【文芸】一握りの善良
柿木まめ太
第1話
壊れて立て付けの悪くなった窓枠は、新しい住民についぞ開けられることはなかった。酒浸りのアル中に、空気の入れ替えなどは無用だ。窓に叩きつけていた大粒の雨もいつしか止み、普段は外を映さぬほどに汚れたガラスを多少なり拭ってくれた。濡れた街路の石畳は蒼く輝いている。じっと外を見つめて、男は酒瓶から直接呑んだ。何日も着たままのシャツは薄汚れ、ボタンも一番上が一つ無くなっている。無精ひげは濃くなっていた。散らかった部屋にはテーブルとイスが一つきり。薄闇の中で明りも燈さずに男はじっとしている。
「面白くない、」
誰も居ない室内で、男の呟く声が転がった。脚を投げ出して座る男はこの部屋をひと月前に借りた。テーブルとイスはもともとこの部屋に残されていたものだ。ゴミの散乱する部屋にはあちこちに虫を潰した汚いシミが出来ていた。電話が鳴り響いている。男は動く気配も見せない。
カルロは闘牛士だった。ずっと昔のことで、"悪魔"と呼ばれた猛牛に突かれて引退した。胸を突かれ、自身の血が大地をみるみると赤く染めた事をしつこく覚えている。人生の絶頂は終わった。鐘の音が澄んだ空気の中で響き渡る。カルロは最後の酒が切れたことを知り、瓶の口を覗き込んだ。そして、後ろへ放り投げた。出来ればもう一度、あの赤い布を振りたかった。
板張りの床が小刻みに振動している。不気味な声が今は雨音に消されることなく聞こえてくる。足許から響くこの微かな唸り声は、いつか床板を破って外界へと解き放たれるのだろうか。掘立小屋のようなアパートメントの、がらんどうの地下室で反響した音が上階のこの部屋にまで届く。遺跡の真上まで土を取り除けて地下室を作ったものだから、中に棲む魔物の唸りは建物全体に響いている。
カルロはテーブルの上の空き瓶を掴み、床へ叩きつけた。粉々に砕けた破片が窓の月明かりで煌めいた。けれど唸り声は止まなかった。舌打ちでカルロは立ち上がる。靴底がガラスを踏み、パキンと鳴った。
地下の遺跡へ放り込まれたのは、まだ悪党に染まりきっていなかった頃だ。しくじった者や邪魔になった者を処分するのに都合のいい場所で、カルロは生き延びることで箔を付けた。
低い呻きを踏みつけにして立ち上がり、カルロは自身の手を見つめた。結局、何も残せないのだ。
アパートを出たストリートでは、さすがに魔物の呻きは響いていない。雨が上がった街路は濡れて、水溜りが多く出来ている。酔っただけでない足取りで左右にふらつきながら進むと、人々は道を譲った。酒屋はまだ開いている時刻で、通りの店並みは煌々と明かりを燈し、多くの人が宵を過ごしている。山のように藁を積んだ荷車が、馬のいななきと共に走り去った。貧乏人の住む下町では、雨上がりになると饐えた臭いが充満する。下水代わりの地下から腐敗した何かの臭気が上がってくる。酔った鼻はさほど気にしない匂いだった。酒を求めて這い出してきた男は、目的以外に寄り道は考えていなかった。
古びた町並みに似つかわしい、古びて小汚い店には腐りかけた木の看板がぶら下がる。酒瓶の絵は掠れて何だか解からない物に変化していた。カルロは店先に出ていた男の襟を捕まえる。
「いつもの通りに届けてくれ。それと、今すぐに一本。」
「旦那、支払いが先ですぜ。ここじゃツケなんて利かねぇんで。」
店員と交わす挨拶の後に、カルロは襟を離してやり、握りつぶした札を差し出された手に押し付けた。
「桜のブランデー(キルシュ)を。」
「はいよ、毎度あり。」
酒の味などあやふやになりかけていたが、まだ香りは楽しめると思っていた。
キルシュは辛うじて桜の匂いがしていた。歩きながら何度か確かめ、別の香りを思い出した。白粉を付けた娼婦の匂いは甘く少し脂の臭みのあるものがいい。尻の大きさに頓着はないが、腰のくびれはあった方が良かった。ここいらの安請け合いな娼婦たちは巨大な胴回りが頂けない。多少の金が掛かっても、カルロにとっては細い女が良かった。路地を突きあたりまで進めば、馴染みの店が細く蝋燭の火を燈しているはずだ。カルロの足は暗がりへと向かう。この路地がその店へ通じる道だったのか確認はしていないが、どうせ路地は繋がっていて、何とでもなるものだった。
ふらふらと進む道の先には暗闇がべたりと張り付き、近付くごとに月明かりの薄いナイフに剥がされていく。蒼く染まる薄汚れた狭い路地には、色んなものが落ちている。ネズミの死骸に紙屑、誰かの吐瀉物。器用に避けた。ゴミ袋が隅に積み上がり、避けて通るのに身体を捻る。そのゴミ山の影で何かの生き物が身じろいだ。
「なにやってる、こんなところで。」
闇に紛れている物が人間だという確証はなかった。カルロの勘は人間、それも子供だと告げていて、もし外れたなら死ぬだけだと考えている。腕を伸ばして掴んだものが魔物の毛皮ならば食われるだろう。
引っ張り出すと、それはワンピースの襟だった。猫の子のように痩せた少女がぶら下がった。嫌な目をして、少女はカルロを見上げていた。ぶら下げられたままで、面倒そうに弛緩しきって伸びている。逃げ出すのも億劫なのか、手足がだらりと垂れさがる。一言も発しない少女に、カルロは観察の目を向けた。睨んでいるのかと思ったのは間違いで、この少女は無表情だった。
「おい、名前は?」
薄汚れ、くたびれたワンピースを着た少女は棒切れのように痩せている。髪にも艶はなく、ひと目で貧乏人の子供だと解かる。無表情は元からのことなのか、口を開く気配も見せない。貧乏人の町に屯する貧乏人の子供だ。
「名前を聞いてるんだ、クソガキ。それともマンホールの中へ突っ込まれたいか?」
脅しても変化のない無表情に、納得した。この子供は心の病だ。これもよく見る者だった。安請け合いの娼婦は、巨大で陽気な女と痩せた無表情の女、どちらかだ。少女はむっつりと黙ったままで、空洞のような目を相変わらずカルロに向けている。ほんの僅かしか見せない意志は、自身をどうするつもりなのかと勘繰っているようだった。
「こんな所でゴミを漁らなくても済む場所へ連れて行ってやる。」
親切ごかした嘘も、言い慣れていた。足が着くように降ろしてやり、右手を引くと少女は素直に従った。これも慣れた経験で、正常でない心の女は扱いが容易いものだった。
道行きは二人に増え、迷路のような路地裏を右へ折れ左へ曲がって、ようやくと目的地へ辿り着く。狭い通路の先、細く灯りが零れて裏木戸が少しばかり開いて、そこで女が立ったままで煙草をくゆらせている。太った女で、この女が居るために狭い通路がさらに狭苦しく感じられた。女の視線がカルロを見つけて、色香を滲ませる。
カルロは、奇妙な感情に憑りつかれていた。売り払えば幾らかの金にはなると思った少女だが、ここへ来て大きな女の顔を見た途端に、急に馬鹿馬鹿しく感じられた。死にゆく自分に金など要るものか。カルロが浮かべた微笑を勘違いして、巨大な女はこちらを向いた。
「まぁ、旦那。久しぶり。」
猫なで声には媚が混じり、品を作る仕草で慌てて煙草を揉み消した。
「そっちのお嬢ちゃんは? もしかして、ウチに紹介してくれるつもりだった?」
「いいや。預かりものだ。」
これも嘘だ。咄嗟の嘘が平然と口から出るようになれば、悪党も一人前だ。
「あら、そうなの。ま、いいわ。良い子がいたらウチへ宜しくね、いつでも大歓迎だから。」
抜け目ない笑顔の底は凍っていて、女は愛嬌と嘘をカルロに投げてよこした。カルロが吐いた嘘を女は気付いていただろうし、女の吐いた嘘をカルロが見抜いていた事にも気付いたはずだ。どちらにせよ、どうでもいい事柄で、互いが曖昧に笑いながらやり過ごせばいい話だった。食事の出来る場所を考えながら、カルロは細い腕を引き、巨大な女の腹の横を通り抜ける。路地裏はどの道もすべて繋がっている。少女は巨大な女を無表情に眺めながら、カルロの後ろを付いて行った。
表通りへ戻ると、いつものように静かな闇と喧騒とが同居していた。オレンジの燈火が軒から下がり、人々の顔を暖かな色に染めている。テーブルにはそれぞれで皿やグラスが乗り、談笑と共にフォークやナイフが穏やかな楽曲を奏でている。豪華な料理が載っている皿は珍しく、ほとんどが質素なものだ。無表情の少女は無表情なままで、それらの皿を眺めながらカルロに手を引かれて歩いていた。煌びやかな風景が雨上がりの濡れた路面に照り返る。少女には幻想的な絵画の世界、カルロには嘘に塗れた虚飾の世界が鏡のように合わさっていた。
普段は静かな通りが、今夜は少しだけ様相が違っている。交差する向こうの通りを数人の男たちが走り抜けて行くのが見えた。この通りの向こう端にも急ぐ男が居た。薄汚い町に似つかわない小奇麗なスーツ姿。かつてのカルロもエナメルの靴で場違いに歩いた事を思いだし、苦笑する。
「あっ!」
前から走ってきた男は、短く叫んで立ち止まった。カルロは立ち止まらず、少女の手を引いたままで男の方へと進む。チンピラの顔に見覚えはなかったが、喧嘩が始まるだろう予感は感じ取れた。前方の男は横を向いて、「こっちだ!」と誰かを呼び寄せる。反対の端にいた男が合流した。まだ距離があるうちに、男はソフト帽を脱いで胸元へ捧げる。カルロには敬意を示して、下から挨拶した。
「そのガキを、こっちへ渡してくれ。あんたにゃ関係ないはずだ。」
知り合いではなかったが、相手はカルロを知っていたかも知れない。酷く狼狽した目をしていた。
「ロベルティーノは元気か? しばらく顔を見せてない、不作法を詫びておいてくれ。」
「旦那、冗談ならよしてくれ。誰もあんたの顔を潰そうなんて気はねぇんだ、その娘はあんたと何の関わりもないはずだろ。素直にこっちへ寄越してくれ、あんたの損になんかさせねぇから。」
精一杯の丁寧さはギャングの下っ端にしては上出来で、カルロがこんな状態でなければ問題なく片付いたはずだ。慣れない感覚はまだ続いていて、何もかもが馬鹿馬鹿しいと感じているままだ。鼻で笑って、カルロは若いギャングの横を通り過ぎた。
「旦那!」
もう一人のギャングが後ろから呼びかけたが、カルロは振り向かなかった。酒瓶ごと片手を上げて、歩いた。
「いいんですか、旦那! 後悔しますぜ!?」
声が、念を押して遠ざかった。
今さら何の後悔だ? 不摂生な食事か? 不真面目な人生か? カルロはせせら嗤い、酒瓶を呷った。
行く当てがあったわけではない。ゆっくりとした歩調で進むうちに、少女の腹の虫が鳴った。振り返って見つめても無表情は変わらず、すきっ腹の具合は知れなかった。食事が出来そうな場所などは、生憎と酒場くらいしか思いつかない。そろそろ宵っ張りの住民たちも家路に着き始めていて、通りの灯りはまばらになっていた。
「飯を食わせてやるって言ったんだっけな、」
自身の吐いた嘘を思い出してカルロは呟いた。ロベルティーノの手下たちがまだうろついているには違いなかったが、別段気にするほどでもない。明日がどうなろうと、もはやカルロにはどうでもいい事柄だった。少女の腹がまた鳴った。どうでもいいと感じた奇妙な感覚は、今度は同じどうでもよさで少女に飯を食わせてやる事を思わせた。人生が残り僅かとなると、親切心が芽生えるらしい。いや、思い出させるのか。
「飯を食わせてやるって、言ったんだったな。」
繰り返した台詞が心地良く響いた。
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