第6話

 死屍累々と続くはずの洞窟内部は整然と片付けられてしまっている。崩落の痕跡や爆発の跡はそのままに、死体だけが綺麗に持ち去られて消えていた。死体にはなっていなかった者も少なからず居ただろうが、彼等も消え失せていた。この遺跡はやはり人の来るべき場所ではないらしい。マリィはようやく落ち着いて、カルロに抱きかかえられたままで首を巡らせた。空気が多少悪くなっているのを敏感に感じて、鼻をひくつかせた。


 遺跡の出口はもう眩しくない。黒く開いている洞窟の口がようやく見える距離に来て、その場に蹲る人影を見つける。カルロには意外に思える人物であり、マリィには忘れられない恐怖の思い出を彩る登場人物だ。男の声は落ち着いていた。


「よう、死に損ない。」


「そっくりお前に返してやるよ。」


 二人はおだやかに会話を始めた。洒落た青紫のスーツは血に汚れ、水に濡れて台無しになっていた。座りこんだロベルティーノの近くには、大小の魔物が腹だか背だかを見せて多数が転がっている。利き手に握る大振りのナイフを試すすがめつした後に、彼はそれを脇の水中へ沈めた。震える唇は葉巻を銜え、火を付けようと試みているジッポのライターは乾いた音ばかりを立てていた。


「芯がしけっちまった、ざまぁねぇな。」


 投げ捨てて、ロベルティーノはカルロを見上げた。


「ライターなんて洒落たモン、持ってるわけはないよなぁ?」


「酒ならあるんだがな。」


 青褪めた顔色は互いにもういけないだろうと思わせた。カルロのわき腹あたりもシャツを赤く汚している。ロベルティーノの方が重症のようだが、見た目だけでは解からない。


「何の得にもならねぇのに……、」


 咎めるようにロベルティーノの声がカルロの背後に投げられた。続ける声も非難の言葉を綴った。


「今さら善人ぶって何のつもりだ? 死ぬ間際になって、天国への切符でも欲しくなったのか?」


「俺もお前も、こんな程度で帳消しになるような人生だったか? お前も焼きが回ったな。」


「じゃあ、何なんだ。最期になって俺に嫌がらせでもしたくなったってのか?」


「そんなんじゃない。けど、言っただろう。俺がくたばるまで待ってりゃ良かったんだ。」



 次にロベルティーノが吐き捨てた呟きは、カルロの耳には届かなかった。背を向けてロベルティーノの傍を通り過ぎた後はもう振り返りもしなかった。漆黒の闇が待ち受けるように洞窟の出口を覆っている。


「カルロ。」


「なんだ?」


「死ぬのが怖かったのか?」


 病院を抜け出した理由を聞いたのだろうと思った。


「死神の足音ならもう聞き飽きたくらいだ。」


 別に逃げ出したくなったわけではなかった筈だ。振り返ってかつての知人を見た時、彼は曖昧に頷いて目を閉じていた。火の付いていない葉巻を青褪めた唇がいつまでも未練有りげにしゃぶっていた。


 せせらぎの音が梢のざわめきに切り替わった時、背にした洞窟の闇から銃声が微かに聞こえた。



 黒い森の陰は突然に途切れた。草原は月に照らされていた。カルロの姿はまだ彼らの視界には映らないだろう、木々の影に紛れている。街道の通じた開けた野原には、複数の人影が黒く突き立っていた。ロベルティーノの一味とは別のギャングたちだ。従えるように中央で反り返っているのは、例の名士だった。カルロはマリィを降ろし、木の影に隠してやる。少女の手が不安げにカルロのシャツを掴むと、やんわりとその指を解いた。自身の指を一本、口元にあてて静かにしているようにと指示すると、少女は不満げに口を尖らせてその場へしゃがみ込んだ。膝を抱えて丸くなる。顔を伏せて膝と腕の間の隙間へ懸命に収めた。カルロは立ち、歩き出す。神が救うなら、マリィは助かるだろう。優しい闇の抱擁から抜け出して、冷徹で美しい月の足元へと歩み出る。森の中から出てきた男に気付いた者たちがそれぞれで顔を上げた。月は蒼く、大きく、カルロの背後に掛かっている。青褪めた光が世界を浮き上がらせ、草原を死人の色に染め上げていた。



「待っていたよ、カルロ・フェランディエーレ。かつてコロシアムでの名声を欲しいままにした著名な英雄にお目にかかれるとは光栄だ。……こんなところで!」


 男の大袈裟な身振り手振りでようやくカルロはこの白豚の名を思い出した。


「現役市長が俺に今さら何の用だ?」


 もうじき行われる次期市長選挙においても続投間違いなしと謳われている男だ。多彩なコネクションは承知していたが、マフィアにまで顔が利くとは驚きだった。この一件の背景がうかがい知れる。白が好みらしく今夜もスーツは真っ白だった。クリーンな衣装を着て尊大な顔付きをした市長は負けるはずのない勝負の場所に立っていた。周囲のギャングがますます彼を尊大にした。そっくり返って嗤う市長に、カルロは駆け引きなしの言葉を投げた。


「ロベルティーノはしくじった。それで、直々に俺を始末しに来たのか。」


「そんなに単純な話じゃぁない。君にとっても悪くはないはずだ。そもそもは例の小娘一人だ、命を賭けるほどの価値があるだろうか? しかも賭けられるチップは、かつての英雄の命だ。これはレートが無茶苦茶だ。そう思うだろうさ、君だけでなく、後ろの連中だってそう思うはずだ。」


 太い首を不器用に回して市長は背後のギャングたちにも同意を求めた。にやけた笑いを貼り付けただけで何をするつもりも無さそうな連中が、黙ったまま微笑の色を濃くした。視線は物珍しげにカルロを見ていた。注目されているのは趣味の悪いスーツに身を包む男ではなく、死神の洞窟からただ一人生還した伝説の持ち主だ。かつて、たった一丁の拳銃とナイフ、それだけで魔物たちを闘牛のようにいなした男。にやにやと笑う多数の若いギャングたちは、熱に浮かれた目をしていた。



「わしとなら直接取引をすると、そう聞いていたんだがな。黒幕が誰か知りたかったんじゃないのか? 君さえそのつもりなら、計画の全貌を話して聞かせてもいい。なにせ危険な橋を渡らねばならん、腕の立つ男なら大歓迎だ。」


「この街にカジノなんぞは必要ないだろう? 小さな街だ、すぐ浮浪者で溢れるぜ。」


 カルロが目を配ると、ギャングたちはどいつもこいつもが卑屈な色をその瞳に浮かべる。ロベルティーノの一味に抑えられてきた他の組織はどこも脆弱だ。そっけないカルロの返答に、市長はあからさまに眉を顰めて不機嫌を表へ出した。


「カジノは今こそ必要になったのだよ。君が最大のマフィア組織を潰してしまったからだ。これから先、残ったマフィア同士の抗争は激しくなり、街は戦場の如くとなるだろう。君のせいでな。」


「知ったことじゃない、」


「病はだいぶ悪いんだろう? 残りの人生くらいは大事にしたまえよ。」


 カルロは胸中に毒づいた。支配者気取りの豚が続けた。


「このままでは大混乱だ。これを抑えるためにはカジノの建設がもっとも近い道だろう。裏の権利を、ここに居る連中が一手に担う。そうすればすぐにかつてのロベルティーノ一家と同等、いや、それ以上の力を持つようになる。それ以外に、この街を戦禍から救う手立てはあるかね?」


 カルロは黙っている。その胸中を、市長が理解出来るはずはなかった。


「いいかね、フィランディエーレ。いや、親愛を込めてカルロと呼ばせて貰おう。名人と言われたマタドール、君に敬意を表する。かつての君と同じ、この街を救える英雄は他にないのだ、このわし以外にはな。」


 現市長の影響力の大きさは、世事に疎いカルロですら知らぬものではなかった。強力なリーダーシップ、コネクションを駆使し、数々の難しい施策も断行してきた手腕は確かなものだった。自負は自惚れではない。この男の他に、この街の市議をまとめ上げる手腕の持ち主は思い出せない。


「この街はもうギリギリなのだ、立て直しの施策もなく、折からの不況に耐えるだけの産業もない。こんなちっぽけな街が生き残っていくためには、他にどんな道があるというのだ? 賢明なる者たちは皆、気が付いている。この街はやがてじりじりと死んでいく。起死回生の手段は、カジノしかないのだ。」


 その土地の経済のうちで、もっとも早くに影響を受けるのはマフィアたちだ。カルロは無反応を通していた。


「劇薬が必要なのだよ、カルロ。この街を、活かし続けるために。」



 カルロは静かに目を閉じた。親友がこの白豚を前に吐き捨てた言葉がふいに甦った。オレンジの燈火に照らされる石畳は痛んでいて、雨となればすぐにぬかるみを作った。疲れた人々が商家の軒に雨を避けて途方に暮れていた。僅かな楽しみは週末ごとに行われる闘牛の催しで、少ない稼ぎから無理をして人々はショバ代を支払った。何年も掛け丹精込めて育てた牡牛は一晩でマタドールに潰された。歓声が遠くなる。マフィアの抗争を止められる者は居なくなる。カルロは無明の心境にあった。


「早く手当をしないと、さすがの君でも不味いんじゃないかな?」


 演説は終わったようだった。目を閉じていたカルロはゆっくりと瞼を上げた。


「問題ない、俺はどうせ死ぬ。」



 市長は驚愕の表情を浮かべていた。額に丸く小さな穴が穿たれた。後頭部に水風船が壊れる音が響き、ゴムの中身が弾ける様とそっくり同じに脳漿が飛び散った。カルロは腕を下ろし、無表情に戻って見下ろしていた。微かに浮いた微笑がなぜ必要だったかを考えていた。


「やっぱり、やっちまったか、」


 近付きながら若いギャングの一人が呟いた。誰一人、武器を構えない。市長は彼らを味方だと信じただろうに。


「覚えてるよ、"悪魔"サンディゴの仕合は見事だった。」


 牡牛の仔が、新しい"悪魔"となって復讐を果たした。


「あんたは今でも英雄だ。」


 通り過ぎざまに、カルロの肩を親しげに叩いた。



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