第120話 帰って来た雲 一

 ジョンが鳴いた。激しく、時に悲しく鳴いていた。


女中 「ジョン、やっぱり、若旦那が恋しんだね」


 と言って、本田屋の女中が頭をなでるが、ジョンは尚もくんくんと鳴いている。

 思えば、お芳に捨てられそうになったのを、お里が隣の本田屋に飼ってくれるよう頼んでくれた。ここにも拮平の匂いが残っていたが、雨でそれも消えてしまった。だが、ここが元の住処の隣であることくらいジョンにもわかる。また、ここには妹犬の、みかんもいるし食事もおいしい。それでもジョンは拮平に会いたい…。

 その拮平が帰って来たのだ。一刻も早く会いたいのに、会えぬもどかしさにどうすることも出来ないジョンだった。


お里 「若旦那!」


 お里が拮平に駆け寄る。


拮平 「お里、元気だったかい」

お里 「ええ、それは。それより早く!」


 嘉平は一階で寝ていた。


拮平 「お父つぁん…」

 

 そこにはやせ衰えた嘉平が横たわっていた。


嘉平 「拮平…」

拮平 「なに、いつまでも寝てんだよ。俺が帰って来たからにゃ、すぐに元気にな

   るからさ」

嘉平 「お芳のことなんだが…」

拮平 「はぁ、息子より、女房の方がいいってことかい。すぐに呼んでやるよ」

嘉平 「そうじゃない…」

お芳 「拮平!」


 その時、障子が開いてお芳の声がした。  


お芳 「まあ、よくも、平気な顔して帰って来られたもんだねっ」

拮平 「これはお芳さん。私のいない間、親父の面倒を見て頂いてありがとうござ

   います」

お芳 「ああ、誰かさんが散々好き勝手やってくれたお陰で、心労が重なりお倒れ

   になったって。うちの兄が言ってたわ」


 お芳は医者の娘である。今は兄が後を継いでいる。


拮平 「それはどうも。それで、お父つぁんの側に誰か付けてやってくれません

   か。お芳さんもお疲れでしょうから」

お芳 「せっかく、息子が帰って来たんだから、後はお願いするわ。では、親子水

   入らずで、どうぞ」

拮平 「だから、もう一人女中でも」

お芳 「それなら、お縫に言っとく。ああ、疲れた。ほんと、ここのところ、ろく

   に寝てないんだから…」


 お芳が出て行けば、しばらくして一人の女中がやって来た。拮平の知らない女中だった。


お栄 「お栄です」


 見るからにやる気の無さそうな感じだったが、拮平が小遣いを握らせれば、ようやく愛想笑いを見せた。


拮平 「お父つぁん、心配ばかりかけてごめんね。これでも一生懸命働いてんだか

   らさ。早く元気になってよ」

嘉平 「拮平、お前、旅で疲れたろ…」

拮平 「俺のことはいいよ、勝手にやらせてもらうから。そうだ、お栄。喉渇いた

   から茶を」


 お栄は黙って立ち上がる。


嘉平 「お芳のことなんだが…」


 その時、お栄と入れ替わりにお里が入ってくる。


お里 「若旦那、実は」

拮平 「何だい。そんなの後にしとくれ」

お里 「まだ、何も聞いてないのに…」

拮平 「じゃ、お父つぁんの着替え持って来とくれ」


 お里は不満そうに立ち上がる。拮平はこの家の誰も嘉平のことを気にかけてないことに胸が痛む。


----そうか、お熊もいないんだった。


 真之介から、嘉平が倒れ拮平に会いたがっていると手紙を受け取り、急遽帰って来たわけだ。ならば、これからは自分が看よう。そのために帰って来たのだ。

 翌日、お芳の兄の医者がやって来た。そして、別部屋で嘉平がもう長くないことを告げるのだった。


兄  「それで、こんなことを言っては何だが、いや、これはうちの母が心配して

   いることだから、その当りを誤解のないよう…」

拮平 「わかりました」


 どうせ、お芳のことに決まっている。


兄  「お芳のことなんだが、ちょっと考えてやってくれないか」

拮平 「考えるったって、そちら様はどの様になさりたいんで。ああ、親父が死ん

   だら、また、俺に家を出てけってことですか」

兄  「いや、何もそんなことを…」

拮平 「でも、親父はまだ生きてますし、親父の意向も聞いて見なければ。その上

   で、どうするか決めるのがいいと思います。今日のところはそれで」

兄  「くれぐれも、良しなに」


 兄医者が帰ると、今度はお芳が拮平を呼び出す。


お芳 「兄とどんな話をしたんだよ」

拮平 「お芳をよろしくとおっしゃってました」

お芳 「それだけ?」

拮平 「ええ、どうやら、またまた、俺が家を出てってくれないかなあ、そんなと

   ころでしょ」

お芳 「でもさ、何度も言うようだけど、お前が、拮平が、恥知らずにも勝手に出

   てったんだからさ」

拮平 「俺がいつ、恥知らずなことしました?俺は好きな女と一緒になれなかったの

   が面白くなくて、家を出たのであって。そりゃ、少しは外聞が悪いかも知れ

   ませんが、道楽息子にゃ、よくあることで。それより、お芳さんにそれ言う

   資格あるんですか」

お芳 「なんだってえ!」

拮平 「聞きましたよ。お父つぁんと一緒になる前のこと」

お芳 「……」

拮平 「お芳さん、不倫してたんですってね」

お芳 「それはっ…」

拮平 「別に、今更、昔のことをどうのこうのと言うつもりはありませんよ。只

   ね、自分だって、そんなことがありながら、よく人のことが言えますね。か

   なりのもんだったそうで。あんたの親父さんから、商売道具のメスで、その

   髷切ってやると追っかけられたとか」


 拮平がまだ、江戸で幇間をやっていた頃、偶然座敷で聞いた話である。


客  「それで、ようやく不倫止めたと思ったら、今度はくたばりぞこないの親父

   見つけて、今じゃ自分と同い年の息子も追い出したとか。やるじゃないの

   さ」


 客はその息子がまさか目の前の幇間とは知らず、話を広げるのだった。拮平とて、尾ひれの付いた話を鵜呑みにするつもりはないが、かつて、お芳が不倫をしていたことは事実のようだった。


拮平 「確かに俺も馬鹿やったけど、人の道に外れるようなことはしてませんか

   ら」


 拮平の惚れた女は、放火犯と同じ名、同じ八百屋の娘、同じ丙午生まれだった。それを反対するのはわかるにしても、お芳は相手の娘の人格否定しただけでは飽き足らず、商売も立ち行かなくなり、やがては都落ちを余儀なくされた一家をせせら笑ったものだ。


お芳 「それなら、今からでもその丙午の女と一緒になって、この店潰せばいい

   じゃないか!お前が出てってから、私がどれだけ苦労したと思ってんのかい。

   ケチの付いた店を立て直したのは、この私なんだよう!何さ、人の苦労も知ら

   ないで、昔のこと持ち出したりしてさ」


拮平 「それはお互い様じゃないか。そんなことより、今はまだお父つぁんの女房

   なんだから、少しは側にいてやったらどうです」


 その時、お里が駆け寄って来て拮平の腕をつかむ。


お里 「あの、若旦那、真之介様が…」

拮平 「そうかい」


 お里に引っ張られるようにして去って行く、拮平の後姿に尚もお芳は悪態をつく。


お芳 「何さ!これでも、私ゃ、ここんところずっと付いていたさ。夜も寝ないでさ

   あ。少しくらい休ませてくれてもいいじゃないか!」


 一方、お里に本田屋まで引っ張って行かれた拮平だったが、何と、そこにはジョンがいた。 


拮平 「ジョン!」

 

 ジョンは全身でうれしさを表すのだった。 


拮平 「それにしても、どうしてジョンが、ここに?」

お里 「実は…」

 

 お里はここぞとばかりに悲しげな顔をする。


お里 「お芳さんがジョンを捨てて来いって。犬に食べさせるのも惜しいって言っ

   たんですよ。それで、この私が捨てるふりして、こちらにお願いしたと言う

   訳なんです。ねえ、ジョン。もう少しで捨て犬になるところだったのよね    え」

拮平 「そうだったのか」

お里 「ええ、もう、そりゃ、しどいもんで、一時は毎日大根ばかり食べさせられ

   たんですから。それで、私もこんなに痩せちゃって…」


 取り立ててお里が痩せているようにも見えないが、ジョンを隣に預けてくれたことには感謝している。


小太郎「拮平兄さん!」


 その声は今は本田屋の主人となっている小太郎だった。お伸も一緒で、後からお弓もやって来た。


小太郎「よく帰って来てくれました。よかったぁ…」

拮平 「ジョンの面倒見てくれてありがとう」

小太郎「そんなことより、おじさんの具合の方は?」


 拮平は首を振る。


小太郎「そうですか…」

 

 お伸もお弓も沈痛な面持ちであった。


拮平 「それより、真ちゃんは」

小太郎「いえ、見えてませんけど」

お里 「それはぁ、一刻も早くジョンに若旦那を会わせてあげたかったのとぅ、若

   旦那とお芳さんと揉めてそうだったので、私がぁ、気を利かしたんです」

 

 と、いい人アピールに余念のないお里であった。


小太郎「ああ、どうぞ、お上がり下さい」

拮平 「いや、しばらく見ないうちに小太郎ちゃん、すっかり本田屋の主人らしく

   なって…」

小太郎「これからですよ。兄さんも大変でしょうけど、お体に気を付けて」

拮平 「ああ、丈夫なだけが取り柄なんで。それと、今しばらくジョンを頼むわ」

小太郎「お安いご用です」

真之介「拮平、久し振りだなあ」

 

 いつの間にやって来たのか、真之介が庭に降りて来た。側にはふみと知らない娘がいた。輿入れした久の後任だと言う。


真之介「お前も色々と大変だなあ…」

拮平 「いいえ、小太郎さん、本田屋さんにもすっかりお世話になって…」

小太郎「大したことはしてませんよ」

真之介「体に気を付けて、親父さんしっかり看てやれ」

拮平 「そうする、そう致します。では、お邪魔しました」

お里 「ジョン、また明日、若旦那連れて来てあげるからねっ」

 

 拮平とお里は帰って行った。


小太郎「拮平兄さんも今までとは顔付きが違いますね」

真之介「ああ、これからだ…」

----しっかり、やれよ。


 やはり、皆、嘉平の死後のお芳の出方が気になる。だが、ここにもう一人、嘉平の死後のことを気にする女がいた…。


----どうしたらいいの…。























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