5 婚約
「健のお母さん、いい人だよね」
「そっかあ。欲しければあげるよ」
「だけど少し断念だったみたいだね」
「何が」
「わたしのことが……」
「そんなことないと思うけど」
「あたし、健ほど繊細じゃないけど、でも鈍感でもないから……」
「じゃ、気にすんなよ」
「うん。それしか手はないみたいだね」
「まるで他人事みたいに言うなよ」
「だってそんな感じ無きにしも非ずだから……」
「結婚してくれって言ったのは恵の方だろ。ずいぶん前のことだけどさ」
「まさか本当になるとは思わなかったわ」
「ぼくの方はその気でいたよ」
「うん、知ってる」
「それなら問題ないだろう」
「怖いのよ」
「何が」
「このままずっと二番手でいることに耐えられるかなって……」
「それならぼくを振ればいいじゃん。まだまだ全然間に合うよ」
「世間にはね、好きな人の心の中に一番好きな人がいてさ、それが自分じゃないと知ってても結婚する人はいくらでもいると思うんだよね」
「だから」
「でもさ、普通は一番好きな人のことはそれなりに相手に伝えると思うんだ」
「それで」
「わたしの大学の先輩だけど槍投げで全国大会まで行った彼氏を持っていた人がいて、その人のことはたぶんずっと心の中では一番なんだろうけど結婚相手じゃないからって別の人と結婚したわ。もちろん結婚した人のことも別の意味で二番目じゃなくて愛していたのだろうけど……」
「恵が一番だっていつも言ってる」
「でもその槍投げの人のことは話しているのよ。結婚前に……。だけど健は一度だって一番目の人のことを話してくれない」
「だからいないんだって……」
「嘘」
「あのとき以来だな、こんな会話」
「健には不快だと思ってさ」
「お気遣いありがとう。不快じゃないけど自分が情けなくなってくるかもね」
「どうして」
「自分が好きになった人に信じられていないから……。あるいは信じてくれないからかな」
「だって健には一番目の人がいるんだもん。わたしにはそれがわかるんだもん。それなのに大学に入ったときからずっとわたしと付き合い続けて、健目当てで擦り寄って来た女たちは沢山いたけど誰一人として近くに寄せ付けずにこれまで来て、他の女の陰もまるでないし……。どうして」
「どうして、って、こっちが訳を聞きたいよ。何故そう思うわけ」
「知りたい」
「ここで『別に』とか言うとまた言わないんだろう」
「たぶん、そう」
「ならば聞く」
「本当に自分で気づいてない」
「だから何をさ」
「自分の寝言」
「寝言だったら気づくわけないじゃん」
「健って、ときどき明晰な寝言を言うのよ。付き合い初めに聞いたときには吃驚したというか戸惑ったけど、内容に不安は感じなかった」
「どんな内容」
「哲学的な話だったわ。現実には時間がないとか、時間は人間が発明した神と並ぶ偉大な発明であるとか、かんとか……」
「ふうん。まあ、今でもそう思ってはいるけど神様の方は迷惑な場合もあるな」
「それで一度だけ女の人が出てきたことがあって、その人の前では健は男じゃなくなるとか言ってたわ」
「他には」
「空から目が覗いているとか、後は忘れた」
「相手の名前は」
「それは言わなかった」
「ならばどうしてその相手が女であると思うのさ」
「それはその何となく……」
「女の勘」
「そんなとこかな」
「それで恵は苦しんでたんだ」
「苦しいって言うのともまた違うけどね」
「わかった。では、これからあなたに三つの選択肢を与えます。一つ、あなたが女だと思った該当者とぼくとの関係をあなたが知りたいと望むだけ話します。二つ、この話には今後互いに一切触れないことにします。その三、あなたの寝言に出てきたおそらく男の方だと思われる該当者についてぼくがどの程度知っているかをあなたに話します」
「わたしの寝言」
「お互いに変な癖があったみたいだね」
「じゃ、知ってたんだ」
「でも原因を作ったのはぼくなんだよね」
「怒ってないの」
「その点に関しては微妙。でもかなり反省したみたいだから」
「それでも結婚してくれるんだ」
「だから恵が好きだって言ってるだろ。……それから喋れば喋るほどボロが出るから早く黙った方がいいよ」
「わかったわ。でも聞くわよ。一番を……」
「いいでしょう。恵に話して聞かせやしょう」
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