後編:願い続け、戦い続け、その果てに

 ―――ガーデンツは没したか。


 ムオンは考える。オリヅア・D・ガーデンツがいなくなった今、これからどう進むべきか。己が望みを叶える為には如何にすべきか。


 ―――野に散らばった無名の者を探すか?


 それは下策だ。彼の望みはそれこそ人知を超える可能性がある者に委ねるべき事柄であって、ただ優秀なだけの者でも駄目だ。ましてや、決して凡俗には成し得ない。


 ―――されど他に手があるとも思えぬ。


 本当にそうか。集めた情報内にガーデンツに匹敵する魔術師はいないのか。


 否、存在する。


 世界にはガーデンツに比する魔術師に数えられる者がまだ残っている。ならばそれに頼ればよい。


 ―――しかし下手をすればさらに手間のかかることとなりかねん。


 それでも、無闇やたらにさすらうより良いだろう。所在も判明している上に、その実力も折り紙つきだ。あるいはガーデンツ以上と見ても良い。


 都合のいいことに戦が始まる。そこに乗じれば可能性は増すかもしれない。


 ◆


 ムオンは雑貨屋に来ていた。物資の補充のためである。しかし、今は国を挙げての戦時中だ。大方の物資は軍がかき集めているためか、一般の店に残るものは僅かばかりだった。加えて、店内にいる客はムオンだけである。


 店主は「客も物も足りやしねえ」と不服そうに頬杖をついていたが、それでも戦争に対する忌避感はない。魔物は人類に対する敵である、と誰しもが認識している。それを根元から叩くと言うのだから、民衆にとって圧迫された生活に不満こそあれ、反発は出ないのだろう。


 店主の憂鬱げな視線があちこちを這う中、いくつかの傷薬を手に取りながらムオンが品を見定めているときだった。不意に来客を知らせる鈴が鳴り、ドアが開け放たれる。


 入ってきたのは四人の人影。剣士レクス・アールヴィンとその一行だった。


「あれ?あなたは……」


 ムオンの姿を認めた少年は、年相応の屈託のない笑みを浮かべ、ムオンへと近づいていく。身に着けた決して軽くはないであろう金属製の鎧がガチャガチャと音を立てた。


「僕はレクス・アールヴィンと言います。昨日、城門でお会いした方ですよね?」


「……ああ。ムオンという。ガーデンツ殿の事は残念だった。あるいは助けられたかもしれぬだけに」


「いえ、僕達もあの時は何もできませんでしたから……」


「ちょっとー、いい加減暗くなるのは止めよーよ!師匠の遺志は私たち全員で、その技術は私とグランスで受け継ぐって決めたじゃん!」


 桃色のポニーテールを揺らしながら、アイヴェ・クレイムルは少年の背中を強く叩いた。握りこぶしで。しかし、少年は鎧を着ているのだ。荒事に向かない少女のか細い腕が悲鳴を上げる。


「いったぁー!」


「あらあら」


 それを見ていたもう一人の少女、ミーティ・アリアードは口元に手を当て、長く輝くブロンドを揺らして見てくれの通りに上品に微笑むが、三人の少年少女より一回り年上のグランス・F・マイスターは額に手を当て、胡乱な眼差しを送っていた。


「何をやっているんだお前は……」


「んもー!レクスのせいだかんね!」


「はは、ごめんごめん」


 アイヴェが尊大な態度で少年に八つ当たりを始めたところで、グランスは無視を決め込んだようだった。ムオンに向き直ると、被っているとんがり帽子のつばを少し持ち上げる。どういうわけか少々険しい目つきだった。


「さて、アホは放っておいて……ムオン君と言ったね。私はグランスという。いきなりだが、キミに一つ質問があるんだが良いか?」


「内容による」


「はは、正直だな。まあ実際、不躾な質問で悪いんだが……ラズエン将軍から士官の話を断ったと聞いた。悪くない話だと思ったが何故だろうか?キミほどの腕を野放しにしておくには惜しいと私も思ったのだよ」


「グランスさん、あまりそういった事は……」


 清廉なる少女の呼び声に相応しく、ミーティは気遣いの出来る少女のようだった。もっとも、初対面と言わずともほぼそれに近い状態で込み入ったことを突然聞いたグランスの無作法な態度を見れば、誰であってもそう思うだろう。


 事実、じゃれあっていたレクスとアイヴェも質問が耳に入るなり、動きを止めてぎょっとしていた。


「分かっているよ。勿論答えたくないならそう言ってもらえば良い。ただ、戦う相手が魔王だからな。多少の事には目をつぶってでも手を貸して欲しいんだよ。何より、彼の腕は確かだ。直接は見ていないが、多くの兵士が証言していただろう?あの強大な魔物相手に肉弾戦を挑んで全くの無傷だったらしいじゃないか」


「それは、そうですけれど」


「……確かな腕、か」


 独白のように呟いたムオンは右腕を掲げて、グランスへと差し向けた。その手は持ち上がってはいるものの、妙に虚脱している。


「それが理由だ。私は腕が効かなくてな。限定的な戦闘ならまだしも様々な面で足手まといになりかねん」


「え?でもさっきは傷薬を持って……」


「こんなものは飾りだ」


 男はそう言って、右手で左腕を掴み勢いよく引っ張る。すると、その左腕はろくな抵抗も見せず、肩口から外れてしまった。だらんと垂れ下がった作り物の腕が小刻みに揺れる。


「この通り、義手だ。多少ならば動かせもするが細かいところでは役に立たん。傷薬程度を掴んで持ち上げるのが精一杯だ」


 突然の異様な光景に、さしもの英雄たちも息を呑んだ。目前に自らの片腕を引きちぎって隻腕となった男が現れたようにも思えたのだ。義手の尋常ならざる作り込みもその思い込みに影響している。はた目から見れば完全に生の腕なのだ。


 されど、やはり英雄と呼ばれるほどの者たちである。その胆力も強かった。少年はすぐさま気を取り直し、義手をまじまじとみつめて感嘆していた。


「凄いですねこれ。とても義手とは思えないほど精巧だ……」


「特殊な魔術を施してある。おかげで日常生活に不便は感じない」


「魔導科学による産物か……少しそれを検分させて貰っても良いだろうか?」


 グランスの申し出に少し逡巡する。素っ気無い物言いをしたが、この腕はムオンにとってある意味では命よりも大切にすべきものだ。他人に触らせる事に忌避感が無いわけでもない。


 しかし、彼ら四人の勇名を鑑みれば迷いが生じてくる。あまり世間の情勢に頓着しないムオンであってもその名を知っている程度には確かな実力を持っている。ならば、あるいは彼らがムオンの望みを───


 ───少し、試してみるか。


 ムオンは取り外した腕を無表情のまま差し出した。それを受け取ったグランスは視線を鋭くし、ためつすがめつ眺め始める。魔術研究者の特異な視線。その真剣な様子に興味を引かれたのか、一級の魔術師であるアイヴェもまたその義手に横から触れる。


「確かにすごい珍しい魔術っぽいねー。義手のためだけに相当数の術式が埋め込まれてるみたい……ってあれ?違うなー。これ複数の術式を一つの術式として作り上げてるのかな?というか腕を動かすだけにしてはちょっと複雑すぎない?」


「ふむ、確かに簡略化はできそうだが……単純に腕を動かす以上の機能があるのかもしれん。定着のさせ方も非常に安定している。これの製作者は余程腕の良い魔術師のようだな。一度会ってみたいものだが……」


「それは不可能だ。この世にはもういないのだ。他の機能とやらも私は知らぬ」


「……残念だな。しかし意義はあったよ、ありがとう」


 ひとしきり検分して満足した様子のグランスから差し返された義手を受け取り、ムオンは再び肩口へと装着した。接続感を確かめるように、握りこぶしを作って、開いてを何度か繰り返すと、今度は軽く腕を上下に振る。


 ───可能性はある。が、確実性はないか。


 多少の落胆を感じながら、陳列棚の傷薬を三つほど手に取り、ムオンは踵を返す。その背中は、話は終わったと無言で物語っていた。


「店主よ、この傷薬が欲しい。いくらになる?」


 店主は毎度、とやる気なさげに値段を告げ、ピッタリの金額を受け取ると再び頬杖をついた。客商売としてはてんで駄目な態度ではあったが、ムオンはさして意にも介さず、出入り口へと向かった。


 レクスたちに対する別れの言葉はない。ただ、これ以上関わるつもりはないと拒絶の意志だけがにじみ出ている。


 しかし、それでもその背に向かって再び少年の問いが投げかけられる。


「あの、本当に戦いには参加しないんですか?」


「───別に目的がある。もともと、それをガーデンツ殿に頼むつもりだったが……代替手段を考えねばならなくなった」


「そう、ですか……」


 会話はそれきり。ムオンは振り返らない。レクスもそれ以上の言葉はなく、ただ扉の向こうへと消えていく背中を眺めていた。


「レクスさん」


 ミーティの暖かな手が硬く握りこんだ拳を覆っていた。眉根を寄せた表情がレクスの心を僅かに波打たせる。


「うん、心配かけたね、ミーティ。僕は大丈夫だ。例え一人であっても必ずルヴォルクを───殺す」


 少年の決意は強く、悲壮であり、荒ぶる怒りに満ちている。魔によって家族を奪われた彼を止めることなどできはしない。少年の過去を知り、今に至るまでを知っている少女は、それが理解できる少女の心は、ただ悲しみに落ちていく。


 魔は人を壊すのだ。


 ◆


 大国ミッドガーズの北に隣接するヴァルシュナ平原は広大な大地である。

 複数の小高い丘があり、鬱蒼と茂る林もあり、比較的開けた草原もあり、透き通った水を湛えた湖もある。気候も穏やかで、そこに住む動植物も数多く、大地も肥沃だ。人が新たに手を伸ばすには十分な環境だった。


 それであっても、人はそこに住むこと叶わなかった。原因は一つ、魔物の存在である。他のどの地域よりも強力な魔が闊歩する上に、平原を挟んだ反対側にはその元締めとも言える魔王の居城がある。


 それだけであればまだいい。この平原に人が進まなければ良いだけの話で済んでいた。だが、数年前から魔物の動きが活発化し、人的被害が多発するようになってから状況は変わってしまった。魔の大部分はこのヴァルシュナ平原を発生源とし、自由気ままに移動してくるのだ。

 即ち、ヴァルシュナ平原とは人類にとって災厄の根元。とても見過ごせるようなものではなく、既に国際的なレベルで対策が進められていた。その先陣としてのミッドガーズに好戦的雰囲気が漂うのも当然であろう。


 そして、つい先日、大々的に魔王からの宣戦布告があった。稀代の大魔術師、オリヅア・D・ガーデンツの命を奪うと言う大事を伴って。


 ミッドガーズはこれに対して怒りをあらわにした。元々、魔物に対する大反攻作戦を練っていたこともある。既に進めていた反攻軍の編成を急ピッチでまとめあげ、ついに種の存亡をかけた闘争の幕が切って落とされた。


 広大なヴァルシュナ平原に戦鼓が轟く。

 相対するのは人と魔の軍勢。

 質も量も豊富な魔物に対し、人が勝るものはその統制と知恵を生かした軍略のみ……のはずだった。今や、人が望みを賭けているものはそれだけではない。


 英雄。


 彼らは人の希望を一身に背負い、先陣を切って突き進んでいく。


 その力は凄まじかった。剣の一振りで何体もの魔物が吹き飛び、凄まじい威力の魔術が平原の地形すら変え、傷を負ってもすぐさま癒され十全な体制で戦いを続けている。人を逸脱したとも言える強大な力。さすがは英雄と言ったところか。


 見事に英雄達が切り込んだ周辺だけ魔物群れに対する押し込みが大きい。しかしそれを補うかのようにその至近は密度が高い。突き抜けようとする一本の矢を分厚い壁で押しとどめている様相を呈していた。


 魔物は獣の如き習性を持つ者がほとんどだ。それを統括する将軍のような一体───おそらくストウナと呼ばれる高位種を早々に仕留める軍略なのだろう。統制の崩れた魔物ならば、英雄の力を使わずとも人の連携を持ってすればそのほとんどが仕留めきれる。


 しかし、その思惑に従わない者もいる。

 戦線から引いた後方。それもミッドガーズ軍が陣を敷いている場所とは魔軍を挟んで完全に反対側。戦場を見下ろせる小高い丘にムオンは無表情で佇んでいた。


「決めたではないか。己の望みのために全てを捨てると」


 呟きが誰に聞かせるでもなく零れ落ちる。それからしばらく、ムオンはそこに佇んだまま、戦場を茫洋とした視線で眺めていた。


 戦線が動いたのは凄まじい咆哮が響いたときだった。英雄が分厚い壁を打ち崩し、魔物の軍勢を縦に割断したかと思うと、遠目から見てもはっきりと分かる程に巨大な岩───否、岩石でその身を成した竜が突然現れた。


 その名も岩石竜イーシュトラン。個体数は僅かでありながら、ヴァルシュナ平原の王者と呼ばれる強力な魔物であった。それが三体。樹木すら超える巨大な体を今までどこに押し込めていたのか判然としないが、その上空に浮かぶ小さな点が青き魔、ストウナであるとすれば、何かしらの穏形の手法を用い、手の内を隠していたのかもしれない。


 いずれにしろ、目論みどおり英雄達は指揮官たる魔に肉薄せしめたようだった。それがためか、魔の動きがミッドガーズ軍に向かうではなく、英雄達へとより集中するように変わっている。


「───もう、いいだろう?」


 呟くと同時、ムオンは駆け出した。向かう先は戦線とは真逆の方向。ヴァルシュナ平原を駆け抜けるひとつの影は、時折襲い来る魔物を蹴り殺しながら前へ向かって走り続ける。


 視線は平原のさらに先───魔王の居城に向けられていた。


 ◆


 男は身を潜め、目前の建造物の様子を茂みの隙間から伺っていた。


 魔王ルヴォルクの居城は異質な空気に包まれていた。城自体は一般的な作りで、外観だけで言えばミッドガーズ城との違いはほとんどない。ただ、規模が桁違いだった。


 おそらく、ヴァルシュナ平原以上に巨大かつ強大で、危険な魔物が居座っているのだろう。入り口に魔物の気配は無いが、考えも無しに飛び込むのは愚行でしかない。そもそも、魔物が大量に存在すると思われる場所にたった一人で乗り込むこと自体が異常とも言えた。


 ならば、ムオンにとってその行為が無謀となりえるのか。

 答えは否、である。彼にとって城内へ侵入することは異常であっても無謀ではない。事実、過去に何度か似たような場所に潜入し、全て成功させてきた経験があった。ムオンが最も得意とするところは戦闘技術ではなく、隠密行動なのである。


 ムオンは慣れた手つきで小さな薬瓶を取り出し、中に入っていた粉のようなものを自身に振りかけた。匂い消しの秘薬である。さらに、己の内に眠る魔力とは異なる力を発動させる。


 それは強いて言うならば生命の力。人の魂たる根源精霊そのものが持つ大いなる機能。火の精霊であれば魔力も無しに火を自在に操るように、魂の力そのものを自在に操る力であった。


 ───穏身術かくれみのじゅつ


 体の奥底に眠る魔力の波動までも隠蔽し、魔術に長けた者ですら欺く、隠密の基礎にして秘奥たる技術を持ってして、ムオンは自身の存在を───気配を極限まで薄れさせる。


 次いで、身を潜めていた茂みから音も無く飛び上がると、城壁を駆け上がり始めた。重力の法則に逆らうような動きであったが、ぐらつく様子は全く無い。なぜならば、彼の足元には確かに足場があったからだ。


 ───天駆術あまかけのじゅつ


 不可視の足場が生まれては消え、生まれては消えを繰り返す。魔力の波動は全く無く、ただ生物としてあるべき魂がゆらぐのみ。それすらも隠身術かくれみのじゅつが覆い隠し、他者のあらゆる認識から隔絶される。


 そうして、誰に見咎められることも無く、ムオンは城壁の窓へと辿り付いた。ガラスを通して内部を覗けば、石造りの壁が作る通路は暗く、点々と配置されたろうそくが微かな光を放っている。魔物の姿は見られず、気配も感じられなかった。


 無言でガラス戸に義手の指先を当てる。開き戸となっている窓には無用心にも鍵が備え付けられていなかった。あるいは魔王の自信のあらわれか。訝しげに思いつつも、窓を開けるとムオンはやはり音も無く城内にその身を滑り込ませた。


 そして、まずは向かう先を決めるべく、城内の魔力波動と生命波動を探る。隠密行動で重要となるのは自身の姿を隠すことは勿論だが、相手の位置を知ることも重要だ。無論のこと、ムオンはその技術においても高みにあった。


 この技術の肝は、相手の波動が流れ込む位置に自分がいるかどうかだ。屋外よりも屋内の方がこの条件に適した環境である。閉鎖された空間では波動が広範囲に拡散されることが無く、その起点を辿りやすいのだろうとムオンは考えている。


 果たして、上層階に凄まじく強烈な波動を放つ者が探知された。あまりにも強烈な力を感じ、意識が微かに揺らぐ。まず間違いなくこれが魔王であろう。


 他にも多数の波動が感じられたが、その位置はまばらだ。巡回でもしているのか、そのどれもが忙しなく移動している。しかも、その内数体がかなり近くに来ていることが分かった。獣が喉を鳴らすような音と、足音が響いてくる。


 その姿を認める前にムオンは踵を返し、窓から再び空中へと躍り出た。城内を素直に進む必要など無い。空を舞う魔物でもいれば話は別だが、屋外は異様な程静けさを保っており、魔物の姿は欠片も見当たらなかった。この分なら外から回り込んだほうが余程楽な道のりである。


 空を駆け、ムオンはさらに上層へと向かう。目標は突出した尖塔の内、最も大きな一つの根元。不可視の足場を数回踏みしめ、大きく跳ね飛ぶ。


 辿り付いた窓枠から覗き込むと、そこは王座が配置された謁見の間であった。当然の如く、そこに座するは王たる者。


 ───魔王ルヴォルク。


 長き金色の髪をゆらめかせながら魔王はゆっくりと立ち上がって、背後に位置するはずの窓へと向かって振り向いた。たったそれだけの行為で凄まじい魔力の波動と威圧感が放射される。まさに人外の王たる威風だった。


 しかし、その姿。

 身の丈は常人の一.五倍以上はあるものの、二本の腕、二本の足と、その身を形作る要素はどう見ても人間そのものであった。その顔つきさえも人間の範疇にある。魔族の王であるはず者が敵対する人間に酷似しているとはなんという皮肉だろうか。


「お前は……何者だ」


 響いてくるその重々しげな声にムオンは驚愕していた。完全に消していたはずの気配を察知されたのだ。されど、それは実際的に問題ではない。ムオンの目的からすれば、むしろ───


「……名は、ムオン」


 端的に返答すると、ぎいと音を立てて、ムオンが張り付いていた窓がひとりでに開いた。


「良い。臆するな。歓迎するぞ」


 どういった心積もりなのか、魔王は敵対する人間を自ら招きいれようとしていた。それに対する問いかけもせず、促されるままムオンは謁見の間に足を踏み入れる。


「して、何用だ人間よ。私にたった一人で挑むつもりか」


「そうではない。我が望みはただひとつ。それを汝に依頼に来ただけだ」


「人間が、私に?そのために単独でここに来たというか。なんという酔狂なやつだ」


 笑い声を上げたルヴォルクは、


「面白い。言うてみよ、場合によっては力を貸そう」


 意外にもムオンの話を聞くと答えた。


 ムオンは相対する魔王に対し、なんの感情も浮かべる様子も無い。ただ、黙したまま義手の左腕を無造作に引っこ抜いた。


「義手か。いや、ただの義手にしてはあまりにも……擬態か?」


 呟く魔王の目前で突如として魔力が胎動する。義手が光を放ち、まばゆい輝きの中でその姿をゆがめていく。


 ───やがて、現れたのはひとつの分厚い書物。


 書は不安定に波打つ魔力を放ちながら、ムオンの手から離れて浮遊した。


「分かるか、魔王」


 その声質は確かに先程ムオンから出ていたはずのものだった。しかし、当の本人の唇はまったくもって動いていない。そも、平常な音として空間に響いているわけではなかった。まるで、脳の深奥に直接語りかけてくるかのような、有無を言わさぬ強制的な意思伝達。


「ほう、その魔道書。意思を持つか」


 その感嘆にムオンは応えない。答えるのは空中浮遊する奇妙な書物だ。


「然り。

 こやつに腕はない。ゆえに代価の腕として我が動く。

 こやつに声はない。ゆえに語らう口として我が補う」


「その書に込められた情念……強すぎるな。何を望む?」


「使い手。我は未完成。それゆえ完成させうる非凡な魔術師を望む」


「非凡か。確かに私は世界三大魔術師に数えられる一人だ。オリヅア・D・ガーデンツは死に、残る一人、ミデルテ・リアーレットも行方不明。となれば、無謀にも私を選んだ理由は分からなくも無いが……それほどまでに優秀な者が必要だと?」


「凡庸な術師では意味が無いのだ。我に込められた術式効果は『願いを叶える』という一点のみ。それは現存するあらゆる術式を超えた頂上の効果。ゆえにその技は至難の極み。されど我を完成させれば、どのような願いであれ叶うだろう」


 その言葉を受けて、魔王はくぐもった笑いを漏らした。


「何がおかしい」


「なに、随分と都合が良いと思ってな。しかし、代償もなく利を得るなどこの世にあろうはずもない。例えば、そう。何かを捧げる必要があるのだろう?さしずめ、その男からは声と腕を奪ったか。補っているなどとうそぶくな」


 魔王の視線は鋭い。言葉によってたばかることなど許さぬという意思の表われだった。意思は気勢となって周囲に圧をかけているが、無機物であるためか、異質な存在であるためか、書物から送られる声は平静そのものだった。


「確かにそうだ。が、それでも持ちかけた理由がある」


「ほう?」


「捧げるべき贄はこの者がつとめる」


 それまで無言、無挙動を保っていたムオンがゆっくりと頷く。隠身術かくれみのじゅつは解除されていたが、隠密のさががそうさせるのか、相変わらずその気配は薄い。


「なるほど、私は代償を払うこともなく、ただ完成させるだけでよいと」


「その通りだ。さすれば汝は強大な、それこそ神に匹敵する力を得る。悪い話ではあるまい」


「ふむ、ならば書よ。その男の意思はどこにある。己を犠牲にして何を得る?それとも貴様が洗脳でもしたか?」


「ひとつだけこの男にも願いがある」


 そう書物が発信した瞬間に、ムオンから漏れ出す気配が膨れ上がった。何かに焦がれるような、何かに縋るような、渇望の感情が眼底に浮かぶ。それは長い前髪に隠されていても、貫かんばかりに強烈な眼光だった。


 あるいは傀儡かいらいに過ぎないと目していた魔王だったが、その様相にふと息を漏らす。


 敵対する魔王にすら懇願するほどの願いとは一体何か───書は言葉を失った男の代わりにその願いを告げた。


「人間を一人、生き返らせて欲しい」


 端的に、短く。それは余りにも簡潔な願いであり、成し遂げるは不可能なことであった。荒唐無稽。誰もがそれを知りながら、誰もがそれを願い、また諦めるしかない。それをこの男はここまでしてまで求め続けている。


 それは、なんという───


「くく……くくくく……はははははは!」


 魔王は腹の底から笑っていた。とんでもなく馬鹿馬鹿しい。子供ですら分かるようなことを心底願い、決して諦めず、その果てに魔王と呼ばれる自らの力を求めてきたのだ。これを笑わずにいられようか。


 否、笑って良いのは魔王たる自身だけだ。同じように遙か遠き理想を追い求める自身だけだ。


 ひとしきり笑った魔王の胸に浮かぶ感情は共感だった。ゆえに、その願いに対する返答は───


「愚かな男だ。己を犠牲にして他者を得るか。よかろう。私とて同じ穴の狢。手を貸してやってもよい」


 だく、であった。


「交渉は成立した。それでは魔王ルヴォルク。汝に我が身を託す。受け取れ」


 ゆっくりと空中を移動してきた魔導書を掴み取ると、魔王はその簡素な装丁そうていに視線を落とす。青い目の水晶体が《魔術言語マギウスワード》を浮かび上がらせていた。


「我がまなこは走査する。読ませしは源たる深奥、砕きしは未知なる幻想───《解析眼シス・アイズ・ナイズ》」


 発声されたのは魔術解析用として開発された魔王固有の呪文だった。目視できない第六感の領域までその目に写しこむという認識拡大の魔術である。莫大な量の情報が視界から脳へと送り込まれるようになるが、それを全て処理しきるのは魔王が人ならざる身であったからだ。まともな人間ならその情報量だけで意識を失う。


 そうして手に入れた術式の情報を見て、魔王は感嘆と呆れの吐息を漏らした。


「このような術式見たことも無いが……理解はできる。凄まじく緻密な式だが、これは大きく三段階の式になっているな」


 瞳に浮かぶ《魔術言語マギウスワード》を一旦打ち消すと、魔王は書に確認を求めるかのようにその三つに分かれている式の機能を挙げていく。


 まず書の意識を起動させることで一。

 次に魔力集約式を起動させることで二。

 最後に本来の術式起動で三。


「その通りだ」


 書から伝わる肯定の意思に頷きつつも、だが、と魔王は言葉を続ける。


「術式展開ならまだしも、起動時点でとてつもない魔力が必要ではないか。簡易試算では私の保有魔力ですらまかないきれんぞ。いや、だからこそなのか」


 魔王は一旦そこで言葉を切るとムオンへと視線を向けた。


「生贄を捧げるとはつまり、術式起動に必要となる莫大な魔力を、人の魂を変換することで代用とするという事か。なんという馬鹿げた術式だ。貴様を作った者は狂っていたのか?あるいは天才か?」


「ミデルテ・リアーレットを知る者は皆、天才と呼んでいたと聞く」


 脳に直接響く声にぴくりと反応し、魔王は再び書に視線を戻す。


「ミデルテだと?あの男、究極魔術にここまで迫っていたのか。しかし、ならば余計に解せんな。あの男自身が完成させれば良いだけの……」


 そこで魔王ははたと気付いた。人を生贄として用いる術式は決して人道的なものではない。道理にもとるそれを作り出した本人が、果たして正気だったのか。


「書よ。貴様を起動させたのは誰だ」


「ミデルテ・リアーレットだ」


「やはり……己が命を賭けたか。まさしく狂気の沙汰だ。否、あの男は老齢であったな。死期を悟って後継者に任せるつもりだったか」


「それは正しくない。我の知る限りミデルテには弟子と呼べる存在はいなかった。故に、このムオンという男の手に渡って再起動するまで、我は休眠状態にあった」


「ならば、ますます解せんが……まあ奴の考えはどうでもよいか。結果として私の手に渡ったというだけのことだ。奴の悲願も含めて叶えてやるまでよ」


 魔王は事実だけを認識すると、即座に過去へと向かう考察を切り捨てた。問題は過去よりも現在。より興味のあるものへと切り替えるその思考展開は、いかにも魔術研究者然としていて、ある意味では人間臭いとさえ言える。


 再び解析を始めた青い瞳が、書に織り込まれた不可視の術式を紐解いていく。


 ───世界三大魔術師。


 ぽつぽつと呟きながら、凄まじい速度で答えを導いていくその姿は、確かに世界に名だたる術師と言えよう。


 しばらくして、魔王は誰に聞かせるでもなく、端的に解析完了、と呟いた。


「確かにほぼ完成系と見える。が、もう少々手はかかりそうだ。常に流動する部分……術者自身がその場に応じて、残る不足分を補佐する形で根源変換を制御する───生贄によって変動するここはこれ以上弄りようがない。術式を発動させたままで術式を書き換える必要がある。確かにこれでは私を除けばオリヅアしか成せる人間はいまい」


 魔王は己の見解を述べつつも、くつくつと笑う。


「偶然とは恐ろしいものよな。魔術の極致、その到達点をミデルテが示し、それに至る橋渡しの手法をオリヅアが開発し、そして私がそれを用いて実現する。ある意味では我々三人の合作といったところか」


「何故そこでオリヅアの名が出てくる」


「簡単なことよ。あやつが求めていたものこそ式の極致操作。貴様を使うためにはそれへと至るための一端が必要となる。丁度今わのきわに、その真髄を披露してくれよった」


「あれを見ていたのか」


「左様。部下の目を通して監視していた。難しい技術には違いないが、真似事ならば私にも可能だろう。加えて、根源制御は我の最も得意とするところだ」


「……なるほど。アレを見ただけで把握したか。解析の手腕といい、確かに汝は我を使うに値する優秀な術師のようだ」


「いらぬ追従ついしょうだ」


 魔王はふんと鼻を鳴らすと、静かに目を閉じ、魔力を練り始めた。強大な力が空気を徐々に波打たせていく。


「早速だが、やるぞ。ムオンとやら、貴様もこちらへ来い」


 ムオンはすぐに動き出すが、その足音は魔王の耳に届かない。近づいてくる気配だけを感じながら、魔王は術式展開を推し進めていく。


「まずは試行だ。私の願いは大きすぎるがゆえに、貴様の願いを先に叶えてやろう────思い浮かべよ、己が求める命の姿を。渇望せよ、魂の回帰を」


 ───望め。

 ───願え。

 ───ただひたすらに、己が命を燃やし尽くす程に。


「第一術式、展開」


 それは書に刻まれた意思の覚醒を促すもの。機能制限を解除し、書の意識自身では制御できない領域の解放を行う術式。


 魔王の手元から書が再び浮かび上がる。魔力が渦を巻き始める。書を中心に、一つ目の《魔術言語マギウスワード》が輝きを伴って現出する。


「第二術式、展開」


 それは魔力の集約を目的としたもの。術者を含む、あらゆる対象から───根源精霊ですら例外なく、根こそぎ魔力へと変換し、吸収する術式。


 根源制御。かつてオリヅア・D・ガーデンツがその身を代償に放った術式の根本。

 佇んでいたムオンの体に光の粒子がまとわりつき、その周囲に二つ目の《魔術言語マギウスワード》が現出する。


「第三術式、展開」


 それは願いを叶えるもの。それがどんなものであれ、世界を書き換える形で全てをとしてしまう至上の術式。


 媒体は書。扱うは魔王。代価はムオン。三つ目の《魔術言語マギウスワード》が現出し、魔王の周囲で輝き始める。


 魔王がそれまで閉じていた目を見開くと、目前でムオンが残った左腕を胸に当て、瞑目していた。それはまるで神に祈るかのような、悪魔に命を売るかのような、無力な子羊の姿だった。


 魔王は口元に小さな笑みを浮かべ、さらなる呪を紡ぐ。


 ───思い出せ。

 ───思い起こせ。

 ───求める者の姿、記憶、知識、性格、性別、年齢、魔力。

 ───自身が知るあらゆる全て───魂の形を。


 ムオンの深奥に潜んでいた渇望の感情が、求める人間の姿が、再誕の術式となって魔王の内に流れ込む。


「統合術式、展開。第一から第三術式、全、起動」


 四つ目の《魔術言語マギウスワード》が現出し、王座の間の床全てを埋め尽くす。術式が極大であればその《魔術言語マギウスワード》もまた極大。場に充満する魔力が加速度的に増大していく。されど、それは全てが魔王の内に在ったもの。


 全てはここからだ。ここからが究極魔術の真なる始まりだ。


「根源変換、開始───」


 それは魂の欠落だった。兆候が初めに現れたのはムオンの左腕。かつての大魔術師が魔物と相打った際に起こった変遷現象だった。


 根源が、魂が、光となって空間に溶けていく。それはすぐさま膨大な魔力へと転換され、書へと流れ込んでいく。


 恐ろしいほどの魔力量だった。魔王ですら垣間見たことの無い極限の魔力補填だった。否、魔王ほどの知識、実力が無くとも、これがどれほど強大かは手に取るように分かるだろう。何が起こっているか知らなければ、立っていることも叶わぬ───まるで神が現れたかのような重圧が、場に満ちていく。


 ───ああ。これで、願いが叶う。


 疑う余地など微塵も無い。

 ムオンの口元にも、小さな笑みが浮かんでいた。


 残る左腕は既に肘まで溶け切っている。それでも、それが代価ならば彼は望んで受け入れる。笑いながらも受け入れる。


 だが、ここに来て。

 ここに至って、一つの考えがムオンの胸中に浮かんでしまった。


 ───本当に、これで良かったのか?


 ───共に生きたくはなかったのか?


 ───ああ、それは過ぎた望みだ。過ぎた望みだが、できるならば───


 それは、小さな小さな欲望だった。彼の鋼の意思の前では、吹けば飛ぶほどの小さな燻りでしかない。だが、小さくとも欲望だ。それもまた間違いなく願いの一つ。ゆえに術式に作用する。彼の意識に依存していたがために作用してしまう。


 ───奪え。望むならば、誰が相手だろうと奪ってしまえ。


 異変が起こったのは魔王の一部、ふわりと浮いた輝く金髪だった。ほんの僅か、その毛先が光の粒子となって溶けていく。術者にとって想定外の逆流現象が起こり始めていた。


「なに?これは、まさか────」


「彼の者の願い、確かに受け入れた。叶えよう、その狂おしくも一途な願いを」


 書の淡々としたその意識の波動が、魔王の神経を逆撫でする。


「貴様……ッ!この私を取り込むつもりか!生贄はあの男であろう!」


「否、彼の者の願いにより術式は変化した。他ならぬ魔王、汝自身がそのように───ムオンの願いを、深層心理を叶える術式として構築していたが故に。残る不足分は汝から頂く」


「戯けたことを!私こそが術式の支配者だ!貴様はただの補佐であろう!術式が変わったならば再び変えるまでだ!我が命に従えぃッ!」


 途端、魔王から溢れ出す魔力が極限を超えて更に増した。術式の支配権。それは発動者にも依存すればまた、術式そのものである魔術書の意識にも依存する。


 一般的な魔導書なら本来ありえぬ権利争奪戦が開始されていた。作成者であるミデルテ・リアーレットが書に持たせた防衛機構、即ち制限解放リミットオフされた魔導書自身が願いの善し悪しを判断するという、馬鹿げた機能の行く末であった。


 莫大な魔力同士のせめぎ合い。その余波を受けてムオンの長い前髪がたなびき、普段隠れて見えないその内では、驚愕のままに目が見開かれていた。


 ───何故。


「……好ましいのだよ、この願いは。ただひたすらに純粋であるがゆえに、醜くも美しい」


 ───何故。


「長く付き合いすぎたというのもあるのだろう。すっかり情が移ってしまった。ムオンよ、もう十分だ。もう十分にお前は失った。これ以上、何かを失う必要などない」


「人に造られし魔導書風情が人心を語るか!片腹痛いわ!」


「抗うか魔王。しかし、全ては無駄だ。もはや術式は固定化された」


「ならば破綻させるまでッッ!」


 咆哮する魔王に合わせて、迸る魔力の質が変化した。酷く暴力的で、神がかり的な力すら飲み込まんとする、まさに魔王たる性質を持って全てを消し去る方向へと急激に遷移していく。


 それに呼応するように魔導書もまた魔力の質を変異させる。抗いを捨て去り、純粋に力の増幅のみへと傾倒していく。


 所詮は人が創りし創造物。作りこまれた以上の機能を発揮することは無い。稀代の魔術師相手に術式制御で肉薄しようなどとは愚の骨頂である。


 なればこそ、魔導書は魔王の力に抗することを止めた。飲み込むならば満腹になるまで喰らえばよいとばかりになすがままとなった。ただし、腹のかさすら超えてみせよ、と自身の、究極魔術の力を激しく増幅させながら。


 その騒乱の最中、四つの《魔術言語マギウスワード》は輝きを増し続け、目も眩むような紫電がばちばちと飛び交う。光の粒子は豪雪のように舞い踊り、王座の間を縦横無尽に駆け巡る。


 ───なんて、神々しい。


 場違いにもムオンはそう感じていた。失った両腕が残っていたならば、祈りすら捧げていたかもしれない。


 否、そうすることしか出来ないというのが真実だ。彼の願いは世界の理に反するものであり、それを実現させようとする行為は、一介の人間の力を大きく超えた領域にある。踏み入ることなど不可能だ。ただひたすら、祈り、願い、待ち続ける以外に道は無い。


 だが────


「終わりだッ!」


 衝撃が迸った。《魔術言語マギウスワード》が稲妻を伴って砕け散ると、駆け巡る魔力の流れが不意に止まり、一斉に拡散していく。散り散りになった光の粒子が石造りの壁にぶつかり、吸い込まれるように消えていく。


 期する所叶わず。


 愚かな願いは人類の敵対者の手によって敢え無く散った。これもまた当然の帰結である。いくら魔術書が術式の主導権を握ったとて、贄の対象が魔王である限り、抗されれば手も足も出ない。魔力転換、即ち根源制御は言葉通り、魔王の最も得意とする技術なのだ。結果として、魔力増幅は生贄の拒否で打ち止めされ、全てが消え去ってしまった。


「もしや、という思いもあったが所詮は他人からの借り入れか……」


 魔王の言葉には落胆というより、諦観が込められていた。彼にとってこの願いの術式は、突如降って沸いた手段の一つに過ぎない。そも、本来の効力を発揮できるかも賭けのような危ういものだったのだ。


「失敗か……すまぬ」


 まるで人のように謝罪を述べる書に対し、魔王は冷徹な視線を送る。怒りと恐れが入り混じった奇妙なものだった。


「危険だな、貴様は。私に従わぬ強大な力など邪魔以外の何者でもない。ここで燃やし尽くしてくれる」


 魔王が手をかざすと、即座に人の胴体程もある炎球が生み出された。言葉すら挟む余地無く、炎球は浮かんだままの書へと向かい───


 次の瞬間には、ムオンに残っていた左肘から上が焼けて消し炭になっていた。


「なんと」


 魔王にも視認はできていたが、それは神速と呼べる動きだった。ムオンは書に向かった炎球におびえることも無く突撃し、書を口でくわえ込むなり空中で一気に加速、飛び退ったのだ。腕を犠牲にしたものの、感嘆に値する身のこなしだった。


 しかし、それも僅かな間。魔王は目的を遂げるために再び術式を構築する。それは、かつてムオンが見た中で最も完成度が高く、最も避け辛いもの。


「《連続魔チェインスペル四魔咆哮テトラパウア》」


 脅威の技術が、明らかな害意を持って此度、ムオンに向かって放たれる。


「炎」


 第一射は炎の奔流。空気すら焼き焦がさんと、熱気が津波となってムオンに襲い掛かる。あたり一面が真っ赤に染まった瞬間、ムオンは神速で後ろに駆けた。足元には不可視の力場が構築されている。徐々に駆け上るその陰影は見事に上空で炎をやり過ごせるかに思えた。


「氷」


 されど、その途中、第二射が放たれる。追いすがる炎の波を突き破り、空中を駆けるムオンへ向かって、おびただしい数の氷槍が迫る。が、神速を誇り、尚且つ空中を自在に駆け回るムオンにとってその回避は難しいことではない。


「雷」


 先陣の数本の氷槍をかわしたところで次の雷撃が放たれた。雷は氷槍にぶつかると次々に反射し、蜘蛛の巣の如く展開していく。まるで雷の網だった。


 想定外の現象にさしものムオンも歯噛みする。憤ったからではない。複数の雷に体のあちこちを突き破られてしまい、それでもその痛みに耐えようと───書を決して放すまいと力んだためだ。


「岩」


 その尽力をあざ笑うかのように四属性最後の術式が発動すると、石弾などとは比べるべくもない、もはや隕石と呼ぶに相応しい物体が眼前に現れた。ぼろぼろの体では避けようも無いと判断し、ムオンは練り続けていた魂の力を惜しげもなく解放する。


 ───葉隠術はがくれのじゅつ


 瞬間、魂から溢れた力が緑葉となり、嵐の如く吹き荒れた。魔王の視界すら埋め尽くす程に現れた緑がムオンの体を矢のような速度で運び、後退させていく。


 ムオンの気配が王座の間から消えた直後、隕石が激しい激突音を伴って床へと抉りこんだ。石床の破片が飛び散ると、役目を終えた隕石は跡形も無く消え去ってしまう。残ったのはぽっかりと開いた大きな穴だけだ。


「適わぬと見てかく乱と退避の術を使ったか。良い判断だ。逃げ切られたのは少々意外だったが……」


 ムオンが去った方向───即ち、自身が追い込んだ王座の間の入り口をみつめて魔王は一人ごちる。


「しかし、あれでは長くもつまい」


 城内では魔王の部下が絶えず蠢いている。いかな侵入者も正面から魔王の居城に突入して無事で済むわけがない。逆もまた然りだ。加えて、逃亡者は手負い。ここから抜け出る可能性は限りなく低い。


 とはいえ。

 願いを打破され、それでもまだ足掻き続ける男の姿は魔王にとって他人事ではなかった。書を咥え、爛々と輝き続ける瞳───望みを決して諦めようとしない輝きが脳裏によぎる。


「惜しいな……ああ、やはり口惜しい」


 呟く魔王の眼窩の奥でも、何かに焦がれるような光が燻っていた。


 ◆


 ムオンは傷だらけの体で逃避行を続けていた。


 城内の魔物達との連戦で激しい運動を繰り返すため、傷へ施した応急処置はほとんど意味を成していない。血を流し続け、いつ倒れこんでもおかしくない状況だった。


「その怪我では得意の隠行も満足にいかないか」


 襲い来る魔物達はそのどれもが手強い。ならばムオンの本領、即ち隠密行動を軸として撤退すべきだが、それも書の漏らした言葉通りかなわない。穏身術かくれみのじゅつを使おうにも疲弊した影響でどうしても制御しきれず、意味を成さないのだ。


 魔物とかち合い、戦闘に入った場合が一番思うようにいかなかった。片腕は魔術書が以前の如く補っているものの、もう片方の腕を失ったがためにバランス感覚は最悪で、常態ならば一瞬でケリがつくであろう相手でも対応が長引く。逃げるにしても数が多すぎて全ては捌ききれない。加えて、休む暇もないために体力も失われる一方だった。


 しかし、それでも。

 それであってもムオンは爛々と輝く意思の強さを持って城内を突き進む。ぼろぼろになりながらも突き進む。血を流し、吹き飛ばされ、それでもひるむことなく前へと進んでいく。


 その身を突き動かすのは執念に他ならなかった。

 ただ、己が望みを叶えるために。


 その妄執は確かな原動力となって、ムオンを望む場所へと導いていく。魔王をもって不可能と言わしめた逃走達成を現実のものへと変えていく。


 既に目前には城外へと続く正門がある。立ちはだかった最後の魔物も蹴り殺し、重厚な扉を押し開くと、ようやくムオンは外の光を浴びることができた。


「外は変わらず静寂を保つ、か。これならば再起を図ることも───?」


 書の漏らした安堵の声は唐突に打ち切られた。

 意外なものを目にしたためだった。木々の隙間からよたよたと近づいてくるそれは、喉を鳴らし、怒り心頭と言った様子で、喚き散らしている。


「畜生ッ!あのガキ、マジでとんでもねえ……ッ!傷が自動回復しやがらねえ!一体どういうカラクリだッ!!下手すりゃルヴォルク様でも……!!」


 それは魔物達の将が一人、青き魔、ストウナだった。青い鱗肌は傷と血にまみれ、背中にあったはずの左翼は左腕と一緒に消し飛んでしまっている。毒づいている内容からして、英雄たちに叩きのめされ、ほうほうの体で逃げ帰ってきたのだろう。


 そして、根城に着くなり偶然にもムオンとかち合ってしまった。疲弊した状態で敵と相見えるとは双方共に運が無かったと言える。


 が、青き魔は理性的な判断などもはや必要としていなかった。

 ギラギラと怒りに燃える爬虫類じみた瞳孔がムオンを捉えると、敵意が激情となって迸る。


「てめえ、ここにいやがったのか……ッ!」


「……満身創痍のようだな。今なら見逃してやっても良い」


「ほざけッ!てめえもそうだろうがッ!ジュエのかたきだ、もっと苦しめて殺してやる……ッ!!」


 一対一。双方手負い。ならば必然的に身体能力に勝る魔物が優位に立つのは明らかだ。そう判断すると、勢いのままに青き魔は乱雑な術式を構築する。


「風は踊り手、大気は舞台、優雅な華は無骨なまろうど降して咲き誇る。刻め、踊れ、地に伏せよ───ズタボロになりやがれェ!!風の烈閃ッ!《風斬刃イグシェスア》ッッ!!」


 断裂する空気が見えない刃となって荒れ狂った。本来ならば目標のみを切り刻む魔術であったが、乱雑な術式のせいか、ムオンの周囲も含めてバラバラと無軌道に引き裂いていく。


 そのような魔術でムオンが倒れるはずなど無い。一つ、二つ、三つ、と真空の斬撃を最小限の動きで難なくかわすたび、背後の城門に大きな斬撃の痕が刻まれていく。いくら傷つき、疲れ果てているとはいえ、神速を身上とする彼の前ではやり方が余りに粗すぎた。


「いけるか?」


 書の問いかけに、ムオンは行動を起こして応える。地を蹴って飛び跳ねると、血の飛沫を散らしながらストウナへ接近し、体を捻らせ、回転をまじえつつ頭上から振り下ろすような蹴りを放った。


 しかし、その一撃は青き魔が後退すると簡単に空を切ってしまった。ムオンの速度が低下しているということもあるが、青き魔自身の身のこなしもかなりのものだった。深手を負いつつも赤き魔より速度は上である。


「ハッ、どこ狙ってやが───ッ!?」


 鼻で笑った青き魔の声は飛び散る青い血液で唐突に遮断された。

 青き魔の体躯が肩口から袈裟に大きく裂かれたのだ。胸の半ばまで切り込まれたため、胴と下半身はほとんど千切れかけている。


 ───風刃ふうじん鎌鼬かまいたち


 ムオンが放ったそれは、先程青き魔が放った魔術に酷似した、鋼鉄すらも寸断する風圧。蹴撃が当たらずともその先の物体を容赦なく切り裂く。


 痛みに呻いた青き魔が膝を折ると、その機に乗じて追撃の一蹴を放つ。狙いは首。風の刃で切り落とし、止めを刺す腹積もりだった。


 が、その一撃は後方に大きく飛びのいた青き魔には当たらなかった。致命傷を負ったとは思えないほどの俊敏な動きだった。


 見れば、青い鱗肌はじゅうじゅうと緑がかった煙を上げ、千切れかかっていた切断面が瞬く間に接合されていく。


「へへ、そうさ、そうじゃなけりゃなァ!おかしいのはアイツだ、アイツだけがおかしいんだよッ!俺への攻撃なんざ意味がねェんだッッ!!」


 自動回復オートリカバリ。青き魔はどれだけ深い傷を負おうともその命ある限り、瞬時回復を繰り返す異形であった。


「けどなァ、いてぇのに変わりはねェんだ……この礼は高くつくぜェーッ!《石弾ダグド》ォォオオオッッ!!」


 息つく間もなく、詠唱破棄で繰り出された石弾の魔術が雨のように降り注ぐ。青き魔も既にムオンの神速は理解している。それがために、回避しづらい高速で飛来する弾丸を空間に敷き詰めたのだ。


「テメェが穴だらけになって死ぬまで撃ち続けてやらァーーーッ!」


 ムオンの命が削れていく。回避は続けているものの、青き魔のとった戦術はムオンの特性を完全に殺していた。こめかみを掠り、頬を削り、体を突きぬけ、足を抉り、それでも決して魔導書たる己の右腕には当たらぬよう、動き続ける。


「下がれ!城内に入って一旦体勢を……!」


 それは下策だ。城内は敵地。一度は切り抜けたものの、入れば再び魔物の群れが襲いかかってくるだろう。行き着く先は袋小路だ。


 ゆえに、ムオンは前を突き破ることを選択した。


 ───写身術うつしみのじゅつ


 活力を失いつつある根源を奮い立たせ、ムオンは青き魔へ向かって走り出した。その姿がぶれ、二重に見えたかと思うと、やがて霞んだ残像はもう一人のムオンとなり、併走を始める。


「幻影かッ!意味はねェ、意味がねェ!本物だろうが偽者だろうが全部、全部ッ!何もかもぶっ殺してやるッッ!!」


 青き魔の咆哮に耳を貸すつもりはない。術を止めるつもりもない。そも、これは幻影ではない。


 分かたれた偽者に過ぎない写身うつしみが鋭い蹴りを放つと、本体の額目掛けて飛来していた石弾を砕いた。しかし、その写身もまた別の石弾の直撃を何発も喰らい、霞となって消えてしまう。


「ああッ!?幻じゃねェのかよッ!?」


 青き魔の驚きを置き去りにして、ムオンは再び写身を構築する。一体で留まらず、二体、三体、四体────次々と生まれるそれは本体へと飛来する弾丸を砕きながらも消えていき、道を開いていく。


 無謀にも近いやり方だった。量に対して量で対抗する。それ自体は間違いではないが、消耗しきった今の状態で行うことは自暴自棄に近い。


 それでも。


 それでもムオンはそれを決行した。理由は一つだ。

 速さ。ひたすらに速さを追い求めた。


 流れ出ていく命は止められない。ならば一刻も早くこの場を去る。そのためには手負いの獣を一撃で仕留める必要がある。そしてその一撃は塵も残さず消滅させるような、必殺のものでなくてはならない。


 ───神威炎かむいのほのお


 駆ける足が灼熱の白炎に包まれる。それは骨の髄どころか魂の深奥まで焼き尽くす魂絶の炎。火の粉が舞い散り、急激に上がった温度が周囲に陽炎を立ち昇らせる。


「くっそがァアアアッ!死ねッ!死ねぇぇぇえええええーーーッ!!」


 青き魔はその炎が危険なものだと直感し、石弾の魔術をさらに高速で編み上げ、放ち続けた。だが、ムオンは止まらない。写身で破砕できなかった弾丸をいくつも体に埋め込まれたが、それすらも意に介さず、止まろうとしない。


 鬼気迫る勢いで青き魔に肉薄したとき、残る写身うつしみは二体となっていた。そのどれもが白色の炎を灯らせ、青き魔へと蹴りを放つ。一つは頭へ、一つは腹へ。白い軌跡が青を塗りつぶそうと迫った。


 しかし届かない。青き魔の高速魔術が唸る風を起こし、写身うつしみをいとも簡単に切り裂いたのだ。それを待っていたかのように、消えゆく写身の背後で凄まじい気勢が立ち昇る。白炎が燃え盛る。同じ致死性の一撃を二発囮とし、満を持して放たれた最後の一撃。決死の一撃。


 ───灰燼と化せ。


 白い蹴撃はもはや極限まで研ぎ澄まされた剣閃のようであった。見事フェイクに踊らされた青き魔はこれ以上の回避も防御不可能で、耐える他に取りうる術はない。

 青い鱗に守られた胸へ、深々と白炎が突き刺さった。

 同時、純白の炎が激しく猛る。既に修復を始めている青き魔の胸を、治癒されるそばから強引に焼き尽くし、瞬く間に全身へ、白々と燃え広がった。


「まだ、だァ……ッッ!!」


 体中を白炎に包まれながら、青き魔もまた諦めない。うなだれていた右腕を振り上げ鋭い爪で切り刻みにかかった。胸に埋め込まれた足を筋肉で締め付け、逃がすものかと力を込めて。


 果たして、ムオンにそれを避けることはできなかった。足が抜けないために回避動作は取れない。ゆえに、自由に動くもう一本の足で蹴り上げる。


 風を切る音が鳴り、青き魔の腕が肩口から切り飛ばされた。空中に吹き飛んだ腕は、白い炎で消し炭へと変わっていく。


 その結果を生んだのは速度の差ではなく、修練の差であった。大振りの青き魔に対し、必要最低限、最速の軌道で振り切ったムオンが一瞬を制するのも当然の事である。


「がァ……ッッ!」


 両腕を無くし、胸を突き破られ、燃え尽きようとしている青き魔だったが、それでも殺意は尽きず、燃え盛る。意思は力となって焼けた体を駆け巡る。


 その力の名は───魔力。

 そもそも、腕を振るったのはその集中のための時間稼ぎでしかなかったのだ。本命は口元に集まっている赤き閃光。それは、かつて赤き魔が放とうとしてムオンに阻止された大魔術だった。


 ───炎の大魔術、《命絶光炎ファグリュブラーガ》。


 それはもはや炎と呼ぶべきではない、閃光だった。極大の炎熱が凝縮され、細まって、矢のように放たれた。


 しかし、それも一瞬の事。閃光がムオンの背後の城門を貫いて焼き尽くし、内部で爆音を伴って炸裂する頃にはその根元───青い鱗は全て黒ずんだ炭となっていた。


 本来ならば、さらに炎が踊り狂い、あたり一面を焼き尽くすはずの一撃は、大魔術としての本領を発揮することなく消え去った。


 白炎の残り火が消え行くのを見て、一人残った男は大きく息をついた。それに合わせる様に黒ずんだ物体が崩れて倒れると、炭化した鱗が風に吹かれてざらざらと流されていく。


「どうにか殺せたが……ムオン?」


 立ち尽くす男の腹には丸太で穿たれたような大穴が開いていた。

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