刻まれるは生きた証

神賀

前編:求めるものは、その手をすり抜けて

 ヴァルシュナ戦役―――


 史上、もっとも過酷でもっとも強大といわれた人と魔の戦い。

 大国ミッドガーズはその戦いに備え、広く力を求めた。

 その中に、以後英雄として名をはせる四人の姿があった。

 彼らの活躍は誰もが知るところである。

 後世でも詩人が謳い上げ、伝え続ける魔王討伐の英雄譚。

 しかし、ここに語られるは英雄の影に隠れ、戦場を駆け抜けた一人の男の話。

 時はアメリア暦一二〇二年。

 ヴァルシュナ戦役を目前に控えたミッドガーズにて始まる。






 ◆






 ミッドガーズは騒然とした雰囲気に包まれていた。


 街中は戦争への高揚を見せる者、不安を隠しきれない者、近しい人の安否を気遣い祈る者―――そういった人々で溢れている。もっとも、戒厳令が敷かれてあまり屋外に人がいるわけではなかったが。いや、だからこそ余計にそういった人々が目に付く。


 そんな中を一人の男が腕を妙にだらりと脱力させて歩いていた。比較的短くそろえてある頭髪の中で、唯一長い前髪が視線を隠してその表情はようとして知れないが、見える箇所には無数の傷が走り、それは彼が激しい戦いの中に身をおいてきた結果と考えるに他ならない。

 さらには石畳の上を歩いているというのにほとんど足音を立てておらず、その不自然さが不気味さをより一層際立てており、妙な威圧感さえ振りまいていた。


 住民の一人が彼を見て、いよいよ物騒になってきたなと呟いていた。その声は彼にも届いていたはずだが、それについては何の反応も示さず、ただ歩みを進める。

 彼の目指す先にはミッドガーズ城があった。


 城と町とを隔てる城壁前につくと、彼の持つその物々しげな雰囲気のせいか、さっそく二人の警備兵に詰め寄られた。


「貴様、傭兵志願か?」


 尋ねたのは二人のうち、いかにも真面目そうな方だった。男は軽くうなずき、言葉を返す。


「傭兵を集めていると聞いた。私も力になりたいのだが」


「ならば身分を証明するものを提示しろ」


「根無し草の私にそんなものはない」


「ふん、なら帰る事だな」


 真面目そうな兵士はぶっきらぼうにそう言った。すると、もう一人の警備兵がもう少し愛想良くしろよ、顔に出すなよ、などと呟きながら申し訳なさそうに表情を歪めた。


「すまねえけどな、ルヴォルクとの戦いで慎重になってんだ。人に化けた魔物のスパイが紛れ込んだら大変だから不用意に城に入れるわけにもいかねえのよ。戦力は欲しいんだがなあ」


「ならば仕方がない」


 そう言って男は簡単に引き下がった。城に背を向けて歩き出そうとしたが、二、三歩足を進めたところで思い出したように振り向く。


「ひとつ聞きたい」


「おう、なんだ?」


「ここにオリヅア・D・ガーデンツがいると聞いたんだが、間違いないか?」


「ああ、なんだ、あんたあの人の知り合いか?あの人なら――」


 警備兵が言いかけたそのとき、突然城内の方向から轟音がひびいてきた。音は一度では鳴り止まず、連続してドン、ドン、と鳴り続ける。


「な、なんだ!?」


「魔物だ!魔物が現れたぞ!空から降ってきやがった!」


「急げ!隊列を組んで城内への進入を阻止しろ!」


 誰かの叫び声が聞こえてくる。途端に周囲が騒がしくなり、音のした方向、城壁内部へと兵士達が駆けていく。


 ―――好都合だ。


 男は警備兵の注意がそれた瞬間に地を蹴った。警備兵達が振り返ったときには男の姿は既に無く、一瞬で掻き消えたようにしか見えなかっただろう。

 あっけにとられる警備兵を背にして男は駆け抜ける。


 城壁門を抜けたすぐそこでは、兵士達が人だかりを作っていた。そのさらに先には数匹の魔物の姿が見える。城内に魔物の侵入を許すとは、ミッドガーズもそう長くはないかもしれない。


 その魔物、どうやら潜伏あるいは潜入に向いたシャドウリザードという種族のようだ。人型の蜥蜴を思わせる容貌をしており、その体表を覆う鱗は周囲の景色と同化する保護色の機能がある。今は城壁の灰色に同化して視認しづらいが、戦闘状態に入ったせいか縦長の瞳孔を持つ金色の眼球が爛々と輝いていて、そこばかりが異様に目立っていた。


 それら十数体を統率している魔物は下半身が蛇となっている魔物だった。上半身は人型を象っており、その赤く染まる鍛えられた肉体からはとてつもない威圧感が溢れ出している。そこらにいる魔物とは一線を画すユニークな固体、おそらく高位の一種だろう。


 知能も高いのか、額に生えた一本角から灯火を燃え上がらせながらシャドウリザードに指示を飛ばしている。横長の隊列を組んだ人型トカゲ達が中門と外門を区切る壁を作り上げると、赤い人型蛇は数匹の供を引き連れて、ローブをまとった魔術師然とした中年男性───先程男が名を口にしたオリヅア・D・ガーデンツその人と睨み合いを始めた。


 駆けつけた兵士達は既に応戦していたが、中門前は狭く、行く手をさえぎる魔物達が邪魔でガーデンツの方へ援護に回ることができないようだった。音に聞こえたガーデンツとはいえ、高位の魔物その他と多勢に無勢。見るからに状況は劣勢だった。


 ―――魔物が邪魔だな、蹴散らすか。


 状況把握は一瞬で。行動選択は即断で。男は強く地を蹴り、兵士達の頭の上を越えて一番近くにいたシャドウリザードへと飛び掛った。


 骨の砕ける音が響く。男が繰り出した蹴りはシャドウリザードの首を捉え、その首はありえない方向へと曲がっていた。強靭な灰色うろこの防護能力も全く意味を成さなかった。爬虫類特有の縦長の瞳孔が色を失う。


 次いで、命を散らした一体が倒れきる前に別の固体の背後へと滑り込む。シャドウリザードが振り返るよりも速くその頭部を踏み抜き、男はその反動を利用して空中へ飛び上がった。そのまま行く手をさえぎる数匹の魔物の頭上を飛び超え、ガーデンツに襲い掛かろうとしていたシャドウリザードへと、縦回転しながらかかと落しを叩き込んだ。


 ガーデンツのもとへ辿り着くまでに三撃。どれも急所である頭部を一撃で粉砕し、数匹の魔物達が男に正対したときには攻撃を受けた魔物全てが事切れていた。ガーデンツにはその一連の動作が疾風のように見えたかもしれない。


「君は……」


 問いかけたガーデンツに背を向け、男は魔物に凄まじい殺気を放った。幾多の戦場を潜り抜けたガーデンツですら思わず閉口してしまう程の威嚇だった。


「何奴だ」


 脅威。

 蛇の下半身を持つ赤い魔物はそう判断したが、突然割って入った男に見覚えはない。今までに見聞きした人類強者のどれにも該当しない。いぶかしげに男へと視線を向けるが、男は無言をもって答えとした。


「……答えぬとも、が相手だろうとも、我はただ殺しつくすのみ」


 赤き魔は弱き人間種であろうと油断はしない。強者の顔と名、技と癖、強みと弱みを記憶しておくのもその油断を防ぐための一つの手段だ。情報という武器が意味を成さないのならば尚の事、鍛え上げられた肉体を弓引くが如く引き絞る。


 大きくそり返った体、その口元に赤き閃光が集まっていく。肌から伝わる莫大な魔力量に、ガーデンツは思わず声を荒げた。


「この場全てを吹き飛ばす気か!?」


 魔力とは即ち、人の内なる力を持ってして、世の摂理に手を加え、超常現象を起こすための原動力。


 魔術とは即ち、魔力によって人為的に引き起こされる超常現象そのもの。


 赤き魔が行おうとしているものが、その中でも格別に影響が高いものであることは一目瞭然であった。大魔術としか言いようがない。ほんの少し時間がたてば、城が崩れかねないほどの破壊の嵐が吹き荒れるだろう。


 ―――正体、実力、共に不明の敵に全力の一撃。なるほど、理にかなっている。


 もっとも、それは相手が男でなければ、の話だ。反り返った赤い体がしなると同時、魔物が突き出した顔下から衝撃が突き抜ける。


 男の足が無防備になった顎を蹴り上げていたのだ。赤い閃光は無残に散り、行き場を失って暴走する魔力が赤き魔物の口内で暴れ狂う。結果、爆発。赤い体がぐらりと揺らぐ。男は爆発よりも早く飛び退っており、再びガーデンツの目と鼻の先にその背が現れた。


「速い……!」


 構築しかけていた防護魔術を別のものに書き換えながら、ガーデンツは驚嘆の声を漏らした。


 魔術というものは、精神を集中し術式を構築するための時間と、その術式を世界に反映するための詠唱を必要とする。ゆえに、魔術使いと相対した場合に有効な戦略とは速攻だ。男の行動はその基本対応策に則ったものであったが、それを当然と言うにはあまりに乱暴すぎた。


 なにしろ、赤き魔は本来必要な精神集中、術式構築をほんの僅かな時間で成し遂げ、さらには詠唱破棄を重ねるという尋常ならざる技術を見せつけたのだ。それも大魔術と呼ばれる程の高威力のもので、だ。


 しかし、男はさらにその上をいく速度の体術を駆使してそれを阻止した。他にどれだけの人間が同じことを成せるのか。ガーデンツはその強さに一種の恐れさえ抱いていたが、現状では心強い味方であることに違いはない。自身の力を加算すれば、強大な赤き魔も滅ぼしうる、と判断した。


 そう、未だ赤き魔は滅びを受け付けていない。されど、痛手は確かに負ったのだろう。苦渋を味わっているのか、爆煙の中から獣の如き唸り声が響いている。


 男とガーデンツは油断せず反撃を警戒していたが、赤い体は煙の奥に隠れ、魔力のうねりも見られない。

 続けざまに連撃を叩き込む好機ではあるが、視界を奪う煙の中に飛び込むのはリスクが大きい。魔術による遠隔攻撃であっても同様、煙が立ちこむ中では狙いを定められず、魔物の背後にいるはずの兵士達を巻き込みかねない。


 自然、場は一時の膠着状態に陥った。

 その合間を利用して、男は背を向けたままガーデンツに問う。


「オリヅア・D・ガーデンツ殿で相違ないか?」


「ああ、そうだ」


「折り入って頼みがある」


「今は立て込んでいる。話は後で聞こう」


「うむ」


 言葉少なに二人が会話している間にも、徐々に煙は晴れていく。長話をする時間はない。今のうちに煙中で唸りを上げる脅威への対策を練っておく必要がある。


「煙が晴れたら私がトカゲ共を倒す。君はあの赤い魔物をひきつけてくれるか」


「承知した」


 ガーデンツはかなりの無茶を言ったつもりだったのだが、男があまりにも簡単に頷いたので拍子抜けしてしまった。あるいはできて当前と男が考えているということか。それとも短時間で練れる策などこの程度と諦めているだけなのか。目前の背中を見ながらガーデンツはいや、とかぶりを振った。


 どちらにせよ、男にやって貰わなければ死が待っているだけだ。彼としても、ここは男を信じるしかない。


「最後に一つだけ。名を聞かせてくれないか?」


「ムオン」


「ならばムオン君、あちらは任せたぞ!」


 魔物の姿が視認できるようになった瞬間、ムオンの姿が掻き消え、赤い魔物に肉薄していた。それを確認すると、ガーデンツはすぐさま練り上げていた術を《魔術言語マギウスワード》に乗せて解放した。光り輝く幾何学模様が突如として現れ、ひと際強く発光し、続く言葉で歪んだ物理現象が生み出される。


『彼の者を青き流れの中に沈めよ!《水撃アルリタス》!』


 初手は初級攻撃魔術。初級とはいえ、多重発動。突き出した手のひらから水流が幾重にも分かれて放たれる。狙いは宣言通り赤い魔の背後に控えるトカゲ達だ。凄まじい勢いで迫る水流は石の様に硬化して、灰色鱗をしたたかに打ち付け、水飛沫が舞う。


『轟く天の白光、《電光一閃リグバルシア》!』


 続く魔術は中級。突き出した手を横向きに振り抜くと同時、稲光が横列を組んだトカゲ達全てをなぞる様に一直線に走る。濡れた鱗が電撃で焼き焦がれた。


『穿て、《地槍乱舞ダグドレギヴァ》!』


 重ねて中級魔術。振り上げた拳の動きと連動して、トカゲ共の足元から鋭利な石槍が花畑を成すかのように咲き誇る。焼き焦がされた鱗は炭化して防御能力を既に失っており、ろくな抵抗も見せること叶わず、十数個の針山ができあがっていた。甲高い断末魔があたりに響き、それを背にした赤き魔が感嘆する。


「これがかの《連続魔チェインスペル》か。まるで詠唱遅延が無い。なるほど、恐るべき技術だ」


「……確かに」


 相槌を打ったムオンが赤き魔の腹部を蹴りつける。凄まじい速度の前に赤き魔は反応すら出来なかった。体ごと吹き飛ばされ、蛇の胴体がずざざと地面を削っていく。


 しかしそれまで。恐るべきことに、シャドウリザードの首を難なく圧し折った威力の蹴りですら、赤き魔にはそれほどダメージを与えることができていなかった。蛇の尾を地面に打ち付けて吹き飛ぶ勢いを殺し、安定姿勢を取り戻すと口元を緩めて笑う。


「くくく、さすがはオリヅアか。雑兵ぞうひょうとはいえこやつらを一瞬で蹴散らすとは」


「残るはお前一人だ。今なら見逃すぞ」


「笑止。元より彼奴きゃつらは肉壁でしかない。この身があれば全て事足りる」


 赤き魔は爆発のダメージからもほとんど回復しているようだった。そもそもがそれ程の傷を負っていなかったのか、その表情には余裕すら感じられる。


 されど、事実として状況は一変した。二対一。二のひとつは既に一を圧倒するほどの力を見せている。優位に立つのは紛れもなく人間二人だ。


「強がるなよ。彼と私、二人を相手に勝てると思うのか」


「勝てるとも。貴様らには不足しているのだ。圧倒的に火力がな。中級魔術程度では我が肉体を傷つけることも叶わぬ」


 ならば大魔術を使えば良いところだが、この状況下ではそうもいかない。赤き魔が大魔術を放とうとした時ガーデンツは狼狽したが、例え自らが大魔術を放つとなっても同じことだ。威力の高い魔術は往々にしてそのまま範囲も拡大する。考え無しに放っては周囲の被害が甚大なものになる。ここは王城なのだ。万が一の事もあってはならない。


 シャドウリザードの体を串刺しにして肉の壁としたのは、相手の戦力を削ると共に、いくらか魔術戦闘の余波による事故を減らすためでもあった。ガーデンツ唯一の誤算は赤き魔にとってその算段が大した問題ではなく、むしろ望む通りの形に近かった事だ。


「そこな男がいかに速かろうと、武器の一つも無ければ我の肉体には傷一つつけられぬと見た。認めろ、震えろ、おののけ、貴様達は決して我に勝てぬことを思い知れ!」


 哄笑する赤き魔をムオンは冷徹な視線で射抜きつつ、策を巡らす。


 まだ全ては見せていないが、見せたところで簡単に倒せる保証もない。下手に手を晒し、赤き魔の肉体に傷でもつければ、せっかくの侮りから来る油断が台無しになる。やるのなら無理だと高をくくっている今、息つく暇も与えず一気に、だ。自分にそれだけの高威力技は無いが、ガーデンツの方はどうか。一般的に魔術は剣技や体術よりも高威力だ。


「奴の言う通り、数発入れたが全くもって効いていない様子。正直我が手に余る。ガーデンツ殿。奴を倒しうる魔術はあるか?」


「ある。が、ここで大魔術を使えば二次災害が出かねんよ」


「だからと言って一次災害を見逃すわけにも行くまい」


「そうだな……一つ試してみたい事がある。もう少し時間を稼げるかね?」


「何をするつもりだ」


「私の得意分野。その延長線上の技術だよ」


 オリヅア・D・ガーデンツのもっとも得意とする所は、先で見せたような魔術の連続詠唱である。


 《連続魔チェインスペル》と呼ばれるその技術は、一つ目の魔術詠唱の途中から二つ目の魔術詠唱を混ぜ込み、さらに二つ目の中に三つ目を、三つ目の中に四つ目を、と傍目から見れば詠唱を超短縮化したかのような高速発動を可能とするものである。また、場合によっては一つ目の中に三つ目を含める場合もある。


 これだけであれば比較的簡単なことのように思われることも多いが、実際は術式の構築においても、前の術式の一部を残す形で次弾魔術の詠唱短縮を図っており、一朝一夕で成せるものではない。難易度は単純に大魔術を習得するよりも相当に高いとされる。


 しかし、これを極めてしまえば詠唱破棄に比べ負担が少ないどころか、前身魔術の術式を再利用する形となるため、単発魔術の通常行使よりも消費魔力量が減るのだ。また繋ぎようによっては大魔術をもほぼノータイムで連続発動できる驚嘆すべき技術であった。


 現時点で完璧に使用できる人間は開発者であるガーデンツのみであり、そのことから彼は世界で三指に入る大魔術師の一人として名を連ねていた。ムオンが彼に会おうとしていたのもその腕前を見込んでの事である。


 そんな男が試してみたいという内容。果たしてどんな魔術が飛び出すのか。ムオンには想像もつかないが、賭けてみる価値は十分にある。


「《術式拡張起動エンハンスドブート》……」


 それは異様な魔術だった。否、果たして魔術と呼んでいいものなのか。渦巻く魔力は《魔術言語マギウスワード》を象るに留まり、本来発動するはずの物理現象が何一つ起こらない。


「させぬ!」


 赤き魔は今度こそ魔術を放った。

 蛇のように連なる炎がうねりながらガーデンツへと迫る。


 先程の大魔術と同じく、詠唱破棄だ。すなわち、言葉という音を媒介にせず、直接魔力を《魔術言語マギウスワード》へと通し印として鳴動させ、さらに通常の数倍の魔力をもって物理現象への反映を加速させるという荒業である。


 さしものムオンもこの速度には対応できなかった。先程は大魔術であるからこそ抗し得たが、今度は中級魔術である《炎蛇縛咬ファグラジェイア》だ。もともと短い詠唱を超短縮化されたのだから、対応出来る存在は人を超えた魔物でもそうはいまい。


 しかし、大魔術ほどの絶望があるわけでもない。発動したならしたで、対応すれば良いだけの事。


 ───付与・水遁すいとん


 ムオンの両足に青い波動がまとわりついた瞬間、即座にそれは円形の軌道を描く。蹴り足がコマのように回転した後には青い円水膜が描かれていた。


「術も使うか!しかしその程度の薄膜では……ッ!?」


 赤き魔が口を挟む余地もなかった。続いて突き出された足に倣って水の円が炎蛇に向かって突撃する。


 二つがぶつかった途端、水蒸気が音を立てて吹き上がる。だが、それだけだ。薄い膜はほんの少し炎蛇の勢いを緩めただけで、障子紙のようにあっけなく突き破られ、あまり意味は成さなかった。


 それでもムオンにとっては計算づくのことだった。ぼう、と水蒸気が舞い上がった次の瞬間には、炎蛇の目前に迫っている。


 ───水刃すいじん


 蹴り抜く。水の波動をまとったそれは、炎蛇の口腔を縦割りに引き裂いた。その余波は飛沫を上げて水の刃となり、白い煙を上げながら長く伸びた炎の体躯を割断していく。勢いに勝った水刃は必然、炎蛇のやってきた軌道をなぞる。


「むうっ」


 赤き魔は己の太い両腕を前に掲げると、避けるでもなくその水の刃を受けきった。恐ろしいことに、やはり傷はついていない。先刻宣言した通りであった。


 それも当然と、ムオンは慌てることなく眼前の白いもやを見やる。


 炎と水。ぶつかった側から相殺された結果、気付けば水蒸気が向かい合う両者の視界を奪っていた。その瞬間を見逃すムオンではない。赤き魔の視界からその姿が霞み───


「もう一度」


 赤き魔が再びムオンの姿を捉え、その呟きを耳にしたのは至近であった。青の刃が再び空気を裂いて赤の肉へと迫る。


「無駄ッ!」


 気勢と共に振るわれた丸太のような腕が水の刃を一瞬で散らした。それだけに留まらず、刃の発生元、即ちムオンの体へと向かっていく。


 が、ムオンは不可思議な体術でその一撃を避ける。柳のようにゆらりと揺れた体が一瞬の残像を浮かべ、そこを赤い拳が貫くと、衝撃だけで鈍い音が鳴り響いた。


「やはり硬いか」


 ───ならば、鍛えようの無い箇所をいただく。


 回避と同時、ムオンは屈んだ体勢から再び蹴りを放っていた。今度の狙いは足元。蛇の胴体へ向けての払うような一撃だった。


「愚かなッ!」


 赤き魔も同じように蛇の尾で払おうとその身を捻った。凄まじい力で地面ごと削られていく。足と尾。ぶつかれば間違いなくただの人間の方が砕ける。


 しかしそうはならなかった。ムオンは軸足となっていた片足でその身を跳ね上げたのだ。飛ぶには余りにも不自然な体勢だったにも関わらず、それを成してしまう。一体どれほどの修練を積んだのか。常識外れの脚力を受けた地面は深く陥没していた。


 そして空中。驚愕の表情を浮かべる赤き魔の眼前につま先が迫る。


 ムオンの狙いは初めから赤き魔の両眼だった。


 確かに頑強を誇る赤き魔と言えど、その部位に刃が突き立てられればただでは済まないだろう。唯一の弱点とも言える。しかし、そこを狙い打つには部位が余りにも小さすぎた。


 赤き魔が少々顔を俯けただけで狙いはずれ、代わりに額に生えた凶悪な一本角がつま先の行く末となった。このままでは痛手を被るのはムオンの方である。


 ───やはりそうなるか。


 ムオンは小さく舌打ちしながら、角へと向かう足をもう片方の足で蹴り上げる。無理やりに軌道を逸らされた足はそのまま上方へ向かい、その勢いでムオンの体は後方へと回転する。とても常識的には考えられない無茶苦茶な空中制動である。


 その時、赤き魔の双眸が逆さまになったムオンの背中を捉えた。全くの無防備、絶好の機会。だが、この僅か数瞬に対応できる速度を赤き魔は持ち得ない。苦し紛れに放った拳は空気を殴ることしかできず、ムオンはそのまま後方の地面へと回転しながら着地した。


「ちょこまかと!」


 赤き魔の豪腕が苛立つ感情そのままに空気を突き破って放たれる。しかし、ムオンはすぐさまこれを回避した。先程と違って空中ではなく自由の利く地面。速度に勝る彼には容易なことではあったが、肝が冷えたには違いない。赤き魔の拳はムオンに避けられはしたものの、容赦なく地面にその力を発揮し、石畳を爆砕したのだ。


 跳ね上げられた土砂と石畳の破片が降りしきる中、赤き魔が続けざま拳を放つ。ムオンは動きを止めず、時折反撃を交えつつもさらに回避を重ねていく。その度に爆音が轟いた。


 ───速度はこちらが上。が、この攻撃力。


 一所ひとところ触れれば死ぬ。

 ムオンの攻撃はかすり傷程度も与えることができず、相手の攻撃は当たらない。となれば、回避に徹するしかないムオンにとって、体力の限界がそのまま命のリミットだ。長引けば長引くほど不利となる。


 もしも、一人で戦っていたのならば。


「《同期接続シンクコネクト》……」


 背後ではガーデンツが異様な魔術を練り続けている。

 ムオンの体力が尽きるのが先か、ガーデンツの魔術が赤き魔を滅ぼすのが先か。攻撃を回避し続け、時間を引き延ばすとはつまり、そういう事だった。


「まだか」


「貴様に構っている暇は……ッ!」


 焦りを抱えているのは赤き魔とて同じだ。異様な術式から溢れ出す気配は、余りにも得体が知れない。何かしら手を打たなければと考えはするが、しかしだからといって目前の男を無視することもできない。

 なにせ、少しでも隙を見せればそれこそ急所を抉り取られかねないのだ。そうなればおそらく、ガーデンツの魔術は確実に避けられまい。


 ───早く、早く、一撃を。当てさえすれば打ち砕ける。


 どちらにも共通する未来への認識は現実と重ならない。

 二対一。やはり優位性は数に勝る方にあった。


「《転換魔チェンジリンク》ッ!」


 猛る叫びが木霊する。

 ガーデンツによって構築された術式に莫大な魔力が通る。まるで大魔術級のうねりが周囲の空気を波打たせた。


「ムオン君、!」


「承知」


 言葉短く受け答えた直後だった。茫洋と充満していた魔力が一点に収束する。


「《原点圧縮ジオアトミュレード》ッッ!!」


 小さな小さな光の玉がガーデンツの手元から射出された。しかれど、その勢いは凡庸。注すれば決してかわせぬ速度ではない。


 が、それを許さぬ男が一人、射線上に現れる。同時、再び赤き魔の眼球へと刃にも似た蹴撃が迫る。愚かにも先程と同様の結末と相成るはずだったそれは、角が目前に来るなり、異常な速度で後退した。先程よりも早く、より速く。まるで跳ね飛ぶかのように閃いた。


 瞬間、赤き魔の双眸に映ったのは至近へと迫る光の玉だった。


 ───やられた。


 急所への一撃を見事に囮として使われた。危険視すべき光玉もその背に隠れて見失った。


 もはやかわせぬ距離と知り、咆哮が魔力を伴って迸る。途端に展開された障壁が光の玉の行く手を遮り───


 炸裂した。


 収束、収縮、収斂しゅうれん

 一旦弾け飛んだかに見えた光の粒子たちが炸裂した一点へと向かい集中する。

 その流れは、赤き魔の体すら巻き込んでいく。


「ぐッがッ!!」


 圧迫。圧縮。圧殺。

 鍛えられた肉が軋むほどに吸い寄せられていく。障壁など意味を成さない。全てが一点へと収束していく。


 ───なんだこれは、なんだこれは、なんだこれはッ!!


 混乱する脳髄では現状への認識、解析が進んでいく。引きずられ、押しつぶされるような感覚を与えてくるこの魔術の正体は風魔術に近い。が、明確に異なる。肉を裂くような真空も起こらず、風の流れすら感じ取れず、ただただ単純に空中の一点へ引きつけられる。圧縮される。


 赤き魔の肉体が浮いた。蛇の尾ごと持ち上げられた。不自然に、跳ね飛んだでもなく酷くゆっくりと、中心へと向かって進むことを義務付けられたかのように。


 皮が、肉が、骨が、存在が潰される。


力場魔術フォーススペル───ッ!?」


 かろうじて震わせた喉から驚嘆の声が漏れ出ていた。


 力場───即ち引き合う力である引力、押し合い反発する力である斥力を意味する。概念は既に確立されていたものの、それを魔術で操ることはほぼ不可能とされていた。


 なにしろ、火、水、風、土、光、闇───エレメントと呼ばれる属性を介して操ることが出来ない無属性に区別されている術である。さらに、属性を介さないとは属性元素の先の構成要素を操ることに通ずるのだ。大魔術を超える魔術。更に推し進めれば、至る先は究極の───


 ありえない。

 赤き魔の脳裏で否定の文字が躍る。


 力場魔術フォーススペルの術式制御は微細、緻密の極地に当たり、加えて莫大な魔力、それこそ大魔術を何百、何千発も撃てるほどの量が必要になると言われている。理論的には可能だが成せるはずが無いというのが魔術師達の常識だった。無論、赤き魔にとっても。


 オリヅア・D・ガーデンツという魔術師はそれほどの魔力量を持つと言うのか。

 信じられぬ。到底信じられぬ。


 しかし、事実として体感している。既に最も細い指先の肉は骨ごと潰され、額の角は見る影も無い。胸や肩の筋肉も陥没を始めていた。

 恐ろしいほどの圧殺に必死に耐えながら、目を剥いてガーデンツを睥睨へいげいする。


「負け、られ、ぬ……!」


「くっ……!」


 対するガーデンツは額に玉のような汗を浮かべながら術式制御を行っていた。

 未だ術式は不完全。理論上、本来なら一瞬で力場は凄まじい重圧を発するはずだが、そこまで持っていくことはできなかった。収縮する力を徐々に強める術式へと常時魔力を送り込む必要があり、それを維持し続ければ凄まじい勢いで残存魔力が消費されていく。


 ある意味、賭けではあった。

 しかし、どうにか勝ち筋は見出せた。赤き魔の肉体がひしゃげていく速度と残存魔力の割合から見て、このままいけば魔力が尽きる前に赤き魔を滅ぼせる。


 ───と、その時だった。風が舞って、一つの影が地面に落ちた。

 浮かぶ赤のさらに上、異質な空気が渦巻いて、ばさりと羽ばたきが響く。


「おっと待ちな!こいつが見えるかあ!?」


 突如割って入った声を聞き、すかさずムオンがガーデンツの前に位置取り、上空を見上げて構えを取る。そして舌打ちした。


「今すぐ術を解除しろ!でなけりゃこのガキの命はねえぞッ!」


 そこには新たな魔が現れ、よりにもよって人間の子供を抱え込んで浮かんでいた。


 空中からガーデンツ達を見下ろす異形はまるで羽の生えた人間───否、その顔つきは人ではない。口腔は顎と共にせり出し、口は裂けたように大きく、尖った牙が飛び出している。もはや獣か爬虫類の類に近い。背には鳥のような翼を携え、比較的痩せてはいながらもやはり魔の一族である故か、その筋肉は発達している。肌は鱗のような物に覆われて青く煌き、赤き魔と双璧を成すような存在だった。


 双璧の片割れは、赤色せきしょくの体を軋ませつつもなんとか空を見上げた。二つの魔の視線が交錯したのはほんの一瞬だった。すぐさま、それすらも許さぬと不可視の力が五体を歪ませる。


「早くしやがれ!」


 青き魔はガーデンツの応答も待たず、抱えた子供の頬に自身の長い爪を走らせた。子供が小さく身じろぎし、空中で血しぶきが舞って、ぴちゃりと地面に落ちる。


 途端、赤き魔を圧迫する力が消えた。鈍重な音を立てて再び蛇の尾が地面を這う。


「捕まえてきたぜ、ジュエ。随分と面倒な仕掛けだとは思ったが、まさかそいつが功を奏すとはなァ……!!」


「────い、いいところに来てくれたな、ストウナ。正直、助かったぞ」


「ハッ、そいつぁ重畳ちょうじょう。俺もめんどくせえ役回りを引き受けた甲斐があるってぇもんだ。てめえがそこまで苦戦するのは予想外だったけどよお」


 赤き魔、ジュエと呼ばれた魔物が解放感に大きく息をついて上空を見やると、青き魔、ストウナは鼻を鳴らして眼光を鋭くする。


「子供を人質にとるとは……」


 ガーデンツの呟きを受け、青き魔は愉快げに口を大きく開き、真っ赤な舌を覗かせた。


「クハハ!こっちの騒ぎのおかげで城外の警備はザルだったぜえ?」


はかられたか」


 ガーデンツは口惜しげに唇を歪めた。

 見たところ、脅しによる子供の傷は軽微。騒がないところを見れば既に気を失っているのだろう。話しぶりからするにこれも初めから襲撃計画の内か。


 ───なんとしたたかな。


 力と物量に物を言わせることしかできない通常の魔物とは一線を画している。人質の意味を把握しているとはつまり、人の心の機微まで知っているということに他ならない。


 状況はより悪化してしまった。


 今直面している危機だけでなく、今後も厳しい戦いになるであろうことを予感し、ガーデンツの心は戦慄に揺れる。


「見捨てれば良い」


 されど、この場には揺らぐことの無い男もいる。自身の目的を見失うことなく、ただ一つの先を見据えて動くことのできる男がいる。幾多の戦場を渡り歩いた証左である傷を乗り越え、確固とした己を貫くことの出来る、ムオンと言う男がいる。


「あれは名も知らぬ子供なのだろう?どちらを取れば国の、引いては国民のためになるのか、答えは明白。ガーデンツ殿の命の方を優先すべきだ」


「それはできんよ」


 受け入れられない、とガーデンツは首を横に振った。


「…………」


 応答は無言。それを否定と受け取ったか、ガーデンツはさらに言葉を続ける。


「ムオン君。君も分かっているのだろう?私達は魔物ではない。人なのだ」


 そうであろう。それは正しい。間違いなく正しい。だが現実は、往々にして人としての正しさを歓迎しない。


「……承服しかねる」


「なに、全員の命を守れば良いだけだ」


 理想論はどこまでいっても理想でしかない。ガーデンツほどの経験を積んだ者がそれを理解していないはずがない。ならば、事実手があるのか。視線だけで問うムオンに、ガーデンツは小さく頷いた。


 そして状況は進む。あるべき歴史の通りに進んでいく。


「ガーデンツさん!」


 少年のような若々しい声がガーデンツの背に浴びせられた。その声の主こそ、既に英雄との呼び声高い天才剣士、レクス・アールヴィンであった。


 燃えるような意志を讃えた瞳が現状を捉え、煌びやかな金髪を揺らして狼狽する。

 さらに、同じく駆けつけた者達も一様に息を呑んだ。


「今すぐあたしの術で……ッ!」


 恐るべき魔力を秘めた魔術師の少女、アイヴェ・クレイムルは、状況を把握するなりすぐさま魔力を練り上げ、桃色の髪を逆立てさせるが、


「落ち着けアイヴェ。あれでは子供も巻き込みかねん」


 大精霊を使役する稀代の召喚術師にして異端の魔術研究者、グランス・F・マイスターが被ったとんがり帽子のつばを強く握りしめながらも、冷静にそれを制止する。


「でも……ッ!!」


「焦りは禁物ですよ、アイヴェさん。傷は私の術で癒せますから」


 慈愛の少女と呼ばれる清廉潔白な神光術師、ミーティ・アリアードはそう言いつつも、普段の優しげな眼差しを歪め、切迫した表情で携えた杖を握り締めていた。金色の長髪が小刻みに揺れている。


「ねえ、レクスッ!!」


「分かってる!けど……ッ!」


 彼らもまた一騎当千のつわもの達。赤と青の魔物の強さは言葉無しに理解できる。加えて、人質の存在が易々と手を出せない状況を作り上げていた。


「おうおう、なんかわけえのが出てきたなあ」


「ストウナ、侮るなよ。お前の悪い癖だ」


「ヘイヘイ、っつーわけでテメェら、余計な手出しすんじゃねェぞ?こっちにゃ人質がいるんだからなあ!」


「卑怯なッ!」


「クハハハッ!本当に若ぇなあ!いくさに卑怯もクソもあるかよ!」


 ゲラゲラと笑うストウナに対し、少年は幼さの残る顔を鬼神の如き表情で塗りつぶす。


 ───憤怒。


 凄まじい敵意が撒き散らされた。それは英雄などと言う呼び名と程遠い、まるで獣のように無造作な威嚇。されどその質は獣等とは比べるべくもない。


「おー、おー、おっかねえ。……マジでおっかねぇなテメェ」


「その辺にしておけストウナ。我らが目的を忘れたわけではあるまい」


「わぁーってんよ。用があんのはあの小僧じゃねえ」


 ストウナとジュエの爬虫類のような瞳がガーデンツを射抜いた。


「それにしても驚いたぞ、オリヅア。まさか力場魔術フォーススペルとはな。アレほど異質な魔術は見たことが無い。あるいはルヴォルク様に匹敵するかもしれぬなあ」


「……究極にもっとも近しいといわれたあの男にか。光栄だな」


「まさに。嫉妬を覚える。この身が赤く染まるほどにな」


 くくく、と赤き魔は己の戯言に笑う。そこにあったのは嘲りでもなく、怒りでもなく、余裕であった。敵地で掴みえた己の有利に、目論んだ通りの状況に、赤き魔はしたり顔で哄笑する。


「……それで、何が望みだ」


「主の命は宣戦布告のみだったがな、土産に貴様の命を貰い受けたいのだよ。オリヅア」


「やるがいい。ただし、私の命と引き換えにその子の命は奪わないと誓え」


「良かろう。貴様が死ぬところを見届ければ子供は返す。取引は成立だ。……しかし、随分とあっさり受け入れたな」


「とっておきが阻まれたのだ。もう打つ手が無い」


「真意とは思えぬな。先程の貴様の所業からして油断ならん。我の埒外にある手段を取るやもしれぬし、不用意に近づくは愚行よな」


「ならばどうする」


「炎の蛇に拘束されたまま焼け死ぬがいい」


 言うなり、赤き魔は潰れた指先を持つ片手を天にかざし、《炎蛇縛咬ファグラジェイア》の呪を唱え、瞬く間に炎の蛇を顕現させた。腕にまとわりつく炎蛇が不気味に蠢く。それを見るなり、すかさずムオンと英雄達が動こうとするが、


「来るなッ!!」


 ガーデンツ自身の釘刺しで誰も彼もが足を止めてしまった。


 しかし赤き魔は止まらない。止まらぬまま炎の奔流をガーデンツ目掛けて投げつけた。ほんの一瞬、制止の一声で皆がたたらを踏み硬直する瞬間を見逃さなかった。誰もが阻むこと叶わず、炎の蛇が踊り狂い、ガーデンツを飲み込む様子を呆然とみつめることしかできなかった。


「ガーデンツさんッッ!!」


 赤い奔流の中で人影は微動だにしない。ただ燃え尽きることを待っているかのように静止していた。灼熱の炎が生む陽炎の中でゆらゆらと揺らぎ、やがて黒い影はゆっくりと倒れこむ。


 不意に炎中から光が走った。

 炎の蛇はひとしきり獲物を焼き焦がして天へと昇り、消失する。


 そこに残されていたのは黒こげとなった、かつて人間だったもの。倒れ伏したガーデンツの肉体だった。


 英雄たちの心に絶望が、魔物たちの心に喝采が生まれる。


 それは油断だった。


 死体のはずのそれから突如として異様な魔力奔流が溢れ出したのだ。

 その場にいる誰もが反応できなかった。黒い影は一瞬でそこから消え、代わりに現れたのはストウナの手中にいたはずの子供。


 そしてストウナが手中にあったのは、皮膚が焼け爛れ、半ば炭と化したかつてガーデンツだったもの。


 焼けた眼球は既に何も映さず機能を失っていたが、眼窩の奥には異様な光が覗けて見えた。そこから生まれ来る魔力奔流は止まらない。


 ───瞬間転移ッ!?焼かれながらも術をッ!?


 魔物達が理解し始めたときには既に二度目のそれが果たされていた。地上にいたはずのジュエの巨体が、ストウナの目前に現れたのだ。


 同一地点にまとまった一人と二体を、死に体から噴出する魔力が取り囲む。


「貴様生きてッ!?」


「テメェ何をッ!?」


 驚愕する魔物二体の言葉を無視し、死体だったはずのガーデンツは焼けて癒着した唇を無理やりに引き剥がして叫ぶ。


「あとは頼んだッ!」


 残っていた瞬間転移の《魔術言語マギウスワード》が、術式が様を目撃し、赤と青の表情が更に引きつった。


 呪文の詠唱が無い。詠唱破棄に伴う魔力の減衰、異常消費すら全く無い。理解不能。魔術を知るものであれば誰しもがそう感じる現実が今ここで起きている。


 ───《転換魔チェンジリンク魂絶炎生エグゾート・バジェ


 瞬間転移から転換されたそれは、魂を起点にした魔術。


『人に宿る魂は精霊の一種である』


 グランス・F・マイスターが提唱した説に基づく理論を体現したその魔術は、稀代の魔術研究者二人の語らいを通して生まれた消滅の魔術である。己が内にある根源精霊を召喚し、他者の根源精霊と混ぜ合わせて分解、命の律動規則を失わせる、ある意味では究極の魔術だった。


 その余波を持って、ガーデンツは己の体を制御している。魂そのもので肉体を制御している。


 ───まさか、三度みたび究極に近しい魔術を見れるとは。


 終焉を目前にしてジュエの心に浮かぶのは純粋な賞賛だった。力場、転移、そして根源制御。それらの術式を頭で理解したわけではない。魂を解するのは同じく魂。魔の道に堕ちたからこそ理解できる魂の変化。


 ───敬意を表し、全力を持って貴様に一矢報いよう!!


 赤き魔の豪腕が唸りを上げる。もはや止めることのできない最後の魔力集中の一瞬。そこに賭けて、腕を振るった。鈍い音が鳴る。


 直後、己がはじかれたことに気付いたストウナが目を見張る。

 視線の先ではガーデンツとジュエの肉体が光に溶けて、光となって消えていく。音もなく、動きもなく、まばゆいばかりの光が魂を無へと変遷させていく。


 静寂。

 静寂の内に全てが終わる。


 ひどく静かな───死に様だった。


「…………」


 残ったのは彼の偉大な魔術師が身に着けていた衣服のみ。ばさりと落下したそれを拾い上げ、ムオンは無言でその結末を受け止めた。


 その胸に去来するのは果たして如何なる感情か。茫洋とした視線からは全くもって読み取れない。ただ、灰に近い衣服が強く握り締められぼろぼろと崩れ落ちていた。


 英雄達もまた、それぞれの反応を見せ、嘆きを上げていたが、それ以上にその場に響く叫びがあった。


「あ、あああ、嗚呼嗚呼嗚呼アアアあッ!!ジュエ……ジュエええええッ!!」


 一体どれほどの間柄だったのか。そも、魔の間に親愛なる感情が存在するのか。あるいは人にあらざる者故の特異な機微なのか。それにしては余りにも───ストウナの見せる狂態は、人が悲しみの果てに見せるそれに酷似していた。


「ああ、嗚呼アア、テメェら……テメェら必ず殺してやる、殺してやんぞ……いいや、いいやッ!テメェらだけじゃねえ!皆殺しだァッ!ヴァルシュナ平原であらゆる人間を殺しつくしてやるッッ!!」


 そして、続く反応もまたそうであった。憎しみに埋め尽くされた感情の爆発。しかしそうであっても、魔を束ねる一人である。現状は多勢に無勢。引き際は間違えない。無謀は試みない。


「がああああああああッ!!」


 唸りを上げて魔力を解き放つ。翼をはためかせ、その身を空に持ち上げると、突風が城門内に吹き荒れた。

 悲しみに揺れる嗚咽は青き疾風となって遠ざかっていく。

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