第137話 遠く近く… 一
弥生 「ご無沙汰を致しております」
この前、弥生がやって来たのは、祝言後に夫ともに挨拶に来て以来のことである。
弥生 「奥方様にはお元気そうで、もうすぐにございますわね」
ふみ 「弥生も息災で何よりです。あれから、家の方は」
弥生 「はい、何とかやっております」
ふみ 「それはよかった」
弥生 「遅くなりました…」
と、弥生は金包みを差し出す。借りた金は毎月返しに来ると言っていたが、これだけ間が空いたということは、やはり、暮らし向きも楽ではないのだろう。
ふみ 「無理をしなくてもいいのですよ」
弥生 「いいえ。実は…。その、私も、懐妊致しました」
と、恥ずかしそうにうつむくのだった。言われて見れば、少しふっくらしている。
ふみ 「まあ、それは良かったではないですか。おめでとう」
弥生 「ありがとうございます。それ故、お支払いが遅れまして、申し訳ございま
せん」
ふみ 「もう、落ち着いたのですか」
弥生 「はい、お蔭さまで…」
ふみ 「ああ、では、これは…」
弥生 「いえ、もう、体の方は大丈夫ですので、これからはきちんとお返しいたし
ます」
ふみ 「いいえ、それよりもこれからは滋養のあるものを食べるのです。何より
も生まれて来る子のことを一番に考えねば。金は、無事、子が生まれた後か
らでよい」
弥生 「でも、それでは…」
ふみ 「旦那様にはあとで私から申しておく。きっと、旦那様もお喜びになられる
ことでしょう」
弥生 「旦那様も免許皆伝でお忙しいのでは」
ふみ 「ええ、まあ、何やかやと。それよりも、父や母も喜んだのでは」
弥生 「はい…」
と言うものの、弥生の顔が少し曇る。
母 「それは誠か。おお、沙月はもう生まれ変わってきてくれるのか。何と、嬉
しや。沙月も母が恋しいのであろう。今度は孫として生まれ変わって来るの
か…」
と、涙ぐむ母だった。
弥生 「まだ、男が生まれるか女が生まれるか、わかりません」
母 「何を言う。腹の子は、沙月の生まれ変わりに決まっておる。よいか、弥
生。大事にするのだぞ。滅多なことをして沙月に何かあっては、今度は私が
許さぬからな!」
弥生 「では、生まれてきたのが男だったら、どうなさるので」
母 「何を戯けたことを。私にはわかる。その腹にいるのは沙月である。男であ
る筈がない。きっと、沙月にそっくりな、いや、沙月そのものが生まれ変
わって来るのだ。ああ、早よう、会いたいものよ。名も沙月にしよう」
弥生 「生まれるのは年の暮れです。それなのに、沙月と名づけるのですか」
母 「五月ではない、沙月なのだ。きっと、私は沙月が生まれたときに、もしも
のことを考えて、この名にしたのだな。これなら、何月に生まれようと関係
ない」
弥生 「亡くなった人の名をつけるなど嫌です!」
母 「何を言うか。本当に聞き分けのない。生まれて来るのは、そなたの子で
あって、そなたの子ではない。沙月なのだ。沙月が生まれ変わって来るのだ
から、沙月でよかろう。ああ、楽しみである」
と、どの家でも、一番に男子の誕生を願うものなのに、この母は、腹の子は沙月の生まれ変わりと信じて疑わないのだ。本当に、女子を生めば、その名も沙月にされ、仮に違う名をつけたとて、母は沙月を連呼することだろう。
弥生 「では、私が姉上の名を呼び捨てにしてもよろしいので」
母 「そうよなあ。そうだ、沙月殿と呼べばよい」
弥生 「わが子に殿を付ける親がおりますか」
母 「だから、何度も言ってるではないか。生まれて来る子は、沙月の生まれ変
わり、いや、沙月なのだ。そこのところを得心するように」
弥生 「出来ません!」
母 「なんと、聞き分けのない!腹に子がおらねば、打ち据えておるわ!」
弥生は何としても男子を生まねばと、誓うのだった。
弥生 「奥方様がお羨ましいです…」
ふみの顔つきがきつくなっている。妊婦の顔がきつくなってくるのは、男子が生まれると言われている。
母に腹の子は女子、それも沙月の生まれ変わりと言われてからの弥生は鏡を見ることが多くなった。ひょっとして、自分の顔もきつくなっているのではとの期待からである。だが、その様子を見ていた母は言った。
母 「鏡ばかり見て、お前はいつから、そんなに器量良しになったのか」
----この傷は沙月が付けたものでないか!
弥生のはらわたは煮えくり返り、腹が痛くなって来た。
母 「それ、ろくなことを考えぬゆえ、腹の中の沙月が怒っているのだ」
夫 「母上!弥生を刺激するのはお止め下さい!」
夫が駆けつけてくれた。
母 「何も刺激などはしておらぬ。腹の子を第一に考えぬから、言って聞かせた
まである」
夫 「今は心穏やかに過ごすのが一番ではないですか。ここは生まれて来る子の
ためにも、母上が一歩お譲りくださいませ」
母 「はあ、これはこれは、お優しい婿殿で。生憎と私はわが夫からそのような
言葉をかけてもらったことがないで、さっぱりわからぬわ。やれやれ…」
と、母は去って行く。
夫 「大丈夫か」
弥生 「はい、もう、大丈夫です」
坂田の妻、利津が選んでくれた一つ下の婿は、夫として申し分ない男であった。力仕事、傘張りにもまじめに取り組み、何かと弥生を気遣ってくれる。
自分も外で出来た子として、肩身の狭い思いをしてきたのだ。 そんな自分がまさかの婿入り話…。
これからは妻となる人を大事にしよう。その父と母にも気に入ってもらえるよう努力しようと思ってやって来たのだが、どうして、この母は弥生を邪険にするのか不思議でならない。
どこの家でも、長子が大切にされるのは当然のことであるにしても、その長子が亡くなったのだ。ならば、後を継ぐのは次子である。ましてや、実の母娘、実の姉妹ではないか。それなのに、どうして、未だにこんなに扱いが違うのか…。
弥生 「本当に、もう大丈夫ですので」
弥生は針箱の前に座り、生まれて来る子ための産着を縫い出す。
夫 「母上には逆らわぬように」
と、夫は父の側に行き、また、傘張りを始めるのだった。傘屋との交渉事を任せられる日も近いだろうと父は言った。
父 「ほんに、よい婿殿であるわ」
と、父は手放しで褒める。弥生もそう思う。だが、夫には悪いと思うが、心の中ではまだ、拮平のことが忘れられない。姉の沙月が死にさえしなければ、今頃は祝言を指折り数えていたことだろう、いや、もう、祝言を…。
いやいやと、弥生は気持ちを切り替え、針を動かす。今は、生まれて来る子のことを、丈夫な男の子を生まなくてはと誓うのだった。また、その子のためにも、真之介から借りた金を早く返したいのと、ふみの顔も見てみたかった。
ふみの場合はどちらが生まれても、皆から祝福されることだろう。だが、自分は、もし女の子を生めば、名は「沙月」いや、それも沙月殿と呼ばなければならない…。
親に逆らうことが親不孝とされた時代、親の権力は強い。それを跳ね返すためには、相当の覚悟が必要となる。
それにしても、真之介の家はいつ来ても暖かい。今日は真之介は留守だったが、ふみが帰り際に魚を持たせてくれた。
弥生 「そんな、これは奥方様がお召し上がりになるのでは」
ふみ 「私の分はある。大丈夫です、弥生もきっと男の子が生めます。神仏は弥生
を見捨てたりはせぬ」
弥生 「ありがとうございます」
弥生と入れ違いのように、真之介が戻ってきた。
ふみ 「お帰りなさいませ。今日、弥生がやってまいりました」
真之介「元気にしておったか」
ふみ 「はい…。あの、懐妊したそうです」
真之介「それは、めでたい」
ふみ 「あの、それで、返しに来た金とともに、魚を持って帰らせました」
真之介「それは、よかった」
ふみ 「でも、それが…」
と、弥生の母が生まれて来るのは、沙月の生まれ変わりと思い込んでいることを話すのだった。
真之介「ならば、是非にも男子を。いや、きっと、男子が生まれる」
ふみ 「あの…」
真之介「そろそろ、いや、早く、酒が飲みたい」
ふみの言わんとすることはわかる。だが、それは…。
その甲斐あってか、しばらくして、ふみは元気な男の子を生む。
ふみの男児出産の報をを聞いた弥生は、何としても自分も男児を生まねばと強く願うのだった。だが、幾ら願ったとて、こればかりは神のみぞ知るである。それでも、願わずにはいられない。そして、又も母はどこかからか、女児ものの着物を譲り受けてきた。それも、かなり擦り切れている着物だった。
当時の下級武士、庶民が着物を新調することなど、滅多にないことだった。みな、どこかから譲り受けたり、古着を買っていた。
弥生とて、生まれて来るわが子にすべて新しいものをと思っている訳もなく、真之介の息子ならともかく、わが家にそんな余裕はない。それにしても、女児用の着物ばかりとは…。
生まれて来るのは、沙月の生まれ変わりと信じて疑わない母の妄執ぶりに、今では近所の人たちも閉口している。
「弥生殿も大変ですね」
「どこの家でも男の子をと願うものですのに」
「弥生殿、男の子を生むのですよ」
今頃、真之介の家では喜びに沸いていることだろう。いや、女児であっても皆から祝福されるに違いない。
母 「また、その様な目をして。なにが不服なのじゃ!」
母のその声で我に返った弥生だったが、その言葉の意味がよくわからない。
弥生 「あの、何か?」
母 「何かではない。生まれて来る子のために、母がこのようにしてやっておる
に、それを睨むとは何事である」
弥生 「別に、睨んでなどおりませぬが…」
母 「それ、その目付きである。腹に子がいなければ許しはせぬわ!」
と、言い捨てて母が立ち去った後、気になった弥生は鏡をのぞく。
そこには母の言うように、顔付き、目付きの険しくなった自分がいた。
----これって、私も男の子を生めると言うこと…。
そうだ、自分もふみの様に男の子が生めるのだ。さあ、元気を出さなくては。しっかり食べて、安産のためには、体を動かさなくては!
そして三月後、月足らずではあったが、弥生も男児を生む。
----男の子が生まれた…。
と、うれし涙にくれる弥生の側で母だけが渋い顔をしていた。
母 「何で、娘を生まぬのじゃ。沙月を生まれ変わらせてやろうとは思わなんだ
のか」
父 「何を言う。どこの家でも男が生まれれば、何より喜ぶと言うに。めでたい
ことじゃ」
さすがに父はとりなしてくれた。
父 「それでは何か。代々、女系が続くのがよかったのか」
女系が続く家には何かしら問題があるものだ。
母 「そう言う訳ではなく、先ずは沙月を生まれ変わらせてやるのが一番だと思
いませぬか。そのあとで、男を生めばいいだけのこと。それを男が欲しいと
願掛けでもしたのであろう。何と、冷たい妹よ」
父 「こればかりは、人の力ではどうにもならぬことではないか。何より、めで
たいことである。のう、婿殿」
夫 「はい!」
母 「ふん、恥ずかしげもなく婿入り早々の懐妊とは。いやはや、恐れ入った
わ」
そんな母の悪態も今の弥生の耳には入らない。この上は丈夫に育てなくてはと誓うのだった。だが、またも母は何もしなくなった。
沙月の死により、弥生が後を継ぐことになったのはともかく、姉婿をすんなり受け入れなかったことに、いや、まさかの弥生の反抗に腹が立った。今まで、こんなことはなかった。
それ以来、まるで、沙月が乗り移ったかのように、家事も傘張りすらも投げやりになっていた母だったが、弥生の懐妊を知ると、がぜんやる気を出した。
それは弥生の腹の子が沙月の生まれ変わりと信じて疑わなかったからである。だが、あろうことか、弥生が生んだの男の子だった。それで、又も拗ねてしまった。
しばらくは動けない弥生に代わり、家事は夫がすると言ってくれた。実家であれこれやっていたそうだ。
そんな時、忠助がお咲を連れてやってきた。
忠助 「何でもやらせてくださいとのことです」
慎之介とふみが産後動けない弥生のために、お咲を手伝いによこしたと言う訳だ。弥生が男の子を生んだことを喜んだ二人だったが、弥生の母は落胆しているに違いないとの配慮からだった。
----何もかも、お見通しなのですね…。
お咲は、毎日のように通ってくれ、台所仕事、洗濯などをしてくれた。ありがたいことだった。
弥生 「あちらの若様はもう、随分とおかわいらしくなられたことでしょう」
お咲 「はい」
今の赤ん坊は生まれた時から、かわいい顔をしているが、栄養状態の悪い時代、生まれたての赤ん坊はしわくちゃでそれこそ猿のような顔をしていたものだ。かわいくなったのは、第二次世界大戦からしばらく経ってからのことであり、当時は「きれいな赤ちゃん」と言ったりしたものだ。
わが子はまだ猿の域を出ないが、三月早く生まれた真之介とふみの子である。さぞ、かわいくなっていることだろう。早く会いたい。息子同士を引き合わせたい。拮平にも逢いたい…。
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