第2話
カフェの類は店を閉めていた。馴染みの酒場の隣には、カルロが唯一知っている清潔なカフェがあったが、もう閉めている。かつては目抜き通りの店を網羅したはずだが、知っていたストリートは無くなっていた。新しい看板はウィッチズの店とは書かれていない。同郷の太ったオーナーの顔を思い出そうとしたが、出てこなかった。
「このカフェは美味いラテを出す店だったんだ。」
カルロが懐かしそうに呟いても、隣の少女は無表情に前を見つめている。ステンドグラスの嵌め込まれた樫材のドアは当時のままに見えたが、内装は同じではないだろう。今はそのドアノブにクロースの小さな木片が下げられていた。隣りの店舗へと視線を移し、カルロは郷愁を振り切った。
風雨に晒され下方が白く変色したドアを開ける。灰色の煙が天井付近にわだかまり、ゆったりと回る扇風機に掻き混ぜられている。巨大な三枚羽根は、むしろ飛行機のプロペラを思わせた。テーブルランプと壁掛けランプ、ガス灯のオレンジに染められて、店内は怪しい空気に満たされていた。
「いらっしゃいませ、」
中へ踏み込めば即座に声が掛かる。店員の教育は行き届いていて、下町には珍しい居心地の良い店だ。大いに繁盛していて、オーナーは心得た男だ。空いた席に座りながら、カウンターに向かってカルロは言った。
「コイツに何か食わせてやってくれ。」
「ピラフならすぐに出来ますよ。グラタンは少し時間を頂きますが。旦那には何をお持ちしましょう?」
「俺はコイツが、」キルシュを持ち出しかけて「いや、ワインの赤をくれ。」"悪魔"を思い出して、頼んだ。
店内に居る客は誰もカルロと少女に注目したりはしない。カウンターの隅には小汚い爺さんが襤褸のようなコートを腕に抱いて眠り込んでいて、椅子を一つ開けた二人組は悪い相談の最中のように見えた。窺うような視線を一度向けただけで二人はカルロから注意を逸らした。四組あるテーブル席の三つはいずれも労働者が占めている。皆、疲れた背を深く椅子に預けてそれぞれに酒を舐めていた。赤く満たされたグラスをボーイが運び、カルロの前へ受け皿と共にセットする。
「もっと並々と注いでくれ、」
言われ慣れたセリフに応えて、ボーイは脇に抱えたワインボトルの栓を開けて慎重に傾ける。じっとグラスを見つめる視線が二つになり、ワインは受け皿に零れた。元通りコルクの栓をして、ボーイは気さくに笑った。
「珍しいですね、そちらのお連れさんはもしかして旦那のお嬢さんですか?」
「俺がそんな歳に見えるか?」
慎重に口をもっていき、グラスの縁からワインを啜った。
「いや、旦那だったら居てもおかしくないかなと思いますよ。昔の女に押し付けられでもしたのかと。」
「そんなヘマするか。ちょっとした事情で預かってるだけだ、俺の子じゃねぇ。」
「すいません、へんな事聞いちまったな。旦那が誰かと連れ立ってる自体が珍しいもんだから、ついね。」
いつもと違う饒舌さでボーイは言葉を繋げた。店員がよく教育された店だが、何かあれば平気で客を売る店だ。
ロベルティーノに宜しくな。同じ意味合いで違う言葉をのぼせた。
「この娘のことを教えてくれ。」
ボーイは兎の眼をして周囲を覗った。
「旦那、」
「ここへ来れば聞けない情報はないだろう?」
「それは光栄ですが……おとなしく病院に戻った方がいいのでは?」
「あそこは退屈すぎて死んじまう、」
「ヤバい娘ですぜ、旦那。悪いことは言わない、引き渡しちまった方が面倒はありませんぜ。」
「素性は? なんで追われてる? ロベルティーノか? どうせ奴くらいしか思い付かないけどな。」
年若いボーイは清潔な白いシャツの襟元を開けて、輝かしい未来と希望とを誇らしげに覗かせている。躊躇する素振りは、彼の未来に陰りをもたらすかも知れないくすんだ色合いの憂鬱な眼差しを警戒してのことだ。カウンターに戻る素振りと話に乗る素振りとが交互に繰り返された。
「俺の口からはなんとも。解かるでしょう、旦那。」
「奴はケチ臭い男じゃない、お前が多少のことを俺に話したところで気にしやしない。」
「なら、話しますけどね。その娘は荘園のはずれに住んでた小作農の娘ですよ、旦那。一家が皆殺しになって、一人生き残っちまって、それでオカシクなったそうです。名前はマリィ。」
「今さら殺しくらいでどうこうなんて連中とは思えんがな。」
「見られちゃ拙い人がその場に居なさったんじゃないんですか。近頃は迷宮入りの事件が山ほどありますからね。証拠を隠滅するだけじゃなく、有罪に出来そうな優秀な検事の始末までしてくれるそうですよ。」
「世も末だな、」
カルロはグラスを持ち上げ、受け皿に零れた赤い液体をまず啜った。カウンターから別の店員が声を掛け、ボーイがそちらへ戻って行った。グラスを右手に持ったまま皿を舐めるように啜っているカルロの顔を、隣の少女がじっと見つめていた。カルロの手許からテーブルへと皿が戻され、その上にグラスが元通りに置かれるまでを確認して、今度は自身の膝を見つめた。両足を揃えて深く椅子に腰かけると幼い少女のつま先は宙に浮く。ぷらぷらと振る事を覚えて独り楽しみ始めた。
「毒は入ってないよ、」
さっきのボーイが戻り、ピラフを少女の前へ置いた。
「美味いもん食わせてやるって約束したんだ。」
カルロが言うとボーイは怪訝そうに眉を顰め、すぐに笑顔を繕った。
「食後にパフェを持ってくるよ。こちらのおじさんが怖い顔してるけど、気にしなくていいよ。お店の驕りだからね。」
「金は出さんぞ、」
「可哀そうな娘さんだって言ったじゃないですか。俺達も同情してるんですよ、旦那。」
「ロベルティーノはどの道この娘を殺すつもりだな? もう通報はしたんだろう? なるほど、最期の御馳走かも知れないな。出来るだけ早いうちに食わせてやってくれ。奴らが来る前にな。それと、他の客たちに知らせなくていいのか? 流れ弾に当たって死んでも文句言われる筋合いじゃないぜ?」
「旦那、逃げ切れるもんじゃないですぜ。もう連中は店を囲んでるはずだ。この娘は目撃者で、見ちゃいけない人物の顔を見たんですよ、きっと。旦那も逆らうだけ無駄ってくらいは解かるでしょう?」
「ああ、そうだろうな。話によっちゃ、取引出来るのかもな。」
「言付かっておきますよ。あの人も旦那だから遠慮してるんでさぁ。」
「連中と取引はしない。相手の大物と直接だ、それ以外なら断る。この娘をポリスに届けて金一封で我慢するさ。」
「優秀な検事が消されたって話、さっきしたじゃないですか。ロベルティーノの旦那は、友達を撃ちたくないんだ、旦那。」
「友達か。」
半分ほど残っていたワインを空けた。
少女は無表情だったが、動かされるスプーンは忙しかった。金属が陶器に当たる煩い音がひっきりなく続き、次第に、犬のように頭をテーブルに近付けて口へ掻きこむ姿となっても、咎める者は誰も居なかった。飢えていた頃は誰しもがこんなナリでその時食えるものを何でも口に詰め込んだ。思い出せる者は誰しもが黙って少女の様子を眺めていた。ボーイは一度カウンターの奥へ引っ込み、再び姿を現した時には銀の盆を手に乗せていた。トレイの上にはガラスの背の高いグラスが置かれ、その透明な体内には色とりどりのフルーツとクリームが詰まっている。カラフルな筒の上部はクリームとチョコレートがデコレーションされ、頂上に赤いチェリーが載っていた。本来、清潔なカフェで味わうべき食べ物は周囲のあらゆる物を滑稽に見せた。スプーンを掴んだ貧乏人の子供は余計に貧乏たらしく、眺めやる薄汚れた客たちはなお一層薄汚れているかに思わせた。夢のような食べ物を前にしても、少女の無表情は動かなかった。
「夜には詳しい人が来ますよ、旦那。常連です。先方にアタリを付けるにも打ってつけの人材です、表向きは弁護士だとかって話ですからこの娘の為にも会ってみた方がいいと思いますぜ。」
「あんまり悠長にしてられないくらい解かるだろ?」
「そりゃそうでしょうけど。」
まるで他人事のように少女はピラフを平らげ、続く夢のパフェにも躊躇なく匙を突っ込んで掻きまわした。夢と見えているのは案外と大人だけの話なのかも知れなかった。カルロの表情が冷めたものを宿す。夢が掻きまわされるにつけ、心は穏やかになった。少女がデザートまですべてを完食したと確認して、カルロはポケットのしわくちゃの札を一枚、クリームでべちゃべちゃになったグラスの下に噛ませる。
「じゃあな、そろそろ引き上げるよ。」
「帰るんですか? 弁護士の先生は遅くなるけど今夜は必ず来ますよ?」
あからさまな引き留めの言葉でボーイは最低限の義務を果たした。
「気が変わったんだ。明るいうちにどうしても帰る。」
マリィを促して席を立たせ、チップをボーイの手に掴ませると、彼はそれ以上は言わなかった。
店の外には、寂れた街には似つかわしくない上物のスーツを着込んだ連中がドアの外を囲んでいた。通行する人々は怖れを見せて遠巻きに足早に通り過ぎていく。カルロが出てくると、ギャングたちは一斉に囲みを広げた。背後にマリィを庇い、カルロは一瞥で眺めまわした。無駄な説得を試みようとする者はなく、若いギャングたちは黙ってカルロの様子を窺っているだけだ。懐へ忍ばせた得物に手を伸ばしたままの者が数名いた。
「どいてくれ、」
カルロの不機嫌な声に、素直に道が開ける。
「旦那、もう一度だけ聞くが、その娘をこっちへ引き渡してはくれねぇだろうか。ボスはあんたとはやりたくねぇって言ってるんだ。」
「なら俺が自然にくたばってから引き取りに来いとでも言っておけ。」
カルロの目に不機嫌さとは別の複雑な色が混じった。
「病院に来るのは嫌だっていうんだろう? それとも散らかり放題の今の住処が気に食わないってのなら、自分で来なくてもいい、手下で充分用は果たせる。なぁ、そうだろう?」
「ボスは多忙を極めていて、それにあんたが病院にいた事もあんたが出てってから知ったんだ。誤解だ。あんたとうちのボスはまだ親友だろう? そう聞いてる。」
「別に疑っちゃいない。ロベルティーノに伝えてくれ、ひと月も待たせやしないってな。俺の好きにさせとけ。」
若いギャングたちの目の色が変わる。ここで撃ち合いが始まることを予期して通りがかりの人々が慌てて走り出した。スーツの胸元へ隠した彼らの手が抜き出される直前、カルロはひどく咽こんだ。激しい咳き込み様に緊張感が掻き消えた。
「ど、どうしたんだ、あんた?」
「……なんでもない、いつもの事だ。」
ようやく収めてカルロが顔を上げた。口元を押さえた手指の間と、薄汚れたシャツには僅かばかり鮮血が散っている。男たちは途方に暮れた。
「俺は嘘など吐かない。誰かさんと違ってな。だから、帰ってボスに伝えておけ。すぐだ。」
すぐ、の意味をどう取るべきかでギャングたちはまた狼狽えた。カルロは一人の肩を手で押し退けて上物のスーツを汚し、少女の手を引いて囲いを抜けた。動揺はさざ波のように背後にあった。
自身が死んだ後まで責任を持つつもりなどない。口元の血を手の甲で乱雑に拭い、自嘲した。ギャングたちの疑問もなるほど頷けると思った。いったい、何になるというのか。マリィの感情のない瞳がカルロを見上げていた。
「心配ない。肺をやられてるが、別に感染ったりしない。」
まやかしの笑みを浮かべた。
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