第119話 痕ある花 三
母 「どうしたのです。早よう、取り次がぬか」
突然のことで、戸惑ってしまう弥生だった。
沙月 「こんなことで、よく、よそ様のお宅が務まりますこと」
まさか、それもこんなに早く、母と姉がやってこようとは…。
弥生 「あの、母と姉がご挨拶に参っております…」
真之介「それは、すぐにお通しを」
この日は真之介も在宅していた。
母 「お邪魔致します。お初にお目にかかります。弥生の母にございます。この
度は図らずも娘がご厄介になりまして、お礼の申し上げようもございませ
ん。何かと至らぬと娘ではございますが、よろしくご指導のほどをお願い申
し上げます。この者は姉娘の紗月にございます」
沙月 「沙月にございます。よろしくお願い致します」
と、どこかで買って来たらしい菓子折りを差し出すのだった。
真之介「これは、ご丁寧に痛み入ります。紗月殿には近くご婚儀とか、おめでとう
ございます」
沙月 「ありがとうございます」
それにしても、こんな美形夫婦の許に傷痕のある娘を奉公させるとは、世話をした坂田利津の真意を図り兼ねる母と姉だった。
母 「あの、娘はお役に立っておりましょうや。細々としたことはともかく、気
の利かぬところも多々あるかと…」
ふみ 「いいえ、中々に気の付く娘御にて、骨惜しみすることなく、よくやってく
れております」
母 「その様におっしゃって頂き何よりにございます」
その時、お咲が茶を持って来る。
----すぐに茶が出て来るとは、火種を絶やさぬと言うことか。さすが、道楽侍の家だけのことだけあるわ。
母 「私共の家は代々…」
と、母の家柄自慢が始まれば、弥生は気が気ではない。大した家柄でもないのにそれを大仰に語るのだ。だが、ここは侍株を買った言わばにわか侍の家である。それも娘が世話になっていると言うのに、くどくどと身の不運を嘆くとは…。
沙月 「まあ母上、その様な昔話より、大事なお話があるではないですか」
母 「でも、それは…」
ふみ 「大事なお話と申しますと」
沙月 「いえ、その、妹のことにございます。実は、弥生は子供の頃より勉強嫌い
でございまして…」
弥生が一瞬、えっと言う顔をするも、すぐに俯いてしまう。その一瞬を真之介もふみも見逃さなかった。
沙月 「寺子屋へ行くのも嫌がり、母がなだめつつ少しばかり文字を教えたにすぎ
ません。よって、世間知らずのままに育ちました。そのことを母が憂慮致し
まして、何か失礼なことを致しておらぬかと。また、私も様子が案じられ、
ご無礼を承知で参った次第にございます」
真之介もふみも久から聞いていた。この家には異国の珍しいものもあるが、絵草子からエゲレス語の本までと書籍も多い。弥生はそれらを目を輝かして見ていたものだ。また、読んでもいいと言われ、絵草子を手にするがすぐに、久にわからない字を尋ねる。
久 「あまり、文字を知らないようです」
久が辞めた後はおずおずと、ふみに聞いて来る。話を聞けば、姉の紗月は寺子屋に通ったが、貧しくて自分は通わせてもらえなかった。母から、読み書きを少し習っただけとのことだった。
それなのに、紗月は弥生が勉強嫌いだと言う。
ふみ 「それはまた…。しかし、ご心配には及びません。弥生殿はよくやってくれ
ております。私共も随分と助かっております」
沙月 「その様におっしゃって頂いて、恐縮の限りです。ただ、体だけは丈夫でど
ちらかと言えば、雑用の方が向いていると思います。どうぞ、存分にお申し
付けくださいませ」
弥生はずっと俯いたままだ。きっと、何か言っても、母と姉から否定され、押さえつけられるだけの毎日だったのだろう。ならば、これからは色々と教えてやらねばと、顔を見合わせる真之介とふみだった。
その時、忠助が利津の来訪を告げる。即座に真之介が立ち上がれば、驚いたのは、弥生の母と姉である。
まさか、ここで利津と鉢合わせしようとは。慌てて下座に伏す母と姉だった。
ふみ 「まあ、おば様、お出迎えも致しませんで…」
利津 「いえ、来客中とか」
と、下座で平伏している女二人に目が行くが、利津はすぐにこの二人が弥生の母と姉だとわかった。
母 「これは坂田様にございますか。お初にお目にかかります。弥生の母にござ
います。この度は娘の無理難題をお聞き届けいただき、何とお礼を申してよ
いのやら。すぐにでも、お屋敷にお伺い致さねばと思っておりましたが、何
分にも娘のことが気がかりにて、つい、こちら様へ足が向いてしまったと言
う次第にて、誠に申し訳もなく、恐縮致しております。この上は一日も早
く、お礼に参上致しますゆえ、何卒、平にご容赦願い奉り…」
利津 「もう、良いわ」
利津はいつまでもくどくどと続きそうな母の言葉を遮る様に言った。
利津 「まあ、結果良ければ、それで良いではないか」
母 「ありがとう存じます。あ、これが姉娘にございます」
沙月 「紗月にございます」
利津 「ああ、近く、婚儀とか。それはめでたいことで」
沙月 「はい、ありがとうございます」
母 「あの、では、私共はこれにて。本田様、奥方様。弥生をよろしくお願いし
ます。坂田様、お先に失礼をば致しますでございます」
母と姉に続き、弥生も部屋を出て行く。
利津 「どの様な用件で参ったのです。まあ、大体想像は付くが」
真之介「はい、弥生が何か粗相をしておらぬか心配とか…」
利津 「やっぱり…」
男子のいない家では長女が婿取りをする。次女以下はいずれ嫁に行くのであるが、ここでも、長女と次女の差は大きい。すべてに跡取りが優先され、食事でさえ差を付けられることも珍しくはないのだ。
利津 「それにしても、あの母親は差をつけ過ぎなのです。初めて会うた時は、ま
るで下女の様な着物でした。明くる日には少しはまともなものを着て来るか
と思えば同じものを…。よって、女中の古着を着せたのです」
ふみ 「はい、久も申しておりましたが、文字もあまり知らぬとか。また、寺子屋
にも通わせてなく、それを勉強嫌いだとか申しておりました」
利津 「ええ、ですから、給金よりも何か買ってやった方が、弥生のためになるの
ではと思います」
ふみ 「はい、その様に致します。また、文字なども教えて行こうかと」
利津 「その様にしてやってください。ほんに、こちらに預けて良かったわ」
一方、母と紗月は弥生の部屋にいた。当りを見回しながら、紗月が言う。
沙月 「まあ、いい部屋だこと。ここに一人で」
弥生 「はい、少し前までは久様とご一緒でした」
沙月 「ああ、どこかの後妻に行ったとか言う人。まあ、本を買ったの。それとも
買ってもらったの。いいわねえ」
弥生 「それはお借りしたものです」
母 「それより、弥生」
母が改まった口調で言う。
母 「それで、給金は如何ほど」
弥生 「給金は、今月は見習いと言うことでございません」
沙月 「まあ!金持ちのくせしてケチねえ」
母 「紗月、金持ちと言うものはそんなものですよ。自分たちのためには湯水の
様に金を使うくせに、人に払う金はケチるものです」
沙月 「そうでしたわね」
母 「でも、弥生。再来月には紗月の婚礼があります。何かと物入りで、無駄使
いをせぬよう。それと、私が渡した金は、まさか、全部使ってしまったと言
うことはないでしょうねえ」
弥生は小さな茶箪笥の引き出しから、母から受け取った巾着を取り出せば、中身を改めた母は巾着を袖の中に仕舞う。
母 「まあ、いいでしょう。先程も言った様に、これからも無駄使いはしないよ
うに」
沙月 「そうですよ、これからは少しでも親の恩に報いるように致さねば、実家を
出たからと言って、親の恩を忘れるようでは、それは人間の屑です。よう
く、肝に銘じるのです。いいですね!」
それだけ言うと、母と紗月は帰って行った。弥生は巾着の中にいくら入っていたか知らない。どうせこんなことだろうとそのままにしておいた。中身が減っていなかったことに満足したようだが、弥生はそれでよかった。
それからの毎日は、朝はお咲と共に起き、朝餉の支度をし、そのあとは掃除洗濯も一緒にした。いつも一番下だった自分に妹が出来たようだった。水汲み薪割りなどの力仕事は忠助がやり、また、犬のはなもかわいい。
ふみ 「弥生、これを読みなさい」
と、ふみが差し出したのはかわら版の束だった。ここ二年余りのかわら版はすべて取ってある。
ふみ 「読めば、少しは世のことがわかるでしょう。中には怪しげな噂の類もあり
ますけど、世間とはそのようなものです。わからないことがあれぱ、何でも
聞いてください」
と、ふみは訳知り顔で言うのだった。そして、真之介が起こした仁神髷事件も真相も知る。
ふみ 「でも、世間では、あれは旦那様が私に懸想をして、引き起こしたことに
なっているのですから、そのことを忘れぬように…」
弥生 「はい」
さらに、真之介は今は当の安行と釣りに明け暮れている。弥生には男のことがよくわからない。寡黙を通り越して、生気のない父からは何のイメージもわかない。それ故、真之介は別格のように思えてならない。
その後も、ふみから色々な話を聞いた。どれも興味深くいかに自分が世間知らずであったか、いや、母も姉も世の中の上っ面しか知らないのだ。
ふみ 「いいのですよ、私もこちらへ輿入れするまでは、それこそ何も知らなかっ
たのですから。女とはそのように育てられますもの。なのに、弟は母上が私
ばかり可愛がっていたと言うのです」
ふみも祖母からは冷たくされたと言うが、やさしい母がいてくれただけいいと思うが、弥生は慌ててその気持ちを打ち消す。
----いけない。人を羨んではいけないのだった…。
ある日、忠助が大事そうに篭を抱えて戻って来た。篭にはもみ殻が敷き詰められその中に、丸くて白いものが見えた。
忠助 「卵ですから、お気をつけて」
その卵を持って、ふみの友達の佐和の屋敷へ行く。佐和は少し前に女児を生んでいた。楽しそうに語らう、ふみと佐和をみていると、やはり、羨ましい…。
ふみが真之介との顔合わせの時に来ていく着物がなく、それを佐和から借りたことも今は知っているが、それでも、顔の美しい女はやはり幸せになれるのだ…。
そして、ひと月後に母がやって来た。
母 「まあ、これだけとは…」
と、娘の給金の額に渋い顔をしつつも、母はそのほとんどを自分の財布に仕舞い込むのだった。
母 「ああ、それと、近い内に休みをもらえぬか」
弥生 「そんな、休みだなんて…」
母 「そこを何とか。もう、沙月が何もしないのじゃ。疲れてどうしようもな
い。婚礼の準備とか言えばよかろう。こんな安い給金で人をこき使うの
じゃ。少しくらい休んでもバチは当たらぬわ」
中々、休みを言い出せない弥生の前に、一人の娘が息せき切ってやって来た。
これは一体、何だろう、先程までのテンションが、だだ下がりではないか…。
寄りによってこんな時に、もう、怒りさえ込み上げて来る。お里は目の前の女の顔を凝視する。
----ああ、これがお縫が言ってた変な顔の女か…。
弥生 「何か?」
----わっ、口利いてやんの、キモっ。
弥生 「今、お水を」
お里 「い、いえいえ。け、結構です」
----誰が、あんたが汲んで来た水なんか飲むもんですか。汚らしっ。
お里 「あ、あの、旦那様は?」
弥生 「お留守です」
お里 「奥方様は?」
弥生 「お加減が悪くて臥せっておいでです」
お里 「ちゅ、忠助、さんは」
弥生 「旦那様とご一緒に」
----まあ、どいつもこいつも出かけてるだなんて…。
お里 「お咲、ちゃんは」
弥生 「お買い物に」
----こんな時に限って、お咲までも…。
弥生 「でも、もうすぐ帰って来ると思うから、中へどうぞ」
そうだ、折角やって来たのだ。一大事なのだ。せめて、忠助にでも会わねば。いや、忠助は真之介と一緒なのだ。ならば、待つとするか。
お里が台所の隅に座っていると、先程の女が茶と煎餅を出してきた。
----まあ、意外と気が利くじゃない。
弥生 「これしかないけど」
----ああ、残り物。それはそれは。
お咲 「ただいま帰りました、弥生様」
----えっ!弥生!
お咲が帰って来た。
それにしても、なんてこと…。この女が「弥生」と言う名だなんて。あきれ果てて開いた口が塞がらないとは事のことだ。
お咲 「あら、お里さん、でしたっけ」
お里 「そうよ」
----まあ、なんて、こっちは頭が悪いの。顔の悪いのと頭の悪いのとよくもこれだけ揃ったもんだわ。こんなに頭が悪いのなら、私をここで雇ってくれればいいのに。きっと、今頃は後悔してるに違いないわ。
とは言っても、お咲がお里に会ったのは今日で三回目くらい。また、会っただけでろくに話もしていない。何より、お里は隣の女中である。お咲にしてみれば、たまに連れて行ってもらえる本田屋の使用人たちの顔を覚える方が忙しい。
お咲 「何か、ご用ですか」
そうだった。大事な用がって来たのだった。全くもって、この二人のお陰でこっちまで、頭がどうにかなりそうだ。
お里 「旦那様はいつお帰りになるの」
お咲 「それはわかりません。遅くなられる時もありますし」
お里 「困ったわ…」
お咲 「何か?お伝えしておきますけど…」
お咲もだが弥生も、こんな女中が真之介にどんな用があるのか気になる。お里が黙っているので、お咲は買って来たものを所定の場所に置き、弥生と今夜の夕食の話をするのだった。
----もう、早く帰って来てようっ。真ちゃーん!
出来れば真之介本人に伝えたいが、いつまでも長居をしていると、お縫がうるさい。煎餅も食べたことだし、ここはお咲にでも伝えてもらうしかない。
お里 「実は、うちの大旦那が倒れちゃって…」
お咲 「倒れたって、病気?」
----そうに決まってんだろ!もう、頭の回転悪いんだからぁ。
お里 「それで…」
お里はここでハタと気が付く。
お里 「ああ、お咲ちゃん、うちの若旦那のこと、知らないんだ」
お咲 「詳しくは…」
弥生 「それって、白田屋の拮平さんて人のこと?」
----えっ、この女、知ってんの…。
お里 「まあ、そうなんだけど…」
弥生 「それで、大旦那の具合は?」
こうなったら、この女にでも話すしかない。
お里 「それが、あまり、およろしくなくて、そこで…」
弥生 「ああ、うちの旦那様にそのことを知らせて欲しいって訳」
お里 「まあ、そうなんだけど…」
弥生 「わかったわ、旦那様に伝えますから、遅くならないうちに帰った方が」
珍しく弥生が親戚へ使いに行かされた時、帰宅が遅いと言って、母と姉からものすごく叱責されたことがあった。
いくら病気の大旦那のことが心配だからと言って、女中が夕方近くにお店を抜け出しては叱られるだろう。ここは一刻も早く戻った方がいい。
お里 「それじゃ、よろしく」
お里も諦めて帰ることにした。本当は真之介に直に伝えたかった。そして、如何に、自分が拮平思いの娘であるかをアピールするチャンスだったのに…。
門を出てとぼとぼと歩き出すお里だった。
真之介「お里」
その地獄で仏の様な声は、真之介だった。
お里 「あの、旦那様、実はっ」
真之介「また、こんなところで油売りおって。早く帰らねばお縫に雷落とされる
ぞ」
お里 「そんなことより、うちの大旦那が」
真之介「ああ、今しがた、そこで聞いた。明日にでも見舞いに行く」
----そんな、聞いてただなんて…。それじゃ、私の努力は、何なのよっ。
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