第146話 消えない火 三

 そこに待っていたのは八千代ではなく、沈痛な面持ちの今田だった。


----まさか、懐柔されなさったか…。

真之介「ご無沙汰を致しております」

今田 「実は、殿はお加減が悪くてな…」

 

 では、あの時、女中が駆け込んで来たのは、そう言うことだったのか。


真之介「それはまた、如何なることにて。お元気になられていたではございません

   か」

今田 「それが、隠れて酒をお飲みになられていてな」


 酒は一日一合と決められていた。


今田 「私は側に付いている者、特に台所を預かる者たちを厳しく問いただした。

   だが、誰もそのようなことは致してはないと申す。あながち嘘をついている

   とも思えず、その他の者にも聞いてみるも、もう、長く殿のお顔すら見たこ

   ともない、酒など、とんでもないと言いおる。そこで、私は意を決して、ご

   正室様にお尋ねした」


 安行と正室、亜子つぐこの仲はとっくに冷え切っている。輿入れしてすぐは妙にやさしかった安行だが、すぐに捨て置かれた。それからは姑のいびりにも耐えつつ過ごすしかなかったが、ある夜、夫安行は何者かに襲われ、髷を切られてしまう。それを姑八千代は必死で取り繕ったものだ。安行は病気だ、心の病だと叫んでいた。

 やがて、状況がわかって来た。亜子は、罰が当たったのだと思った。これまでの安行の所業も亜子は知っていた。遠回しに皮肉を言ったこともあるが、それだけだった。重苦しい時が過ぎて行った。

 そして、安行の髪がようやく伸びて来た頃、何を思ったか八千代は茶会と称して他家の妻たちを招待するが、その中に、今は本田真之介の妻となっている、ふみもいた。しかし、真之介とは、大事な息子の髷を切った張本人ではないか。

 元はと言えば、ふみが黙って安行の側室に来ていれば、何も起こらなかったことである。八千代の怒りの矛先は、ふみにも向けられた。何か、満座の中で恥をかかせてやろう、さらに、折を見て、息子の前にその体を投げつけてやろう…。

 そのことに、気が付いた亜子は、ふみを守ることにした。だが、真之介とふみの機転もあり、すべて不発に終わつているが、あろうことか、何と、安行は真之介と付き合い始めたのだ。これには少なからず、亜子も驚いたが、安行も少しは反省したのか、以前のように、誰かれ構わず当たり散らすようなこともなくなっていた。しかし、そんな安行は舅が倒れ、側室が懐妊している時、亜子にとんでもない「おねだり」をしたものだ。

 芸者を身請けしたい。ついてはその金を工面しろと言う。すぐに、突っぱねた亜子だったが、安行は今までにないほどの執拗さで迫ったものだ。だが、間もなく、舅が身罷る。

 安行の落ち込み様は半端なかったが、亜子は知っている。それは決して父の死に落胆しているのではなく、芸者を身請けできなかったことへの忸怩たる思いであることを。

 そんなにも、その芸者をわがものにしたかったのか…。

 その後、側室が待望の男子を生めば、喪中とは言え、仁神家は喜びに沸く。だが、相変わらず安行の反応は鈍い。父に代わり当主となり、後継ぎも生まれたのに。思えば、妙なこともあった。

 あの性獣の塊のような男が側室の誰も部屋に呼ばないのだ。そればかりか、今度は真之介を始めとした男ばかりとつるみ始める。そして、まさかの安行が、男色に走ったとの噂が立つ。

 亜子にすれば、そんなことはどうでもいい。これからの亜子の役目は、側室の生んだ男子を立派に育て上げることだ。間違っても、八千代には任せられない。

 そんな亜子の家を思う気持ちに打たれた今田は、安行の本当の病状を知らせる。

 あの安行が飲水病(糖尿病)で不能になった!?そのカモフラージュに男色とは、亜子は一人で笑ったものだ。だが、そんな亜子が安行に酒を勧め、早死にをたくらむだろうか。迷いはあったが、やはり、ここははっきりさせねばならない。


亜子 「私が殿に、酒をと言いやるか」

今田 「いえ、その、一度くらいはおありになったのでは…」

亜子 「さあ、最後に殿のお顔を拝見したのは、いつであったろうか。思い出せも

   せぬわ。まあ、私なら出来ぬこともないわな。しかしな、幾ら若君がご誕生

   されたとはいえ、まだお小さい。ここはやはり、飾りだけでも当主がいた方

   がよい。当主が飾りなら、私も飾り。だが、その飾りこそが大事ではないの

   か。家とはそういうものであろう」

今田 「申し訳ございませぬ」

亜子 「いや、私とて、誰が殿に酒を勧めたか気になる。他に思い当たる者は?」

今田 「まさかと思いますが、本田真之介…。いえ、あの者は決して、その様なこ

   とをするような男ではございません」

亜子 「私もそう思う…。だが、一度、尋ねてみてはどうか。別に、疑っているの

   ではない。あの男のことだ。何か思い当たることがあるやもしれぬ」

今田 「早速、その様に取り計らいます」

亜子 「待て、そう言えば、先日、母上があの者をお呼びになったとか。そのこと

   も聞いてみよ」

今田 「かしこまりました」


 そして、真之介が呼びつけられる。


今田 「何か、思い当たることはないか」

真之介「思い当たると言うより、もう一人、大事な方をお忘れです」

今田 「それは誰である!」

真之介「今田様です」

今田 「な、なんと!どうして、この私が」


 思いがけないことに、今田は顔を赤くしてふるえている。


今田 「おのれ、よくも、よくも、うむむむ」

真之介「ならば、よろしゅうございます。いえ、一応ご確認をと思ったまでにござ

   います」

今田 「それでは、残るはお主ではないか!」

真之介「もう、お一方ひとかた

今田 「それは誰である!」

真之介「ご後室様にございます」


 後室とは、夫を亡くした妻の敬称。つまり、八千代のことである。


今田 「何と!いや!決してそのようなことは…」

真之介「消去法で行けば、そうなります。それとも、殿が自ら酒屋にて酒を買い求

   められたと」

今田 「いや、しかし、あの方が、母である方が、その様なことをなさるとは…。

   それでは何か、ご後室様…。いや、そのようなことはあるまいて」

真之介「お側女中がいらっしゃいます。その方の伝手で」

今田 「うむむ…。しかし、しかしである。誰よりも殿のお体をご心配しておられ

   る母ではないか。それを…」

真之介「母と言うものは、子に惜しみなく愛を注ぎます。しかし、時として、その

   愛は間違った方向に向くこともございます。可愛さのあまり、甘やかしも致

   します」

今田 「そうじゃとしても、息子の健康を願わぬ母がどこにおる!酒は一日一合まで

   と決められているに、それを飲ませる母がおるか!」

真之介「母とは強き者にございますが、弱き者にもございます。殿に懇願されれ

   ば、つい…。これは失礼致しました。私はその可能性もあると申し上げたに

   すぎません。ひねくれ者の失言にございます。お詫び申し上げます」

 

 今田は返す言葉がなかった。心の隅にくすぶっていたことを、真之介が代弁してくれた…。


----やはり、そうなのか…。

今田 「では、聞くが。先日のご後室様の話はどのようなことであった」

真之介「はい、我が愚妻を側に置きたいとのことにございました。側付きの方が隠

   居なさるで、その代わりにとの仰せられ、子も一緒で構わないとも」

今田 「それでは、お主は、お主とは?」

真之介「いずれは離縁してほしい。その見返りとして、旗本に推挙すると」

今田 「それで、お主の返答は如何に」

真之介「大名にしていただけるのならと申し上げました」

今田 「大名とな!」

真之介「はい、妻子を売るのです。出来るだけ高く売るのが商人にございますと申

   し上げました」

今田 「して…」

真之介「いくら、何でもそれは無理と。ならば、この話は無しと言うことに、い

   や、まだ話は終わっておらぬとか…。その時何やら、火急の用にて、それま

   でにございました」


 そうだ、ちょうど、あの時、安行の具合が悪くなったのだ。すぐに掛かり付け医が呼ばれ、今は落ち着いているが、酒は控える様、医師は言った。その後、八千代から叱責されたものだ。


八千代「どうして、もっと早くに病状を知らせぬ。町医者なんぞに診せるから、こ

   の様なことになるのじゃ!殿にもしものことがあらば、如何がする!」


 思えば、自分のことは棚に上げ、よく言えたものだ。誰でもない、母親が息子の病状を悪くしていたのではないか。それだけではない。すぐに、あの釣り名人を屋敷から追い出し、美形の家来の息子たちも遠ざけ、行儀見習いの若い娘に看病させようとしたが、それを安行が嫌った。若い娘では、気が利かぬと言う。

 それで、ふみを?いや、それ以前から八千代は、ふみを手元に置こうとしていた。


真之介「ご後室様は男色を嫌っておいでです。おそらく、我が妻を形だけの側室に

   なさりたいのでは」


 そう言うことだったか…。


真之介「して、殿の具合の程は」

今田 「横になっておられる…」

真之介「せっかく、お元気になられていたに…」


 真之介は今田とともに、安行の部屋へ行けば、すぐに女中を下がらせる。


真之介「殿、如何なされたと言うのです。魚が待ちくたびれております。それよ

   り、久しぶりに、この前の様に男ばかりで芝居見物にでも参りませぬか」

安行 「ああ、芝居もいいが…」

真之介「他に何か」

安行 「……」


 安行は逡巡しているようだった。そして、口を開く。


安行 「蜜花に会いたい…」


 蜜花とは、今は江戸一番の材木問屋に囲われているが、相思相愛の仲だった、と安行は今も思っている。何とか身請けしようと奔走するも、父の死により、なし崩しになってしまい、その間に商人に身請けされてしまう。だが、この蜜花と言う芸者、実は男である。そのことを知らない安行は今も思慕の情を募らせているのだった。


安行 「何とか、ならぬか。一目だけでも会いたい。何とかしてくれぬか、頼

   む…」


 やれやれ、また、厄介なことを。


真之介「とは申されましても、今は主ある身、いささか…。一応、当たってはみま

   すが、確たるお約束は致しかねます…」

安行 「住まいを知っておるのか」

真之介「いえ、存じません。これより、調べまして」


 実際は知っている。拮平のことで、お駒と一緒に訪ねて行ったこともある。


安行 「頼む。私が会いたいと申しておったと伝えてくれ」


 きっと、蜜花も安行に会いたいと思っているに違いないと、今も、蜜花が忘れられない安行だった。


真之介「承知致しました」


 そして、真之介が安行を部屋を後にすれば、すぐに女中が駆け寄って来た。


----はいはい、わかりました。


 今度は、八千代の部屋に「連行」される。


八千代「これは、呼ぶ手間が省けた。して、今田の話は何であった」

真之介「どうやら隠れて、殿に酒を飲ませた者がいるとかで、それが私ではないか

   と」

八千代「やはり、その方か」

真之介「如何に私が、悪知恵を働かせようとも、外からやって来るのですから、一

   度や二度ならともかく、度重なればどうしても目立ちます。これは内部の方

   しか出来ぬことと申し上げました」

八千代「して、それは誰じゃ」

真之介「殿にお近しい方」

八千代「だから、誰であると申しておる」

真之介「もしや、今田様ではと申し上げましたところ、体を震わせて否定なされま

   した。さすれば、残るは、ただお一人」

八千代「……」

真之介「ご後室様では」

八千代「わ、私は、ほんの二、三度でしかない。ならば、嫁の亜子は!あの嫁は、大

   事な私の孫を我が物にしておる。であるからして、安行のことなど、どうで

   もよいのじゃ!早く死ねばいいと思って居るに違いない。ついでに、私も…」

 

 確かに、側室の生んだ男子を亜子が養育している。舅亡き後、夫、安行が当主となれば、亜子は八千代を隠居へと追いやる。我が子可愛さのあまり、安行を甘やかし放題に育てた八千代である。この姑に、後継ぎである男子を任せて置けるはずもない。


真之介「ご正室様は、そのようなお方ではございません。若君もまだお小さく、殿

   がご健在でいらっしゃることを願っておられます。何より、殿は若君のお父

   上にございます。また、ここしばらくは殿にお会いなされてないとか。それ

   に、ご正室様が殿のお部屋に参られるようなことあらば、それこそ…」  

八千代「いや、だから、誰かに酒を運ばせたのじゃ。そうに違いないわ」

真之介「その頃の殿のお側には、男ばかりおりました。そこへ、女性にょしょうとなれば、

   それこそ、目立ちます。殿のお部屋にいつ出入りしても、不思議でない方、

   それはご後室様だけにございます」


 それで、八千代はまだそれを認めようとはしなかった。


真之介「どうして、大事なご子息の健康を害するようなことをなされたので」

八千代「だから、それは、ほんの数回。どうしても懇願されてのことじゃ!」

真之介「その数回が、この様な次第になりましてございます」

八千代「そなたにも、子がいるとは申せ、まだ、小さい。いや、これは男親にはわ

   からぬことやもしれぬ。母親とは、我が子に惜しみなく情を注ぐものであ

   る。その子に、懇願されれば、叶えてやりたいのが母である」

真之介「時には突き放すのも、母の愛ではございませぬか。我が子とは申せ、殿は

   仁神家の当主にございます。その当主のお体を気遣うことこそ、母君のなさ

   れることでは。せっかく、お元気になられていたと言うに、またも、臥せっ

   てしまわれました。今後はこの様なことの無きよう、くれぐれもお願い申し

   上げます」

真之介「それもこれも、そなたたちが、ろくでもない町医者なんぞに診せたからで

   はないか」

真之介「それは、殿のご要望にて。では、こちらの掛かり付け医のお診立ては、処

   方薬は?」

八千代「私は医者ではない。難しいことはわからぬ。とにかく、隠れてこそこそす

   ることはあるまい。私は母であるぞ!」

真之介「それが、男と言うものにございます。男には妙な自尊心がございまして、

   例え、母とは言え、いえ、母だからこそ、知られたくない体の悩みもありま

   す。そこは、男同士。何とか周囲に知られないうちに、手立てはとないもの

   かと思ったまでのことです」


 そこのところを察するばかりか、母である八千代は息子の恥ずかしい病状を暴き出した挙句、請われるままに酒を飲ませたのだ。


真之介「男には女の体が良くわかりませぬ。つわりで苦しむ妻の側にいても、背中

   をさすってやるくらいのことしか出来ませなんだ。また、女の方には、男の

   体のことはおわかりにならぬ筈。もそっと、お静かに出来ませなんだか」

八千代「では、すべて、私が悪いと申すのか」

真之介「左様にございます」

八千代「何と!ようもようも…」

真之介「これからは、この様なことの無き様、伏してお願い申しあげます。では、

   これにて、失礼致します」


 と、真之介は一礼する。


八千代「待て!まだ、話は終わっておらぬ!」

真之介「まだ、何かおありで」

八千代「先日の話じゃ」

真之介「では、私を大名に?」

八千代「そのことであるが…」


 と、それまでの短気モードはどこへやら、妙に思わせぶりに言う。


八千代「私もあれから、色々考えて見た。だが、いきなり大名と言うのも、ちと、

   無理がある」

真之介「では、小名とか」

八千代「だから、そう焦るでない。ものには順序と言うものがある。そこでじゃ、

   先ずは旗本になるがよい。それからのことで、いいと思うがな」

真之介「それでは、面白くはございませぬ。物事には時旬と言うものがございまし

   て、駆け上がる時には、一気に」

八千代「これ、そのような無茶を申すではない。そなたはまだ若い。これから、幾

   らでも道は開ける」

真之介「無茶が出来るのも今のうちにございます。男も三十を過ぎての無茶は、世

   間の笑いものになりかねません。今なら、まだ、若気の至りで…」

八千代「では、三十を過ぎれば、何をやるつもりであるか」

真之介「子供相手に、道場でもやろうかと」 

八千代「女ばかり集まって来るわ」

真之介「ですから、子供限定で」

八千代「それはともかく。無理難題を吹っ掛けるものではない!たかが女子供で、大

   名とは誰が聞いても強欲であるわ!」

真之介「ご後室様には、たかが、女子供やればもしれませぬが、私にとりまして

   は、大事な妻子にございます」

八千代「それは単なる言葉の綾である。その様に、揚げ足を取るものではない。話

   が進まぬ!」

真之介「ですから、大名にして頂けるのならと、申しておるのです」

八千代「だから、それはあ!」


 と、堂々巡りでしかない。


真之介「それでは、このお話、なかったことに致しませぬか」

八千代「ならぬ!それはならぬ!いや…。わかった。本当のことを申す。よって、今一

   度、話を聞いてくれぬか」


 今度は、何を…。 




















 

 

 

 

 

 

 

 

 

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