第5話

 動き出したカルロは迅速だ。マリィに荷物袋を持たせ、中身を探って透明なテグスを取り出した。大物釣りで使う太いプラスチックの糸は大層頑丈でペンチを使わねば切れない。くるりと指先で工具を回し、テグスを口の端で引っ張ってブツリと切った。少女は興味津々で男の手許を覗き、そのうちには助手を務めるようになった。場所を選び、テグスを水中に張り巡らせ、糸の先には物騒な仕掛けを施していく。マリィの視線が不思議がっている。


「花火が上がるんだ、」


 軽い調子で言い、ビスで固定する。太い糸と細い糸とを繋ぎ合わせ、岩の影へと慎重に手りゅう弾を設置した。トラップを張りながら、二人は元の道を引き返していく。すべての仕掛けを終えた後もカルロは後退を止めず、結局は元のマンホール下へ戻ってきた。前面には古代の遺跡が横たわり、ところどころに深い水を湛えた淵がある。さきほどの大きな魔物が水底には潜んでいるはずだ。天井は複雑な構造で低い場所と高い場所、鍾乳石がつららのようにぶら下がる場所も上流にはある。


 マリィに軽くなった荷物袋を背負わせ、そのまま腕に抱きかかえてカルロは縦穴を登った。二重になった上の網の中へ少女を隠して、洞窟側から鍵を掛けた。言うべきセリフは同じものになった。


「いいか、魔物が来たなら上に逃げるんだ。マンホールの蓋は……外せないんだったな、」


 先持って外界への蓋を開けておく事は、魔物に備える以上に危険だと思われた。運があるなら神が救う、カルロは何の言葉も付け足さずに下へ降りた。



 水飛沫をあげ、水路へ戻ったカルロを出迎えるものがあった。黒い魔物の大物だ。威嚇射撃にも怯まず、カルロに向かってきた。腹を減らしているのかも知れない。飛びかかった魔物を避けてカルロが飛び退き、浅瀬へ着地した巨体の周囲に盛大な波が立った。バックステップで距離を取る間、魔物は動かなかった。黒い背は"悪魔"を思い出させた。シャツの裾を引っ張り出す。敵の様子を窺いながら、両袖を抜いてシャツを脱いだ。当時より幾分衰えた肉体はそれでも俊敏な筋肉をたっぷりと蓄えて力強い。しなやかな腹筋の流れの内、右胸の下には大きな引き攣れの傷跡が白く浮いていた。この傷を付けた怪物と同じくらいの巨体が今、カルロの前で以前と同じ殺意を漲らせている。獰猛な獣の意思は、カルロの内に眠っていた心地良い緊張と高揚を呼び覚ました。シャツを広げて颯爽と振り抜いてみる。コロシアムで使う赤い布のように綺麗な流線を描いてはためいた。


 白い布では雰囲気が足りないものの、久しく忘れていた感覚に口元が綻んだ。黒い牡牛はゆっくりと、そして突然速度を上げてカルロに突っ込んできた。挑発で揺れる白い布に襲い掛かり、しかし標的の布きれは即座に目の前から掻き消えている。振り払ったカルロは身体を軸に旗をくるりと回転させ、再び牡牛の進路で白い色を振り立てた。魔物と見紛う闘牛は、角を振り立てて興奮している。カルロは余裕を見せて闘技場を歩き、テーブルの石柱からライフルを取り上げた。サーベルが欲しいところだ。


 あの日の熱狂を思い出していた。栄光の日の輝かしい場所。対峙する牡牛はその年最高の仕上がりで、闘志の塊だった。カルロの身体に巻きつく布は赤く、装飾も煌びやかで誉れ高い闘牛士のコスチュームだ。派手な赤を目がけて牡牛は疾走し、人間をその角で串刺しにする。幻のように赤い残像は霞み、闘牛士のギリギリ脇を牛は虚しく走り抜けた。格式に倣うなら、槍と馬が必要だ。馬上槍が牡牛をいい具合にまで仕上げた後に、カルロの、闘牛士の最後の仕上げが待っている。コロシアムは人々の熱気に包まれる。再び、カルロは赤い布を振るった。牛が駆け抜けるギリギリの距離から、狙い定めたその急所へ最初のサーベルを打ちこむ。


『オーレ!』


 あの日の大歓声が響き渡った。



 ライフルは轟音を洞窟内に響かせ、魔物の肉片を四方へ飛び散らせた。もんどりうって倒れた黒い巨体に、カルロは銃身を器用に片手で回転させて弾丸を補填し、歩いて近寄った。再び、轟音。瀕死の体で魔物は水中を素早く泳ぎ去った。改造型散弾の威力は44口径より遥かに上だ。地底の河のせせらぎと虚しさとが舞い戻った。


「マリィ、俺が戻るまでじっとしていろよ。」


 縦穴の中で身を竦ませているだろう少女に一言、そしてカルロはまた上流へ向けて歩き出した。



 洞窟の出口に見える眩しい蜃気楼は複数の人影が中で踊っているように見えた。薄明りの洞窟内から、外の明るい光に慣らすためにカルロは目を細めて白い空間を見つめていた。ただ白いだけだった景色にはやがて緑の陰と動き回る人影とが映りこんだ。洞窟の最終は森のようだ。持ち出してきたライフル二挺のうちの狙撃用を肩から外した。もう一つは馬鹿げた威力の狩猟用で、通称は"象撃ち"だ。改造弾を装填すれば魔物が二発で消し飛ぶ。岩壁は水で濡れていて、もたれ掛かるカルロの肩からわき腹あたりへじわりと染みた。狙撃銃を構え、照準を絞る。近寄ってくる斥候の一人、目立つエンジのスーツを標的に定めた。まだ若いギャングは二十歳にもなってはいまい、こういう下っ端の仕事がもっとも回って来やすく、こういう仕事はもっとも死ぬ危険が高い。なんの警戒も持たずに洞窟を覗き込んだその胸元に小さな穴が開いた。背中からは大量の血が、赤い花火のように一瞬で開いた。死傷率を上げた弾丸は人体から抜け出る時に威力を発揮し背中反面を破壊する。少年のような顔が驚きの表情を貼り付けたまま、前のめりに倒れて浅瀬に飛沫を跳ね上げた。2分や3分ならまだ生きているだろう。周囲は騒然となり、人が慌てて動くその影を追って、さらに一人を射殺した。闇雲に撃ちこんでくる反撃の銃弾はカルロの許にまでは届かなかった。叫ぶ声は洞窟の奥にまで届くものと届かぬものとがある。入り口付近で怒鳴った男の声はカルロにも届いた。


「迂闊に飛び込むんじゃねぇ! ヤツの腕を忘れちまったのか、馬鹿野郎ども!」


 その口が閉じる前に、後頭部が爆ぜる。一瞬でも止まった者は全員がスナイパーの餌食だった。一人斃れるごとに、ヒステリーのような弾丸の返礼が洞窟の奥へ放たれる。狙撃者の姿を探す者も狙撃者自身も付近の僅かばかりの闇へと身を隠していた。


「狙い撃ちにされてる、慎重に、数人で固まって動くんだ!」


 中腰になり、拳銃を胸の位置に両手で祈るような仕草。一人が小走りに洞窟内へ駆け込むに合わせて、隠れた位置から腕だけを伸ばした数人が、目くら滅法の援護射撃を行った。当たるとも思わないが、カルロは思惑に合わせて身を引いた。水の跳ねる音を立てないよう、慎重に後退する。ギャングたちは無暗と弾丸を浪費しながら、次々と洞窟内部へと侵入を果たした。


「よし、そのまま援護しながら中に進むんだ!」


 狙撃が止んだと合点して、リーダー格らしい男が威勢の良い声を張り上げた。カルロの読み通り、一味は壁伝いに歩いている。カルロの計画から外れる行動を取ったギャングは容赦なく射殺された。真ん中を歩かれては支障が出る、威嚇の弾丸は連中の鼻先を掠めた。



 ちらりとカルロは腕の時計に目をやった。安物の時計はすでに夕刻を示し、腹の具合もちょうどそんな時間を知らせている。助けた少女が腹を空かせているだろうと考えた。ロベルティーノの姿を気付けば探していた。奴の腕で輝いていたダイヤの腕時計を思い出していた。相当に偉くなったようだし、こんな場所には来ないかも知れない。いや、恐らく来ないだろう。らしくもないセンチメンタルで視線を落とし、気を取り直して銃を構える。進む道が違ってしまったと、自覚するには今更だろう。お調子者の若いのが一人、ふらふらと浅瀬へ入りかけるのを嫌ってカルロはそのギャングを射殺した。「ちくしょう! あのヤロウ、俺の弟を殺しやがった! ちくしょう!」駆け寄って抱き寄せるのは兄弟だろう、足元の仕掛け糸が二人の傍で微かに光っている。眉を顰め、スコープ越しにテグスの輝きを確認してから、兄弟とも射程に収めた。弟の胸に再び僅かな血の飛沫、そして後ろの兄に貫通する。よろけて二人ともに斃れた。あっけない終わりを周囲は沈黙で見守っていた。「ちっ、」誰かが憎々しげに舌打ちを鳴らしただけだ。洞窟に反響する声はなく、静まり返った空間にせせらぎの清らかな音楽が奏でられ、邪魔をする足音はなりを顰めた。全員が岩陰に、洞窟の両端に寄って進んでくる。足取りは重く、慎重に、カルロの計算通りに。やがて誘い込まれた一団は広い場所へ来て誰かが天井を見上げた。



 鍾乳洞となっている中間地点はことさらに見事な景色だった。広い洞窟は浅い水が床を這い、天井だけがいやに高く、闇の中からつららのような巨大な鍾乳石がぶら下がる。片側は遺跡の神殿がパルテノンを思わせる白い屋根を半分だけ覗かせて埋まる。もう片側は漏斗のように狭まって、洞窟入り口へと向かっている。カルロが逃げた方向は遺跡の側だと一団は思っている。狙撃は完全に止んだようだった。また敵は奥へと逃げたのだろう。威嚇射撃が止んだことで、ギャングたちは自然と浅瀬へ散開した。そろりそろりと足音を忍ばせ、警戒に緊張した眼差しでぐるりとその場で一周し、後ろ向きでさらに数歩足を動かした。その足元の水中には透明に輝くテグスが張られている。


 爆発はその足からは離れた地点だった。岩にそって進む固まった数人の上へ、天井のつららが降ってきた。見上げた誰かは、複数の爆弾が破裂する火花と、灯影に照らし出されて細く光るワイヤーの曲線を見た。こんな芸当ができる男は奴だけだと思い、崩落する鍾乳石に押し潰された。怒号と悲鳴、無暗に発砲される銃撃の音が交錯する。濃厚な血と硝煙の匂い、生き残った者は呆然と佇んでいた。無音で飛来するスナイパーの凶弾が、また一人を射殺した。水飛沫を上げて、仰向けに、突然に倒れ込む。場はパニックに落ちた。





「ちくしょう! あのヤロウ!」


「くそ、中はトラップだらけに違いねぇ!」


 口々に叫ぶ中に、弱音を叫ぶ声が混じる。


「うわぁぁ! 死にたくねぇ! 俺はもう帰る!」


 無我夢中で走り出した若いギャングに倣う者が何人も出た。総崩れに皆が出口方面へ走り出した。狭い通路内の浅瀬には、カルロが苦労して守ったトラップが無傷で待ち構えている。誰かの足が水中の仕掛け糸をぶつりと切ると、どこからとなく轟音が響き、散弾によってまた複数のギャングが血まみれに転がった。深い淵が傍に口を開けている、黒い大きな影が緑の輝く水面にゆらりと浮き出した。


「ヤバい、魔物を呼ぶ! 逃げるぞ!」


「置いていかないでくれぇ!」


 脚に弾を受けて座り込んだ男は懸命に手を伸ばした。背後には伸びあがる黒い影がおり、攫って淵へ引きずった。悲鳴が尾を引くように洞窟内へ木霊する。慌てて逃げる連中に、その悲鳴は恐怖を煽り立てる不気味な雄叫びとなり、恐慌を来たしたギャングたちは散々にトラップを踏み抜き、自滅した。次々に爆発音はカルロの耳に届いた。



 カルロはライフルの銃口付近の砲身を握って捧げ持ち、祈っていた。若い頃の自身がこの夜に何人死んだだろう。ロベルティーノは居なかった。あの白いスーツの居丈高な豚も。見落としたのかも知れないが。死者への冥福を祈り終えると、カルロは目を上げた。洞窟内は白くけぶって、硝煙の臭いが強く、血の臭いはもはや元々の悪臭に紛れていた。潮の香りに近いと思った。この生臭さが生命の匂いなのかも知れない。鍾乳石の間は散々な様子で、死骸が散乱していた。魔物が数多く、中にドブネズミも紛れて徘徊している。


「遺跡のネズミは爆弾が破裂しても、怯みもしねぇ。」


 足元をうろちょろする薄汚れた毛皮はすばしこく、蹴っ飛ばそうとしたカルロの爪先をするりと逃れた。カルロは視線で生意気な小動物を追い、見失うとまた動き出した。奥へ向かい、マリィが隠れるマンホールの配管に近付く。相変わらず魔物がたかりに来ている。うんざりとカルロは黒い身体に弾丸を見舞ってやり、追い払う。黒い魔物はどこが頭で胴体だか、ずんぐりとした身体は手足さえないように見えて、それでいて素早く水中に姿を消した。出してやったマリィは、これもまた恐怖で震えて泣いていた。


「怖かったのか?」


 問いかけると、なぜか少女は首を横に振り、怖くはないと示しながらもカルロの首にしがみ付いた。



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