第125話 帰れません 二

 少し走って、脇道へそれたところで男は止まった。


拮平 「どうしたのですか。ああ、はぐれた…」


 男は拮平だった。弥生が一人で夜祭に来る筈はなかった。


弥生 「ありがと、ございました」


 まだ、息の荒い弥生はそれだけ言うのがやっとだったが、手を引かれていることに気が付く。


拮平 「あっ、これは…」


 拮平もすぐに手を放す。


拮平 「申し訳ありません」

弥生 「いいえ、お陰で助かりました」

拮平 「気を付けてください。では、戻りましょうか」

弥生 「はい」


 と、拮平と共に、歩き出した時だった。


お里 「旦那様!」


 その声に、弥生も振り向けば、そこにいたのはお里だった。


拮平 「何だい、お里かい」

お里 「お里かいじゃないですよ。急に走り出したと思ったらっ」

----寄りによって、こんな傷女と一緒だなんて…。

お里 「みんな、待ってんですからね」

拮平 「そうだった。それが女中たちと来てたもので」

 

 と、弥生に言いながら、財布から金を出し、お里に握らせる。


拮平 「これで、皆で何か食べな。俺は弥生様送って行くから」

お里 「ええっ、そんな…」


 歩き出した、拮平と弥生の後姿を忌々しそうに睨みつけるお里だった。


----許せない!

弥生 「いいのですか」

拮平 「ああ、構いません。うちの女中たちなら気が強くて、男の方が逃げ出しち

   まいますよ」


 夜店の賑わいを抜けて少し歩けば、てんぷらの屋台が出ていた。


拮平 「そう言えば、少し小腹が空いて来たと。てんぷら、お好きですか」

弥生 「いえ、食べたことありません」

拮平 「それなら、話のタネにいかがです」

弥生 「はあ…」


 てんぷらは、16世紀中頃に鉄砲と共にポルトガルから長崎に伝わった食べ物である。日本は安土桃山時代。江戸時代に「てんふら」の文字が確認される約100年も前に伝わってきていた。

 ただ、この時代の天ぷらは小麦粉に砂糖や塩、酒を加えてラードで揚げたとあるので、現在のフリッターに近いものだったようだ。また、当時の日本においては油は灯火用として大変高価なものであり、庶民には手の届かない料理であった。

 てんぷらの語源も諸説ある。キリスト教で四句節という、キリストの断食を起源とした「肉を食べない」期間をポルトガル語で「クアトロ・テンプラシ」それが転じて転じて魚介類の揚げ物を「てんぷら」と呼ぶようになった説や、スペイン語・イタリア語・ポルトガル語など外国語を由来とした説もある。

  天ぷらも、関東と関西では使用する油が違う。関東では卵入りの衣をごま油で揚げることで、キツネ色に揚がる。一方関西では卵は使わず、衣をつけて菜種油で揚げるので仕上がりは白っぽい。

 関西で広まった天ぷらは野菜中心だったため、自然の味を損ねないよう菜種油で揚げて塩をつけて食べていたようだ。それが関東、江戸に伝わり日本橋の魚河岸で水揚げされた魚介をごま油で揚げるようになる。ごま油で魚の臭みを抑えていた。当時の屋台のてんぷらは串揚げだった。 


拮平 「お好きなのをどうぞ」


 と言われても、どれを選んでいいのかわからない。


拮平 「俺、これ好きなんですよ」


 拮平が穴子の串揚げてんぷらを取ったので、弥生も同じものを手に取る。


弥生 「美味です…」

----こんなおいしいものがあっただなんて…

拮平 「それは、良かった」


 その後、芝海老、貝柱、烏賊などを食べ、すっかりお腹いっぱいになった。


弥生 「ごちそうさまでした」

拮平 「喜んで頂いて嬉しいです。また、いつか」


 また、いつかだなんて、お決まりの言葉にしても嬉しい弥生だった。

 二人が屋台を後にする姿を、またもお里は見てしまった。


----まだ、一緒にいただなんて…。


 お里は怒りと屈辱感でいっぱいだった。


----許せない!何があっても許せない!いや、これは早く何とかしなくては…。あんな傷物に拮平を取られてたまるものか!それにしても、身の程知らずの厚かましいこと。覚えときな!私を怒らせたら怖いからね!

お縫 「お里、さっきからなに、ぶつぶつ独り言言ってんのさ。そろそろ帰るよ」

お里 「ええ、帰りますよ!」

 

 と、お里はお縫達を尻目にすたすたと歩き出す。いや、少しでも早く、拮平とあの女を引き離したい。


お里 「旦那様!」


 やっと、二人に追い付いた。


拮平 「あれ、どうした。皆は?」

お里 「後から来ます」


 と、お里は拮平の右側へ並んで歩きだす。


拮平 「祭りは楽しかったかい」

お里 「旦那様がいなくて、つまんなかったですわ」

拮平 「何がつまらないのさ。子供でもあるまいに」

拮平 「いいえ、皆、そう言ってました。やはり、白田屋は旦那様がいなくては。

   いいえ、この町だって、旦那様がいないとそれこそ火が消えたようでした

   わ」

拮平 「そうかい、じゃ、これからはずっといるからさ」

お里 「そうですとも!もう、これからは、変な人と関わり合うのは止めて、白田屋

   とこの界隈のことだけお考えになってくださいませ、ねえ」

 

 と、拮平に軽くボディタッチをする。


お里 「まあ、旦那様、そろそろお家ですわ」


 と、拮平の袖を引こうとするが、軽く払われてしまう。


拮平 「俺は、弥生様送って行くから、お前、先に帰ってな」

弥生 「あの、もう、ここで大丈夫ですから。本当にありがとうございました」

拮平 「いいえ、ちゃんと送り届けないと、後で、真ちゃん、あの、刀の手入れに

   余念のないお侍に何をされますことやら…」


 本田屋の裏口から入れば、そこには一足先に帰った、真之介達がくつろいでいた。お咲と若い女中たちは花火に興じていた。


真之介「おう、戻ったか」


 戻ったかとはどう言うことだろう。弥生がはぐれたことを心配するどころか、拮平と一緒だったことを知っているようではないか。

 事実、知っていた。弥生がはぐれたので、すぐに忠助を捜しに行かせたが、少しして、忠助が一人で戻って来た。


真之介「いなかったのか」

忠助 「それが、白田屋の旦那とご一緒でして。何か、楽しそうだったので…」

真之介「まあ、拮平と一緒なら心配することもあるまい」


 今の弥生ははぐれたことを詫びているが、その顔は明るい。


真之介「拮平、ご苦労だったな、じゃ、またな。では、帰るとするか」


 帰り道、真之介は弥生に聞く。


真之介「楽しかったか」

弥生 「はい、お陰様で…。実は変な人達に絡まれたのですが、その時、拮平殿が

   助けてくれました」

真之介「ふむ、それで」

弥生 「その後は、ぶらぶら…。あの、てんぷら、ご馳走になりました」

真之介「それは、良かった」

弥生 「初めていただいたのですけど、ものすごく美味でした」

ふみ 「そう言えば、私もここしばらく、てんぷらをいただいておりません」 

真之介「いずれ」

ふみ 「お近いうちに」


 そんな話をしているうちに、家に着いた。その夜は満ち足りた気分で眠った弥生だったが、翌日、月末でもないのに、母が怒りもあらわにやって来た。


母  「何と、はしたない!」

弥生 「何のことです」

母  「そなた、昨夜、男と歩いていたそうだな」

弥生 「え、ああ、あれは」

母  「何があれはだ。ようも、恥知らずなことをしてくれたものよ!親の目が届か

   ぬを幸いに、男にしなだれかかってかかっておったそうではないか!」

弥生 「違います!その様なことはしておりません」

母  「嘘を付くでない!沙月と婿が見ていたのじゃ!この期に及んでまだ親を謀る気

   か!」

弥生 「だから、違うのです」

母  「何が違うのだ。ああ、間違いであった…。この様なところへ奉公に出した

   のが間違いであった。我が娘にこの様に恥知らずなことを教えるとは。さす

   がはにわか侍よ。旗本の娘をたらし込むだけのことはあるわ!」


 後ろから真之介が声を掛けたことにも気付かず、尚もまくし立てる母だった。


弥生 「母上!」

真之介「これはお越しなされませ。ご用がおありなら上がっていただけばよかろ

   う」

母  「いえ!その…。本田殿!いかに娘がこちらでご厄介になっているとは申せ、こ

   ればかりは黙っているわけにはいきませぬ!」

真之介「何かございましたか」

母  「昨夜、娘と婿が夜祭り見物に出かけたのです。その時、見たそうです。何

   と、この弥生が男にしなだれかかって歩いていたと…。もう、それを聞いて

   私は目眩がしそうになりました。こちらでは、その様なことを許しておられ

   るのですか!こればかりは私は我慢なりません!」

真之介「それは、誤解です」

母  「何が、誤解なのじゃ!落ちぶれたとはいえ、私共は由緒ある家柄。いかに、

   旗本の娘を妻に迎えられたとはいえ、元町人の家と一緒にしないで頂きた

   い!」

真之介「では、いか様にすればよろしいので」

母  「ならば、先ずは土下座で詫びて頂きたい」

弥生 「母上!何と言うことを!申し訳ございません。母は一度思い込みますと、決し

   て曲げないのです」

母  「何を申すか!己の仕出かしたことを恥もせず、また、それを容認するような

   家には娘を置くわけにはいかぬわ!」

真之介「とにかく、お上がりを。先ずは落ち着いてお話いたしませぬか」

弥生 「母上、少しは落ち着いてくださいませ。ひとまず、ここは旦那様のおっ

   しゃられるように上がらせていただきましょう」

母  「何が、旦那様じゃ。無責任極まりないわ!」

弥生 「母上!それなら今すぐお帰り下さい。そのように大きな声を出されては、近

   所迷惑です」

母  「これ、母に対して、いつからその様な口を利くようになったのじゃ。なん

   と、おそろし…。いや、では、上がらせてもらうわ」


 こうなったら、旗本の娘である、ふみにも言いたいことがある。そして、座敷に座ればすぐに茶と菓子が出て来た。

 どうなることかと物陰から様子を伺っていたお咲だったが、忠助に茶菓子を用意を促され、母親の前に茶を出せば、これまたすぐに障子の陰に隠れる。


ふみ 「冷めないうちにどうぞ」

 

 茶を飲み一息ついた母だったが、目の前の羊羹が気になるも、ここはきちんと話をしなければならない。


母  「ですから、奥方様。これからはそのようなことの無き様、厳しく躾けて頂

   かねば…」

ふみ 「それはご心配には及びません。実は、昨夜は私共も夜祭りに出かけまし

   た。配慮が足りなかったと言えば、その通りかもしれませんが…。弥生がは

   ぐれてしまいました」

母  「だからと言って…」

真之介「あの者は私の実家の隣の白田屋と言う足袋屋の主人です」


 白田屋なら名前くらいは知っている。


真之介「女中たちと祭り見物に来ていて、そこで弥生と会ったそうです。それで、

   その後は私の実家まで一緒に戻って参りました。それだけです」

母  「でも、娘が申しますには、その様な女中たちはいなかったし、二人きり

   で…」

真之介「女中のことは、今始めて申しましたが…」

母  「いえ、その。では、伺いますけど、弥生がはぐれたのをそのままにされて

   いたのですか。気にはならなかったのですか」

真之介「それは、すぐに忠助を捜しにやりましたが、先程申しました様に、白田屋

   の拮平と一緒だったので、そのままにしたそうです。白田屋の主人、拮平と

   はそれこそ生まれた時からの付き合いです。また、お会いになられたらわか

   りますが、これがなかなか面白い男でして、きっと、下らぬことを言って、

   弥生殿を笑わせたのでしょう」


母  「いいえ、沙月が、婿がそう言うことにうるさくて…。昨夜も帰るなり、あ

   あだこうだと言いまして、私を中々寝かせてくれないのです。それで、今日

   も朝からしつこく言うもので、つい…」

真之介「ご心配される気持ちはわかりますが、もう、大人です。互いに信頼し合う

   ことが肝要かと」

母  「まあ、それが一番ですわね」


 と、先程までの剣幕はどこへやら、母は今度は羊羹を食べることに専念していた。


弥生 「本当に申し訳ありません…」


 母が帰った後で、改めて手を付く弥生だった。


真之介「大変だなあ…」

ふみ 「ほんに…」


 それにしても、やさしい人たちだ。坂田の妻と言い、真之介もふみも、どうすれば、この様にやさしくなれるのだろう。

 ひとつには、満ち足りているからだろう。いや、それだけなのか…。

 数日後の月末、臆面もなく母はやって来た。


母  「まあ、これだけとはどう言う訳じゃ」


 さすがに声は潜めているが、それでも怒りは十分に伝わって来る。


弥生 「それは、私のお稽古代が差し引かれているからです」

母  「何と…。ならばどうして、我が家は暮らしが厳しくこの様なぜいたくは出

   来ませんと言えばよかろうに」

弥生 「でも、私もお茶をやって見たかったものですから」

母  「は?そなたが茶などやって何になると言うのじゃ。例え、資格を取ったと

   て、誰が習いに来るものか。誰が師匠と崇めるものか。馬鹿も休み休み申

   せ」

弥生 「……」

母  「それより、茶を習いに行ったことにして、たまにはこの母を助けてくれぬ

   か。知っての通り、もう、毎日が大変でな」

弥生 「それは出来ません」

母  「どうして?黙っていればわからぬであろう」

弥生 「いえ、今日は何を習ったのか聞かれますので…」

母  「それくらい、臨機応変に答えられぬかっ」   

弥生 「無理です。習ってないものは答えられません」

母  「やれやれ、まあ、そなたに気働きを期待した方が無理であった。体を動か

   すことしか能がなかったわ」


 と、言い捨てて母は帰って行ったが、弥生は少し気の毒な気がしないでもなかった。弥生が家事に追われている間、父と母は傘張り内職に精を出していたが、今はその弥生も家を出ている。また、婿を迎えた沙月も相変わらず家事をやろうとはしないのだ。傘張りも形だけしか手伝わない。また、婿も沙月の機嫌を取ることしかないらしい。

 母が家事に手を取られると、思うように傘張りが出来ない。当然、収入も減る。また、十数年に亘り、家事をやって来なかったのだ。いつの間にか手際は悪くなり、勘も鈍っていた。


沙月 「これでは、弥生が作った方がまだマシでした」

母  「長くやらなかったで、思う様にはいかぬわ。気に入らぬなら、自分でやれ

   ば良かろう」

沙月 「この家の当主は私です。その当主が何で、その様な雑事をやらねばならぬ

   です」

母  「親を粗略に扱うではない!」

沙月 「父上も母上も隠居ではございませんか。老いては子に従えと申します」

母  「では、私が死んだら、どうするのじゃ、誰が飯炊きをするのじゃ」

沙月 「それまでには、娘を二人生み、下の娘にやらせます、母上に倣って」

母  「今、私が死んだら?」

弥生 「その時には弥生を呼び戻します」

母  「その様なことをして、婿とおかしなことにならねばよいが」

沙月 「誰が、あの弥生に、ふふっ」

母  「男とはな、女なら誰でもいいのじゃ。…さえあれば、そう言う者じゃ」

沙月 「母上!先案じするより、早よう、夕餉の支度を」

 

 と、相変わらず沙月は何もしない。また、肝心の弥生も今ではすっかり、にわか侍に感化されてしまい、反抗的な態度ばかり取る。

 これでは、頭が痛い…。

 母と娘は永遠のライバルでもある。だが、一方の娘には若さがある。

 どうしようもない、この悔しさ…。


 そして、真之介は、拮平に呼び出される。

 


 















 

















 

 









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