第3話
化け物の唸りが響くアパートメントへ近付くにつれ、化け物の危険に別の危険が空気に混じって漂いだした。誰の姿もないと見せかける仰々しい警備は、大物の到来を予測させた。ガラスも車体も何もかもが黒塗りの高級なベンツは場違いな路上に静かに蹲っている。アパートを一望できる通りの影から様子を覗い、カルロは少女の手を引いて元来た道を引き返した。数メートルほども歩き、路地を曲がる。もう一度通りへ出る直前の目立たぬマンホールの蓋に手をかけた。半分ほどずらして少女を抱え、真っ暗な闇へと降りていった。
魔を封じ込める障壁は二重になっている。縦に延びる坑道に突然底が現れ、鋼鉄の分厚い網が行く手を塞ぐ。大きな南京錠の付いた鎖は錆びついて茶色い染みになっていた。チャチな鍵は魔物を留め置くには充分だが、人間には容易すぎる。こんな場所に用事のある人間は少なかったが。
地下世界は薄ぼんやりと青い。天井にはびこる奇形のヒカリゴケが地底の遺跡を彩っている。水が流れ、ところどころに踏みとどまった何かのゴミが苔むして薄ぼんやりと光っていた。広い遺跡の構造は調査が進展せずに不明のまま、地上の都市よりも一見は美しかった。遥々とやってくる地下水脈には、地上からの雨水と一般家庭の排水が流れ込んで合流する。もっと上流には上水道の摂取口があり、飲み水と共に時折魔物を吸い上げた。普段は蒼く輝く美しい楽園だが、薄く覆った緑濃い藻が雨で払われた後は腐った本性を現わす。死の匂いと淀んだ腐臭に満たされる。
今、遺跡の床を流れ落ちる浅い水流は清らかに見えた。夜に降った雨は腐った臓物を暴き出したが、すぐに覆い尽くされたのだろう、生臭い香りは薄まっている。地下世界に降り立って、少女は蒼く輝く美しい景色に見入っていた。
「足元に気を付けろ。ここは上とは違って危険極まりないからな。」
言いざまにカルロは拳銃を抜き、足元の闇を撃ち払った。影が水中を逃げていく。
「古代都市の遺跡だ。神の怒りに触れた、呪われた街だ。魔物に食い尽くされ、地の底へ沈められた。」
幼い頃に聞かされた伝承をカルロは少女に聞かせた。本当のところなど誰も知らないだろう。少女も殺された両親から聞かされていただろう。無表情は動かず、視線も興味を持たなかった。
自然の地形を利用した下水道はところを選ばずであちこちに穴を穿ち、排水を垂れ流している。豊富なヘドロは魔物の餌となり、様々と小さな奇形が汚水の滝に群れている。二人が出てきた縦穴は鋼鉄の網が二重に底を作り、二枚目の蓋は遺跡の壁へ枠ごと頑丈に打ち付けられていた。今は開いているその蓋をカルロはもう一度閉じた。中に少女を押し込んで。足許へ寄ってくるごく小さな魔物を蹴散らした。
「動くんじゃないぞ、この遺跡は割と危ないんだ。」
不気味なうめき声はどこからとなく木霊している。少女が耳を澄ませていることに気付いてカルロは教えた。
「合図しあってるんだ。獲物が来たからな。」
怯えの色もなく、ぼんやりとした瞳は相変わらずカルロの痩せた顔を映していた。
「魔物が来たら、這い登って上へ逃れろ。この頑丈な蓋を破れるような奴は居ないはずだが、もし強そうだと思ったら地上へ出てマンホールの蓋も閉めちまっていい。」
自身はどうなるのかは言い置かず、「すぐ戻る、」少女を残してカルロは立ち去った。
カルロの手には小型の護身用拳銃が一丁だけある。いつでも持ち歩いているが、この地下世界では心許ない装備だった。アパートメント付近の下水道には此処専用の装備が隠してあり、それを取りに行くことが目的だった。魔物がひしめく地下ではあらゆる武器が心許ない。美しい幻想の世界には影のような死神が徘徊し、幻想の中に確実な死が横たわっている。水中から音もなく背後へ忍び寄る影は、伸びあがった瞬間に撃たれた。猛り狂った牛を相手にするよりは楽だ、撃たれただけで逃げてしまうような臆病さを闘牛は持っていない。振り向いた姿勢のまま、カルロは両腕をだらりと下げた。再び前を向き、浅い水を踏み分けながら進んだ。アパートメントの地下まではすぐだ、ほんの数メートルしか離れてはおらず、隠しておいた武器を調達するのも楽な仕事だった。仕事ついでにカルロは欲を出し、地下室へ潜入して元通りに排水溝の蓋を閉じた。魔物の唸りは反響して大きくなり、カルロの立てる小さな気配を誤魔化してくれる。古い建物は暖房設備が旧式で排気のダクトは繋がっていた。各部屋へは暖炉を通して侵入し放題だった。
「煙突掃除は請け負っちゃいないんだがな、」
苦笑と共に呟き、ダクトの金具を壊してこじ開けた。大騒ぎなどしなくても、小娘の一人程度はスマートに始末出来るはずだった。錆びついたのは南京錠だけではなかったのだと知った。
狭く真っ暗な穴を進んでいく。縦穴だろうがお構いなしだ。煉瓦の継ぎ目を登るだけのロッククライミングが難儀なはずなどない。人の気配が近付くと、カルロはゆっくりと進んだ。ぼそぼそとしか聞こえぬ囁きはやがてはっきりとした人間の会話となって耳に届く。
「……警察に駆け込まれても構わなかったんだよ。」
尊大な声だった。聞き覚えのある声。暖炉に逆さまに取りついて顔をほんの少しだけ出し、すぐに引っ込めた。どこかで見た覚えはあるが思い出せない。首を捻り、恰幅の良い中年男が葉巻を銜えて火を付ける姿を思い返した。口一杯の煙を吐き出して、太った男は大仰な仕草で肩を竦めていた。
「ただ、なんの為に大金を使って君らを保護しているのか、その名目を確かめたくなったのかも知れない。」
カルロは血の昇った頭を軽く振り、もう一度顔を出してすぐに引っ込めた。態勢をなんとかしなければ落ちそうだ。暖炉にもたれ掛った背の高い男の影で、カルロの気配が隠された。正面には大きな姿見の鏡がある。男の背後に幽鬼のような血走った眼が一対、影の中に潜む姿が映っている。
のっぽの着る灰色のかった紫のスーツはセンスが良いが、首に垂らした白いマフラーは気障だった。男は黙って聞いている。葉巻を指先に挟んで中年男は歩き出した。説得の口調で、のっぽの男に言い聞かせたいようだった。
「証言を無効にするには、それなりに気を遣わねばならないだろう? 悪い噂に繋がらないとも限らない。気が違ってしまったと言うからな、もしやもすれば何も喋らないかも知れない。不幸にも両親を目の前で殺された不憫な娘だ、わしの手許に養女として引き取るという手もある。美談だと思わないかね?」
太った男は演説に慣れているようだった。仕立ての良い白のスーツを着て、清潔感のある服装は男の笑みを同じ色に誤魔化している。突然、男は立ち止まり、ヒステリーに歯噛みした。善良そうな丸みを帯びた指が神経質に葉巻を握り潰し、男の顔もどす黒く染まる。次に口をついて出てきたのは、一転した怒鳴り声だった。
「いいか! 元はと言えば、貴様らがしくじったのが原因だ! 全員残らず厩へ集めておく手筈だったものを、一人だけ見過ごすとはどういう事だ! お前らが安全を保障するというから安心していたんだぞ!!」
壁を隔てて二人は嘲笑していた。カルロと同じ笑みを口の端に貼り付けて、背の高い男はソフト帽を初めて脱いだ。姿見に映る尖った顎と鼻筋は相変わらずだった。臆病な鼠は豹の視線に射抜かれて後ずさった。
「勘違いは正しておきたいね。こっちが持ちかけた話じゃない、あんたからだった。そうだろう?」
「そんな事はどうでもいい事だ! わしは、このゲームを広く社交界に紹介してやってもいいと思っていたんだ、お前が万全を期すると自信ありげに言い切ったからな!」
「こんな危険を冒さずとも楽しむ方法ならゴマンとありまさぁ。この街にカジノがオープンされれば……、」
「それは駄目だ、反対の声が高過ぎるくらいは知っとるだろう。」
「ああ、嘆かわしい事ですよ。今と何ほどが変わると言うのか、市民は安全な街に暮らしているつもりなんでしょうなぁ。……お笑い草だ。」
太った男は鼻白んだ顔で痩せた男を睨んだ。どうやらまだ完全に錆びついたわけではなさそうで、カルロの頬に浮かんだ笑みは柔らかくなった。次の台詞までが聞かされる前から予想できる。猫なで声でのっぽは言った。
「名士の方々はなんせ退屈していらっしゃる。なんにも面白い事がない。ええ、そうでしょうとも。裏カジノなんぞも飽き飽きした、もっと派手に遊びたいと思っておられる。よぉく、解かりますとも。」
「そ、そうだ。飽き飽きした。だが、貴様ら下賤の者どもには理解されんよ、ああ、きっと理解はされん。貴様が内心で何を考えているか、解かっているぞ。金持ちの道楽になど真面目に付き合ってなどいられるかと、そう思っているのだ。何の苦労もなくのうのうと生きていると、そう思っているのだ。」
「違いましたかね?」
気障男は大仰に背をのけ反らせ、滑稽なパフォーマンスで応えた。
「何も知らんのだ。上に立つ者の苦労など、何もな。」
「下々は誰もが今日を生き残るだけで精一杯ですよ、旦那。」
「貴様がそれを言うのか。はっ、滑稽だな。」
後々語り草となるだろう白々しいやり取りがしばらく続いた。血が昇った頭は耳鳴りが低く篭もっていて苦しかった。まさしく『滑稽な』腹の探り合いなど聞いていられるかと、カルロは頭を引っ込めかけた。嫌に思いつめた声で、知り合いが喋りだした。
「こちらも精一杯なんでね。絞れるところから絞らなけりゃ、遠慮してたらこっちが絞られて干からびるだけだ。世の中なんてのは、そういう風に出来てるもんでしょうが。あんたも今じゃこっち側。立派な人殺しなわけだ、あんまり俺達の事をとやかく言える立場だとも思えませんがね。」
「小娘一人押さえた程度でいい気になるなよ。こちらはお前ら如きを潰すくらいは訳もないんだ。わしがあの残虐な事件を起こしたと騒いだところで、誰が信じるものか。相手をよく見てからものを言うことだ。」
まだカードが足りない。豹のような男……ロベルティーノは首を左右へ振ってみせた。降参の証に。やけに偉そうにしている豚の正体が、カルロにはどうしても思い出せなかった。どこで見たのか、遙か昔かも知れなかった。思い出そうという努力にも飽きが来る。そろそろ娘の許へ帰ってやろうという気になった。豚の台詞ではないが、くだらないやり取りには飽き飽きした。
血の巡りが戻るまでに、カルロは何度か手を滑らせて身を危うくする。人が自在に動き回れるほどに通風孔は広々としてはおらず、かなり難儀な目に遭わされたせいだ。元来た道を伝って地下室へ辿り着けば、懐かしさすら感じる低い不気味な呻きに迎え入れられる。そこからさらに排水溝を辿り地下世界へ戻る頃には耳鳴りも不気味な呻きも消えていた。水飛沫が上がる音に神経を使う必要はなかった。臆病な水中の魔物はカルロの背後を油断なくくっ付いて来る。行きよりも荷物が増えたカルロの手には凶悪な口径の拳銃が握られていた。
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