほどには大きくなかった。
でももうあなたの中から恨みは消えたわ。
あなたの両腕にもそれくらいの力はあった。
だからもうあなたは自由。
ごほっ……。
やだな、血まで出てきた。
心機一転して、この部屋からは引っ越しなさい。
でも今だけはこうしてあげる」
静かに涙を流し続ける崩折れた若い彫像をわたしは前から抱きしめる。
まるで男の死んだ母親のように優しい気持ちで……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます