第147話 消えない火 四

八千代「実は、実はである…。その、殿には、未だ、その、ふみ殿のことが忘れら

   れぬのである」

真之介「それは違います」

 

 八千代にすれば、清水の舞台ほどではないか、かなりの決心の末に言ったことである。それを真之介はいとも簡単に否定して来た。


真之介「その様な昔のこと。何より、今の殿には思い人がございます」

八千代「何と!それは誰じゃ!誰である。早よう申せ!」

真之介「お忘れですか、密花と言う芸者を」

八千代「芸者。ならぬ、芸者などもっての外である!」

真之介「そうは申されましても、殿には未だ…。いえ、互いに好きおうた仲でござ

   いました。つい、先ほども、一目でよいから蜜花に会いたいと仰せられ、私

   が骨折りを買って出ました」

八千代「ならぬ!芸者など、汚らわしいわ!」


 かつて、安行の父が芸者に入れあげたことがある。それ以来、八千代は芸者と聞いただけで、アレルギー反応を起こすのだ。


真之介「汚らわしいしいなどと…。何か、誤解されているようですが、芸者は遊女

   ではございません。芸者とは芸を売る者にて、身は売りませぬ。まあ、枕芸

   者と言うのもおりますが。密花は錦絵にも描かれるほどの芸者にございま

   す」

八千代「如何に、芸を売る者とか申せ、男をたぶらかすではないか」

真之介「悪い女は、どこにでもおります」


 と、真之介は八千代を見据えて言う。わが家の体裁を繕うため、夫婦、親子を別れさせようとすることは、悪くないのか。


真之介「密花はそのような女ではございません」

八千代「とにかく、芸者は駄目じゃ!」

真之介「駄目も何も、殿はその密花のことを今も思っておいでにございます」

八千代「ならぬ、芸者ごときに仁神の屋敷の門をくぐらせてなるものか!」

真之介「今は、引かされ、人妻となっておりますゆえ、いくら何でも、お屋敷には

   参りますまい」

八千代「では、外で会わせるつもりであるか」

真之介「さあ、それは、これからのことにございます。何しろ、今はかごの鳥、思

   い通りに行きますかどうか…。では、これから、当たってみますで、これに

   て失礼致します」

八千代「待て!まだ、話は済んでおらぬわ!座れ!」


 またも、真之介は座り直すことになる。


八千代「わかった。その密花と申す芸者とは会うだけであるな」

真之介「いえ、会えますかどうか…。これからのことにございます」

八千代「ならば、その者がもう会いたくないと申したと、殿に伝えよ」

真之介「それは…。私は、嘘の付けぬたちにございまして」

八千代「嘘も方便と言うではないか。そこは何とか致せ。それより、肝心のふみ殿

   のことは」

真之介「それは、お断り致します。何より、三浦家が承知致しますまい」

八千代「それは、私が説得する!」

真之介「いえいえ、あの頑固者の父を説得するのは至難の業かと」

八千代「私に出来ぬことはない!」

----何を言うか!当家は旗本筆頭の家柄である。あの様な末端の旗本風情が何するものぞ。

真之介「では、まず、三浦の父に事の次第をお話しください。町人上がりの婿は、

   妻子を売ろうとしていると。きっと、私は叱責されるでしょう。しかし、私

   も黙っておられません。ことと次第によっては、殿のご病気のことも話さね

   ばならぬやも。それで、よろしいのなら。人の口に戸は立てられぬと申しま

   すゆえ」

八千代「ならば、密花のことは許す。どこか、人目に付かぬところでな。それは構

   わぬ。そこでだ、今一度、ふみ殿のことを前向きに考えてはくれぬか」

真之介「何を仰せられます。それとこれとは話が別にございます。また、いやしく

   も武士の娘と芸者を天秤にかけるとは。そのような話、到底承服出来るもの

   ではございません!どうしてもと仰せなら、これより、殿の許へ行き、すべて

   をお話致します。それでも、よろしいので」


 いざとなったら、安行もだが、義実家の三浦家、顔の広い坂田家、さらには、大名の娘である正室の亜子つぐこをも巻き込んで大騒動にしてやる。かわら版も飛びつくに違いない。


 やっとの思いで帰宅すれば、そこにはかわいい息子の寝顔があった。


----絶対、離しやしないからな。

ふみ 「それで、また、釣りのお誘いにございますか」

真之介「それなら、良いのだか…」

ふみ 「何か、ございましたの」

真之介「殿のお加減が、今一つ」

ふみ 「まあ」

真之介「どうやら、隠れて酒を」

ふみ 「せっかく、お元気になられていたと言うに…。それで?」

 

 今度は何を真之介にやらせるのか気になる、ふみだった。


真之介「ああ、密花に会いたいと仰せられてな」

ふみ 「それは、ご苦労なことにございますわね。実は、私の方も茶会のお誘いが

   ございまして…」


 出産後、三月みつきくらいから、茶会の誘いはあったが、まだ、体調が十分ではないとかの理由を付けて断っていた。


ふみ 「そろそろ、参ろうかと思っております」

 

 まさか、その茶会の後で?これは亜子の耳に入れていた方がいいのでは思ってしまう。

 姑の八千代が茶会と称して、ふみに意趣返しをたくらんでいるばかりか、あわよくば、安行の前にふみの身を放り投げてやろうとしていることに気が付いた亜子は、ふみから、目を離さないことを約束してくれた。だが、あれから、時は流れ、安行の病気のこともあり、今は亜子も気が緩んでいるのではないだろうか。

 ひょっとして、そのまま、ふみを帰さないとか…。

 いや、あの八千代なら、ありうることだ。ふみを軟禁し、子も連れ去ることだろう。そして、その後は、知らぬ存ぜぬ。

 まさか、いくら何でもこれは、物事を悪く考えすぎではないか…。

 女は、消えない火を持っていると、お駒は言ったが、それには続きがあった。


お駒 「その、消えない火に焚き続けられ、見境がなくなってしまう女もいます」


 女とは、朽ち果てるまで、消えない火か…。


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