第126話 雲間の月 一
美しさとは、距離である。
どんな美男美女でも、一寸の距離から見れば美しくも何ともない。
その人にはその人の、美しい距離がある。
月はいつ見ても美しいが、それは見ている距離がいいからである。近くで見れば、穴ぼこだらけ。さらに、後姿は見せないと言う、周到さ。
美しさとはそんなものである。
----まさか…。
まさか、こんなことになろうとは…。
何と、拮平が弥生を妻に迎えたいと言う。
平和な時代、侍より商人、金の力が強くなって行く。下級武士の次男や娘たちの中には、裕福な商人の許へ婿入り嫁入りする者も珍しくない。
拮平が武士の娘を妻に望んだとて、不思議でも何でもない。だが「相手」が悪い。弥生自身は真面目で控えめないい娘であるが、その背後にはあの母、あの姉がいる。
拮平 「やっぱり、無理かな」
無理ではない。無理どころか母と姉にすれば大喜びだろう。家においては下女同然の扱いをし、邪魔になれば追い出し、今はその稼ぎすら取り上げている。お初の弟妹より
真之介「無理をするのはお前の方だ」
拮平 「どう言うこと?」
真之介「弥生を嫁に迎えると言うことは、あの家族の面倒まで見なくてはいけない
と言うことだ。それも、ちょっとやそっとではない。弥生から、何か聞いて
ないか」
拮平 「何かって、実家の暮らしも楽ではないってこと」
最初のお茶の稽古の帰りは偶然だったが、その次からは二人で会うようになっていたと言う。そんな時でも、いや、弥生はあまり家の話をしなかった。きっと、したくなかったのだろう。
真之介「それだけならまだしも、あの母と姉は欲が深い。はっきり言うが、一生、
ここは、はっきり言っておいた方がいい。そして、弥生がどのような経緯で真之介のところへやって来たか、また、その後の母と姉の有り様を話すのだった。
拮平 「そんなに…」
さすがに、拮平も驚いていた。
拮平 「まあ、本田屋さんとうちでは比較にならないけど、真ちゃんにしても、奥
方の実家にかなり…」
真之介「いや、まあ、それ程のことはない」
ふみの結納金で借財を完済した三浦家であったが、兵馬の婚礼では本田屋から借り入れをしている。それでも、少しずつではあるが返済をしているそうだ。後は姉の嫁ぎ先の薬種問屋から、姑の薬が届けられている。
真之介「月に一度は私もご機嫌伺いに行くし、ふみもあれこれ気を使っているよう
だ」
三浦家から、取り立てて何かを要求されることは無いが、弥生の母と姉は違う。取り上げられるものは取り上げる。また、婿の家が繁華街に店を持っているとなれば、それこそ、どんな要求して来ることやら…。
真之介「何より、問題は姉だ。母親すら手足にしている。また、婿も駄目だそう
だ」
拮平 「……」
真之介「弥生とどんな話になっているのだ。もう、何か約束でもしたのか」
拮平 「いや、それは、まだだけど…。何と言っても、相手はお侍の娘だし…」
真之介も弥生の行く末を考えないではなかった。ふみとも話し合った。いっそのこと、武士とは言えない足軽のところへでも輿入れさせた方がいいのではないか。それも、人柄次第だが…。
以前、弟の善之介がお徳と言う美しい少女に絵のモデルを頼み、小遣い程度の金を渡していた。それに気付いたお徳の母と兄が言葉巧みに善之介を誘い出し、下戸の善之介に無理やり酒を飲ませ、お徳に手を出した、責任を取れと本田屋にのり込んで来たことがあった。
耐え切れなくなったお徳が、嘘だ、こんなことはもう嫌だと泣き出した。真之介がお徳の母に
そんな、お徳は宿下がりの時に真之介の家にやって来た時に言ったものだ。
お徳 「女ばかりと言うのも結構大変です。でも、あのまま、親元にいるより、私
はいいですけど…」
女同士でも、顔の美醜は大きな問題であり、不器量な娘程いじめにあうのだとか…。
そんなところへ、弥生はやれない。
拮平なら、弥生を大事にすることだろう。だが、弥生には父母、姉、婿までもが付いて来る。
真之介「もう一度、よく考えろ。そして、決して、弥生に気を持たせるようなこと
は言ってくれるな」
そう言って、拮平と別れたが、真之介は気が重い。
あの拮平のことだ。真之介に話したと言うことは、既に、弥生とも…。
そうでないにしても、気持ちは固いに違いない。
----これから、どうなる…。
恋をすれば、女は美しくなる。
雲間から月が顔を覗かせていた。
ふみ 「もう少し、雲が去ってくれるといいのに…でも、今宵の月は、何か恥ずか
しがっているように見えます。そうは思いませんか」
弥生 「はい…」
側で弥生も月を見上げていた。今まで、こんなにもゆったりと月を眺めたことがあっただろうか…。
四季の移ろいも暑さ寒さも、日の入り日暮れすら、その時の現象でしかなかった。いつもいつも、それら現象の対応に追われていた。
内職をするとしないでは、こんなにも時間に余裕があるものなのか。いや、それだけではない。姉の沙月も花を愛でたり、月を眺めたりしては、ふみの様に感想を述べたすぐ後の口で、必ず、弥生に文句を言ったものだ。
沙月 「何をそんなところに突っ立ってるの。布団は敷いたの、明日の支度は」
そんなことは毎日やっていることではないか。それでも、弥生に何か言わなければ、気が済まない。そうでなければ、きっと寝つきが悪いのだろう。その後はいびきをかいて寝たものだ。
----いやいや、もう、過ぎたこと…。
そんな弥生の横顔は、まるでこの月の様だと真之介は思った。月からの影により、傷は隠れて見えない。この程度の傷、何でもないのだが、それを殊更にそれも肉親から貶められてきたのだ。おそらく、雲の中にいるような毎日だったのだろう。だが、今は違う。
何より、拮平との出会いが大きい。それにしても、これからどうなって行くのか、この二人…。
ふみ 「旦那様も黙ったままでございますのね」
真之介「たまには、静かに月を眺めるのもいい」
ふみ 「そう言えば、あの静奴とか言う芸者、どうしてますか」
寄りによって、こんな時に、静奴とは…。
真之介「そう言えば、ちと、足が遠のいているで、近い内に行って見るとするか、
拮平と」
弥生が拮平と言う言葉に反応したのを、真之介は見逃さなかった。
ふみ 「いえ、別に、そういう意味で申したのでありません。ただ、何となく、ふ
と、思い出しただけですので。ご無理してお行きにならなくても…」
真之介「別に無理などしておらぬ。まあ、あれはあれで、面白い芸者である」
弥生 「でも、その芸者って、やはり、美しいのでしょうね」
ふみ 「私は会ったことはありませんけど。それが、何と、うちの旦那様に岡惚れ
しているのです。あぁ、岡惚れと言うのは、勝手に好きになることです。そ
れだけでしたら、まだ、良いのですけど、何を勘違いしたのか、相思相愛と
思っているそうです」
二年ほど前に一度、ふみを座敷へ連れて行ったことがある。その時は拮平も一緒だった。いつもなら、いの一番に押しかけて来る静奴がやって来ないので、しびれを切らした拮平が訪ねれば、病気で起き上がれないと、今は引かされている蜜花が言ったものだ。
もっとも、その病気と言うのは、只の飲み過ぎをもう長くないと、例によって静奴が勘違いしたに過ぎない。さらに、真之介はそのとばっちりを受けてしまったものだ。
その時に、初めて「岡惚れ」と言う言葉を、ふみは知った。
それにしても、よく覚えているものだ。やはり、ふみにしてみれば、一生足を踏み入れることのない空間での出来事であるから、余計にも鮮明に記憶しているのだろう。
ふみ 「でも、やはり、蜜花は違いましたわ…」
蜜花には二度会っている。
ふみ 「芸者の時も美しかったですけど、引かされても、尚、あの美しさですから
ね。ああ、その蜜花と言う芸者ですけど、今は材木問屋に囲われています」
す」
この、ふみが美しいと言う蜜花とは、どのように、どこまで美しいのか、弥生には想像がつかない。
そんな美しい女達に囲まれていながら、拮平はどうして、自分にやさしくしてくれるのだろう…。
拮平に会えた時は、ものすごくうれしいのに、茶店で並んで腰かければ、何か、もう、もどかしくてならない。そして、途中まで一緒に歩く時の恥ずかしさ。また、別れる時の辛さ…。
お茶の稽古日が待ち遠しくてならない。また、ふいに拮平が真之介を訪ねて来ないかなと思う。出来るなら、毎日でも、本田屋に行きたい。拮平の近くに行きたい…。
そんなある日、弥生の思いが通じたかのように、拮平がやって来た。拮平が真之介の家に訪れたのは、嘉平の葬儀後の挨拶の時以来である。
あの時は何でもなかったが、今は妙にどぎまぎしてしまう弥生だった。忠助とお咲は連れ立って外出していた。どこへ行ったのかも知らない。
真之介「拮平の手土産だ。せっかくだから、頂こう」
茶を出した弥生が下がろうとした時、真之介が言った。弥生は菓子折りを持ち、再度台所に立ち戻り、いつもの菓子皿に手土産の饅頭を載せて部屋に戻って見れば、そこに、真之介夫婦の姿はなかった。拮平の前に菓子を出せば、その後は妙な静寂が漂うばかりだった。
----どこへ行かれたのかしら…。
弥生 「あの、旦那様たちはどちらへ」
拮平 「さあ、どちらへ…。あの、弥生様」
弥生 「あ、はい」
だが、その後の拮平も言葉が中々出て来ない。
弥生 「あの、その、いつもありがとうございます、その、良くしてくださり…」
茶店の時とは違う雰囲気に、たまらず、弥生の方から出た言葉だった。
拮平 「そんな、とんでもないです。私の方こそ、楽しい時を…」
弥生 「いいえ、私の方こそ…」
拮平 「次のお茶のお稽古の時も…」
弥生 「は、はい」
拮平 「あの、親父の一周忌が済むまで待っていただけますか」
拮平は意を決して言ったのだが、弥生には何のことだかよくわからなかった。
弥生 「あの、待つとは?」
拮平 「だから、私のところは、まだ、喪中なので…」
弥生 「はい…」
拮平 「喪が明けましたら、正式にご挨拶に伺うと言うのは…。ああ、それとも、
私の様な町人のところへは、やはり、来ていただけませんか」
来てくれとは、まさか…。
いやいや、勝手に先走ってはいけない。勘違いと言うこともある。
拮平 「やはり、お嫌ですか」
弥生 「いえ、そんなことは…」
ここで、拮平も自分の曖昧過ぎる言葉に気が付く。
拮平 「あの、本当に、商人の妻に、ご新造とか呼ばれますけど、それで、よろし
いので」
弥生の頬に赤みがさす。
弥生 「は、はい」
----輿入れできる…。この私が…。
弥生は頭を下げた。拮平も慌てて頭を下げる。
----こんな時、なんて言えばいいの。
弥生 「よろしくお願い致します」
----ああ、やっと、言えた…。
拮平 「こちらこそ!」
まさか、こんな日がやってこようとは、夢にも思わない事だった。
このことを知ったら、母は、姉は、どんな顔をするだろう、どんなことを言うだろう。いや、母はすぐに手のひらを返してくるだろう。だが、沙月は。そうだ、その時の沙月の顔こそ見ものだ。
今まで、傷物、能無し、穀つぶしと散々罵って来た妹が町人とは言え、名の知られた商家へ輿入れするのだ。着るものも、髪型も変わってしまうが、ご新造様と呼ばれ、お付きの女中もいる。
----夢、みたい…。
やがて、犬のはなを連れた真之介とふみが帰って来た。
真之介「話は済んだか」
と、庭から二人とも上がって来た。
弥生 「お出迎えも致しませんで」
拮平 「ありがとうございました」
真之介「良かったな」
聞かなくても、弥生の顔を見ればわかると言うものだ。
拮平が弥生を妻に迎えたいと言ってきた。真之介は弥生は良いが、あの家族、特に姉が一筋縄ではいかない。うかうかしていると、一生、集れることになるやもしれぬ、よく考えろとその場は別れた。
後日、やはり、気持ちは変わらない、家族のことは、真之介とも相談しつつ、弥生とよく話し合って決めるので、先ずは二人だけで話をさせて欲しいと言った。
それなら、場所をどこにするか。外で会えば、やはり人目がある。そこで、真之介の家に拮平を呼ぶことにした。忠助とお咲には小遣いを持たせ外出させた。後は、自分たちも犬を連れて出掛ける。
拮平にとっても、弥生にとっても、互いに最良の相手であると思うが、結婚とは当人同士の気持ちだけでは済まないことも多々ある。それぞれに家族が控えている。拮平の方は父母は既に亡く、後妻のお芳も出て行った。言うことは無い。
問題は弥生の家族である。いくら、跡取りである姉の沙月を優先するにしても、あまりにもその差が激しすぎる。母親でさえ、弥生を下女扱いし、挙句に、決死の思いで家を出た娘の奉公先に臆面もなく、金を掠めにやって来る。その弥生が白田屋に輿入れとなれば、それこそ、相手は町人である。笠にかかって、あれこれ要求してくることは目に見えている。
人のいい拮平がどこまでそれらの要求を撥ねつけられるか。その点は、弥生にもよく言って聞かさねばならない。
真之介「先ずはめでたいことである」
ふみ 「弥生、おめでとう」
弥生 「あ、ありがとうございます」
ふみ 「まだ、実感がわきませんか。そんなものです。私も旦那様との婚礼が決
まった後も中々実感がわかなくて…。こんなので大丈夫なのかと悩んだりし
たものです。そんな時もあったのですよ」
真之介「ああ、随分、気を使わせもらったわ。それが、今では根が生えたように、
どうだ、この落ち着きっぷり」
ふみ 「いいえ、本当に根が生えたのかもしれません。何か、そんな気がしますも
の」
真之介「それはそれは…」
翌日、弥生は実家へ立ち寄る。
----ここは、ちゃんとしなきゃ。
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