第109話 お夏、夏芝居

 お夏は必死で、夢之丞主演の夏芝居「七化けお艶」の夏仕様のアイディアを、お駒に話すのだった。


お夏 「普通、井戸って水があるのに、そこは芝居だから水なくったっていんだけ

   ど。でも、そこは夏芝居だから本物の水入れるの、どうかしら。その中から

   幽霊が、びしょ濡れの幽霊が現れるのなんてどうかしら。いいと思うんだけ

   ど…」


 それは、既に他の芝居でもやっている。


お夏 「だから、ほら、息の長い人に、その幽霊役やってもらうの」

お駒 「息止めが長く出来る人だろ」

お夏 「そう、それ。私、芝居用語ってあまり知らなくて。これからはもっと勉強

   するから…」

 

 別に芝居用語でも何でもないが、お夏にすれば一生懸命考えてのことなのだ。


お夏 「それと、幽霊、いっぱい出すってのどうかしら。もう、これでもかってく

   らい」


 お駒はその場面は井戸ではなくて溜め池にして幽霊を出すつもりにしていた。だが、幽霊をいっぱい出すとお夏が言ったことから、ひらめく。


----そうだ、幽霊いっぱい出して、幕間踊りじゃなく、幽霊に劇中踊りをやらせてみるのいいかも知れない。

お夏 「姉さんっ。もう、さっきから黙ったまんま。何とか言ってよ」

お駒 「うん、悪くはないね。でも、どうせやるんなら、井戸じゃなくて溜め池に

   しようかなって思っててさ」

お夏 「あっ、それいいわね。さすが、姉さん。私のひらめきをそこまで持って行

   くなんて…」


 お夏は鼻を高くしながらも、お駒を持ち上げるのも忘れない。


----どう、私って、冴えてる。すごいわ。

お夏 「ところで、姉さん。夕べ、どうだったの。兄さんとの話し合い。誤解解け

   た?」

お駒 「ああ、あれはさ、いつものことだから。ほら、あんたと清さんが初めて私

   んちへ来た時だって」

お夏 「ここの前の前の、前の家の時だったわね」

 

 お夏が初めて清十郎とお駒の家にやって来た次の日のことだった。二人とも髪結いに行くが、清十郎の方が先に帰って来る。そこへ、市之丞がやって来た。見れば自分の着物を着ている若い男とお駒が茶を飲んでいるではないか。そこで、ひと騒ぎあった。


清十郎「それがよ、俺が髪結い床から帰って、姉さんとここで煎餅飲みながら、茶

   食ってたと思いねぇ」

お夏 「茶は飲んで、煎餅を食うんだろ」

清十郎「そんなとこ、つっこむな!とにかく飲んだり食ったりしてたらな、こちらの

   兄さんが…。まあ、俺がこの通りのいい男なんで、ちょいと誤解しなすった

   と言う訳よ」

----そんなこともあったなあ…。 


 あれから二年。清十郎は中村夢之丞として、役者の道を歩いている。その間にお夏は娘を生むが公に出来る筈もなく、夢之丞とも他人の振りをしなくてはならない。


お夏 「でもさ、男って勝手ね。兄さんなんか、自分は好き勝手やってるくせに、

   姉さんのこととなるとすぐにヤキモチ焼くんだから。聞いたことあるんだけ

   ど、兄さん年増の女とも付き合ってるそうね。それもさ、取り立てて美人で

   もなく、また金持ちの後家でもないんだって。そんなののどこが良くて。姉

   さんの方がずっとずっといいのにさあ」

 

 お駒も市之丞と料理屋で働いている年増女のことを知らない訳でもない。


お夏 「で、あれからどうなったの。まだ、兄さん、グダグダ言って?」

お駒 「ううん、納得したみたい」

お夏 「でも、あんないい着物じゃ、やっぱり、疑いたくもなるか…。で、本当の

   ところ、どうなの?」

お駒 「どうって。まさか、お夏ちゃんまで?」

お夏 「そりゃ、気になるもの」

お駒 「あれは本当に話のついでに言っただけよ。それなのに、私の方が驚いてる

   くらい」

お夏 「でも、いいなぁ。私も着物欲しい…」

 

 夢之丞とのことはともかく、生まれた娘はお夏の妹として母親の許で養育されていると言うのに、目の前のお夏はすっかり自分も娘気分に戻っているようだ。

 その様に振る舞うように言い聞かせたのも確かだが、娘のことなどまるで気にならない、いや、お夏の中ではとっくに、お春は妹、年の離れた妹となっているのだろう。


お駒 「さあ、食後の一服は終わり。掃除と洗濯が待ってるよ。それと、明日から

   の踊りの稽古、準備しときなさいよ」

お夏 「はあい。それで、姉さんは」

お駒 「私ゃ台本の直し」

お夏 「それなら、井戸じゃなかった、池の中から幽霊がたくさん、わあぁって」

 

 自分の部屋に戻ったお駒は衣文掛けにかけてある着物を、改めて鏡の前で羽織って見るのだった。まるで、お駒のためにあるような色であり、柄ではないか。


----でも、やっぱり、嬉しい…。

 

 夕方近くお駒は外出するが、これをお夏が見逃す筈はなく、すぐに後を追う。


お夏 「姉さん、一人でどこ行くの。夜に女が一人、物騒じゃございませんこと」

お駒 「まだ、明るいよ」

お夏 「行きはよいよい、帰りは暗いって。一人より二人の方が」

お駒 「頼りないけど、まあ、いないよりは、居てもいいか」

お夏 「なに、それ。それで、どこ行くの。まっ、聞くだけ野暮か。だからって昨

   日の今日じゃない。それを一人でお行きになるとは、こりゃ、つれないわい

   なあ」

お駒 「違うよ。仕事の話だよ」

お夏 「やっぱり。それなら尚のこと」

----ひょっとして、姉さん。私のひらめきを独り占めするつもりじゃ。

 

 途中で饅頭を買い、着いたところはやはり稽古場だった。当時の芝居は早朝から夕刻までで、役者たちは夜は芝居や踊りの稽古と忙しい。戸を開ければ、稽古中の役者の声が響いて来る。


市之丞「違う、違う、何度言ったらわかるんだ!」


 市之丞も檄を飛ばすが、お駒に気付き休憩だと言えば、それまでの緊張感がどっと崩れて行く。


鶴之丞「これはお夏さんではございませんか」

亀之丞「まあ、お久しぶりです」

お夏 「ご無沙汰してます」

鶴之丞「何ですか、妹さんがお生まれになったそうですね」

亀之丞「それはおめでとうございます」

お夏 「ありがとうございます」

鶴之丞「それで、お夏さんは、今は」

お夏 「はい、姉さんのお手伝いに戻ってまいりました」

----そうよ、私のひらめきが芝居になるんだからさ。

女中 「さあ、お駒姉さんからですよ」

 

 と、饅頭を持った女中に続いて、少年が茶を運んで来る。お夏が茶を受け取るべく立ち上がろうとするが亀之丞に制止される。


亀之丞「お客様はお座りになっててください」

お夏 「そんな、お客様だなんて…」

少年 「どうぞ」

 

 と、少年はお夏の前に茶を出す。


お夏 「あら、初めて見る人ね」

少年 「はい、まだ見習いです」

お夏 「お名前は?」

少年 「まだ、ありません」

お夏 「まあ…」

 

 聞けば、火事で親とはぐれ、腹を空かしてさ迷っているところを、夢之丞たちに助けられたと言う。落ち着いてから、元の家辺りに行って見るも、親の消息も未だに不明で、市之丞に引き取られることとなった。

 そんな話をしていると、女中が萩之丞と荻之丞を呼びに来る。しばらくして、お駒が顔を出せば、すぐにお夏は駆け寄る。


お夏 「それで、姉さん。どんな話になったの。幽霊は?」

お駒 「幽霊に盆踊りでもやらせるかって」

お夏 「あのさ、子供の幽霊もいてもいいんじゃない」

お駒 「そうねえ」

お夏 「あの子、どうかしら。ちょっと踊るくらいなら何とか…」

 

 と、少年の方に顔を向ける。


お駒 「名前は?」

お夏 「春之丞!」

 

 とっさに思い付いた名だった。


お夏 「ちょっといらっしゃい」

 

 と、少年を手招きする。


お夏 「あ、あなたねえ。あなたの名前、春之丞ね。私の妹がお春…。こちら、お

   駒姉さん」

春之丞「よろしくお願いします」

お夏 「姉さん、どうぉ。かわいい顔してるじゃない。さっ、兄さん方にも挨拶す

   るのよ」

春之丞「春之丞です。よろしくお願いします」

 

 新しい役者の誕生に拍手が起こる。


お夏 「あっ、それで、夏之丞と秋之丞、冬之丞は無し、ですからね」

鶴之丞「それが、秋之丞と冬之丞はもういます。さすがに夏之丞は、止めておこう

   となったような訳でして…」

お夏 「あら、そう…。と、とにかく、春之丞をよろしくね」


 いつの間にか、市之丞に萩之丞、荻之丞も来ていた。


市之丞「そう言うことかい」

お夏 「あの、兄さん。すみません、ちょっと出しゃばりまして…」

市之丞「いいってことよ。じゃ、今から劇中踊りやるから。名前呼ばれた者はこっ

   ちへ。夢は今日はもういい」

お夏 「あの、兄さん、春、春之丞も」

市之丞「わかってるよ」

お駒 「お夏ちゃん、帰るよ」

お夏 「はあい」

 

 と、名残惜しそうなお夏だったが、夢之丞が近づいて耳元でささやく。


夢之丞「いやに張り切ってるじゃないか」

お夏 「それは、その…」

夢之丞「と、鶴亀が言ってた」

お夏 「もうぉ!」

----今にわかるんだから。私のすごさが…。

 

 それもだが、自分も明日からの踊りを頑張らなくてはと心に決め、翌日、気持ちも新たに踊りの稽古に出かけて行くお夏だった。

 今までもちゃんとやって来たつもりだが、つい、周りに流されてしまった。今度は同じ轍は踏まない。それでなくともブランクがあるのだ。

 初日と言うこともあり、師匠はお夏に優しく接してくれたが、他の同世代の娘たちには厳しく接していた。それにしても、ここに習いに来ている娘たちの熱心なこと。前のところとは雲泥の差である。

 帰り際にお茶でもと誘って見るが、次の習い事があるとかで、残ったのはお久美と言う娘だけだった。


お久美「あの、あまり、長居、出来ないんです…」

お夏 「あら、私もそうなのよ。だから、ちょっとだけ」

 

 と、茶店に入る。


お夏 「お久美ちゃんは踊り、もう長いの」

お久美「ええ、まあ…」

お夏 「そう、でも、ここの人達、皆熱心ねえ。前のとことは大違いだわ」

お久美「そうですか。お師匠さんが厳しいものですから。これでも私も踊りで身を

   立てたいなあなんて思ったりして…」

お夏 「まあ、すごい…。私も踊りは好きだったんだけど、生まれたところが田舎

   なもので、近くに踊り習えるようなところもなくて。そしたらさ、従姉の姉

   さんが江戸で、ほら、知ってるかしら。中村市之丞と言う役者さん。春亭駒

   若って言う名で戯作物も書いてる人なの。でも、役者と戯作者の二足の草

   鞋って大変でしょ。その、駒若さんの口述筆記やってるのが、その姉さんな

   の。それで、私も江戸に出て、姉さんのお世話するから踊り習わせてもらっ

   てる言う訳」

お久美「そうなんですか。役者さんのことはあまりよくは知らないので…」

 

 お久美は母親が内職をして踊りを習わせて貰っていると言っていた。


お久美「本当にごちそうさまでした。楽しかったです」

お夏 「私も楽しかったわ」

 

 その日はそれで別れた。


お夏 「そうなのよ。みんな熱心なんだから。うかうかしてられないって感じ」

 

 と、夕飯の時にお夏はお駒に話すのだった。


お駒 「良かったじゃない。頑張り甲斐があるってもんだよ」


 その時、玄関に人の声がする。


お福 「兄さんからのお手紙だそうです」

 

 お福が手紙を差し出す。


お駒 「ああ、使いの人に上がってもらって」


 お駒は手紙を持って自分の部屋へ行く。


お夏 「あら、お名前なんだったかしら」

 

 お夏は手紙を持って来た若者に聞く。


秋之丞「秋之丞です」

お夏 「まあ、あなたが秋之丞さん。叔母、姉さんのおっかさんがお秋なの」

秋之丞「そうでしたか」

お夏 「あの、春之丞、ちゃんとやってるかしら」

秋之丞「ええ、幽霊踊りでしごかれてます」

お夏 「そう、よかった。でも、秋之丞さんだって踊り大変でしょ」

秋之丞「はい、何とか踊れるようになりました」

 

 お福が茶と羊羹を持って来る。


お夏 「あの、晩御飯は?よかったら食べてかない」

秋之丞「ありがとうございます。でも、今食べますと、この後、踊れませんので。

   羊羹いただきます」

お夏 「あら、まだ、これから帰って稽古?大変ねえ」


 そんな話をしていると、お駒が手紙と小銭の包みを持って来る。


お駒 「ご苦労だったわね」

秋之丞「これはありがとうございます」

 

 と、秋之丞が帰って行けば、お夏は手紙の内容が気になる。


お夏 「兄さんからの手紙、何だったの」

お駒 「内緒」


 出し物の宣伝は何か面白そうと期待を持たせなければいけないのに、それをお夏はまだ、確定してない段階から周囲に話してしまう。さらに、お夏は今度の子供の幽霊のことで気が大きくなっている。自分のアイディアが採用されたことがうれしくてたまらないのだ。ここはしっかと口止めをしておかなければならない。


お夏 「大丈夫よ、姉さん。私、口が堅くなったから」

お駒 「そう」

お夏 「そうって、それだけ?あっ、やっぱり、信用してないんだ」

お駒 「そう言う訳じゃないけど、まだ、決まったことじゃないから。中途半端で

   伝わると困るんで」

お夏 「ほら、やっぱり。ねえ、誰にも言わないからさぁ、教せーて」

お駒 「だから、それはこれからのことだから。そうだ、ひらめいた。さっ、忘れ

   ないうちに書いとこっと」

----そうだ、ひらめいた、だって…。そう言う私も…。あれっ、ひらめいた…。何か書けそう…。そうだ、幽霊の芝居書けばいいんだ。ひらめいたひらめいた…。

 

 人間だと色々決まりごとがあるが、幽霊なら、それこそ何をやらせても構わない。それなら、自分にだって書けそう。いや、書ける、筈である。


----それには、先ず筆名を考えなくちゃ。お夏と夢之丞だから、夏亭夢若。でも、いくら何でも、これじゃ、単純すぎる…。


 と、捕らぬ狸の皮算用に余念のないお夏だったが、決して自分は、お駒の様に幽霊にはならない。自分の名前で世に出る…。


----いよいよ、女戯作者、誕生!


お福 「お夏さん。何にやにやしてんですか」

お夏 「えっ、別に、にやにやなんかしてないわよ。これでも、すごいこと考えて

   たんだから」

お福 「そうですか。でも、今夜はお夏さんがお米研ぐ番ですよ」

お夏 「あらっ、そうだった?仕方ないな…」

 

 どんないいアイディアも、こうして雑用に邪魔され、かき消されてしまうのだ。だが、米を研ぎながら、お夏はまたもひらめく。


お夏 「姉さん、いいかしら」

 

 と、お駒の部屋へ行き、座り込む。


お夏 「ちょいとひらめいたんだけど、その、米研ぎ幽霊何てどうかしら」

 

 お駒は思わず筆を落としそうになる。


お駒 「あのさ、舞台だよ。舞台で米研いで何が面白いのさ。そんなの誰が見たい

   と思う」

お夏 「駄目かしら…」

お駒 「駄目。子供の幽霊はまあ面白かったけど。夏だからって、何でもかんでも

   幽霊出しゃいいってもんじゃないよ。もう、そんなに躍起にならなくてもい

   いからさ。それより、明日はお茶の稽古よ。もう、寝たら」


 お駒からこうもあっさりと駄目出しを食らっては、自分の部屋へ引き上げるしかない。


----明日からはお茶か…。


 翌日、お夏はお茶の稽古へ出かけて行くが、こちらも真面目そうな人たちばかりだった。初日だから、そう思ったのかもしれないが、あの、お恒やお郁、お節たちの様にガツガツしてないところがいい。

 それにしても、お夏の頭の中はここのところ、芝居の筋ばかりである。


----ああなって、こうなって…。これで、私も戯作者の仲間入り。


 それを考えると夜も眠りたくない。なので、つい、朝寝をしてしまい、いつも、お福に起こされる。別にそれでも構わない。

 そこまでして考えた話の筋をお駒に聞いてもらおうとするのだが、何か、いつもはぐらかされてしまう。


----ひょっとして姉さん、私の才能に嫉妬してる…。


 ならば、この際はっきり言っておこう。


お夏 「姉さん、あの、そのぅ…。私も何か書いてみようかなって思うんだけ

   ど、どうかしら」

お駒 「そう、書いてみれば」

お夏 「いいの…」

お駒 「書きたい人が書きたいように書けばいいだけのこと」

お夏 「それで、書き方なんかをちょっとばかし、教えて欲しいんですけど」 

お駒 「それなら、これ、清書してみてよ」

お夏 「まあ、それは…」

 

 うっかり、お安いご用と言いそうになる。


----危ない危ない。


 いそいそと自分の部屋へ行き、筆を持ったお夏はさらさらと書き写して行くが、すぐにそのスピードは落ちて行く。


お夏 「ああぁ、兄さんが自分で清書するの嫌う筈だわ。人の書いたの写すのって

   ちっとも面白くない。それに、何、この途中の付けたし、字も間違ってる

   し、姉さんでもこう言うことやるのね」

 

 それでも引き受けた以上は最後までやらなければならない。それにしても、筆の進まないこと…。


お夏 「やっぱりね。自分で考えて書いた方が面白いし、楽しいのよ」

 

 これからは、お駒に遠慮せず、自分も何か書こう。そして、来年の夏芝居にはお夏こと、夏亭夢若(仮)の戯作物が板にかかる。主演は夢之丞。

 その頃には夢之丞との結婚話も持ち上がり、かわら版にも取り上げられる。


お夏 「役者と戯作者の恋、なんて…」

 

 そして、やっとの思いで書き写した物を持って行けば、早速に駄目出しされる。


お駒 「ちょいと、ここ、どうして、同じ名前が続くの」

お夏 「それは…。ちょっとした間違いよ」  

お駒 「大きな間違い。台本とはほとんどが台詞なんだから。同じ名前が続くなん

   て単純すぎる間違い」

お夏 「そうだけど…。初めてなんだし、ちょっとくらい…」

お駒 「だから、ちょっとじゃないって」

お夏 「でも、誰にでも間違いはあるじゃない」

お駒 「もう、相変わらず言い訳が多いんだから…」

お夏 「はい、間違えました…」

お駒 「どう、書くってこう言うことだよ」

----でも、自分で考える楽しみもあるじゃない。

お駒 「書くのはいいけど、お茶と踊り、家のこと。手を抜かないこと」

お夏 「は~い」

 

 廊下を小走りして自分の部屋へ戻るお夏だった。


お夏 「さあ、姉さんのお許しも出たことだし、書くわよぉ、私も負けないから」

----きっと、来年の夏芝居には、夏亭夢若(仮)の名前が看板に…。


 と、夢は果てないお夏が今度は自作を書くべく座ったのは、みかん箱に布を掛けただけのものだった。どうしてもお駒とのギャップを感じてしまう。


----私も、姉さんの様な文机が欲しいなあ…。

 

 そのためには、まず、書くことである。


お夏 「ではっ」

 

 と、気合を入れて書き始めるも、すぐに筆は止まる。


お夏 「そうだ、先ずは名前、考えなきゃいけないんだった」

 

 話の筋ばかりに夢中で、肝心の名前が後回しになっていた。


お夏 「ここは…。主役は、やっぱり、清十郎と行きたいけど、そのまんまっての

   もねえ。清、清三郎。とくれば、相手の娘は、お夏は駄目。春秋冬、駒も使

   えない。そうだ、夢之丞によく似た侍の、これまた、私、お夏さん、夏亭夢

   若にこれまたよく似ていると言う真ちゃんの奥方の名前、何だったかしら」

 

 と、名前の思案に暮れるお夏だった。


お夏 「あっ、意地の悪い女の幽霊の名前はお恒、お郁があったじゃない。しめし

   め、そして、手下の様なのはお節。これで決まりはいいけど、肝心の清三郎

   の相手の名前はと」

お福 「お夏さん」

お夏 「なによ」

----もおっ、もう少しで思い浮かびそうだったのに…。

お福 「私、買い物に行ってきますから、洗濯物取り込んどいてくださいね」

お夏 「そんなの、ついでにやっといてよ」

お福 「ご近所のお天気兄さんが夕方から雨だって言ってましたから。早目に買い

   物に行きませんと」

 

 お天気兄さんと言うのは、近くに住む大工のことだが、とにかくよく天気を当てるので評判になっている。道が舗装されてない時代、少し雨が続けば道はすぐにぬかるむ。出来れば雨の降る日は外に出たくない。


お夏 「わかったわよ」

 

 と、渋々立ち上がるが、頭の中は名前のことでいっぱいのお夏だった。それでも洗濯物を取り込み、畳みかけるが、すぐに手が止まってしまう。


お福 「お夏さん、まだ、畳んでないんですか」

お夏 「お福ちゃんこそ、早く買い物に行きなさいよ」  

お福 「もう、行って来ました」

お夏 「えっ、もう。そ、そうなの。だったら畳むの手伝ってよ」

お福 「それくらい、やってください」

----何よ、そんなに冷たいんだっだら、お福と言う名前、何か悪い役に使ってやんだから。

お夏 「そうだ。確か…」

 

 と、真之介の妻の名を思い出しそうになる。


お福 「あら、もう、雨降って来た。やっぱ、あの兄さんすごいわあ」


 と、お福は台所へ駆けて行く。


お夏 「もうっ、何がすごいのよ。お陰でせっかく思い出せそうだった名前、忘れ

   ちゃったじゃないのっ。もう、もうもう、お福の…」

 

 ここで、ハタと気が付く。


お夏 「そうだ、確か、あの奥方の名前も「ふ」が付いてたような…」

 

 お駒の家に夢之丞と二人してやって来た翌日、髪結いに行った。その帰り道、どこかの大店のご新造様のような女から「ふ…様」と呼び止められたのだった。

 それなのに、今は思い出せない。福でないことは確かだ。


お夏 「ふ、ふゆ、ふき、ふさ…。ええぃ、決めた。お房にしようっと」

 

 それにしても、名前を考えるだけのことが、こんなに大変だったとは…。

 だが、こうしてはいられない。早く洗濯物を畳んでしまわなきゃと思った時。


お福 「お夏さん、そろそろご飯炊いてくださいね」

お夏 「すぐ、行くからかまどに火を付けといて」

お福 「駄目です。お夏さん、まだ一人でご飯炊けないじゃないですか」


 そうなのだ。朝晩の米炊きはお夏の仕事となっていた。


お夏 「わかったわよ。ケチ」

 

 それからのお夏は忙しいことこの上ない。お茶も踊りも手は抜けない。家事も覚えることがたくさんある。さらには、戯作物の執筆。だが、こっちはすぐに行き詰ってしまう。


お夏 「ああ、書けない…」 


 こんな時、書けない時、お駒はどうしてるのだろう…。

 ふと、お駒と話してみたくなり立ち上がるも、向かいのお駒の部屋の灯りは消えていた。


----いけない、私も早く寝なくちゃ。


 そして、朝は早くから、お福に起こされる。


----私はあんたと違って、頭も使ってんのよ。もう少し寝かせてくれてもいいじゃない。


 そうなのだ、今日は踊りもお茶も休みなのだ。なのに、こんな日に限って、お駒はゆったりと自分の着物の手入れをしている。


お夏 「姉さん、その、書けない時ってどうしてるの。どうやったら、書けるよう

   になるの」

 

 お駒もお夏が何か書いているらしいことは知っている。


お駒 「書けない時は悩んで悩んで。それでも駄目な時は、散歩に行ったり、こう

   して全然違うことをやったりするの」

お夏 「じゃ、今も書けない時なの」

お駒 「ちょっと、疲れたから、違うことやってんの。それより、あんまり夜遅く

   まで起きてられると困るんだけど。油、また、値上がりしたからさ」


 当時、行燈あんどんの油は高価なものだった。

 行燈が一般的に普及したのは江戸時代である。それまでは火皿と言う石や陶器製の皿に油を入れ、木綿などの灯芯に火を付けたものだった。

 その火皿に、竹、木、金属などで作られた枠に和紙を貼り、風で光源の炎が消えないように作られたのが行燈である。蝋燭ろうそくを使用するものもあったが、当時はこれまた高価であったため、主に菜種油などが使用され、庶民はさらに安価だが、燃やすと煙と異臭を放つ鰯油(魚油)などを使っていた。

 化け猫が行燈の油をなめるという伝説は、肉食の猫が脂肪分を効率よく摂取するために、家人の隙を見て油を舐めていた。その時に後ろ足で立ち上がる姿が障子に大きく映されることから、化け猫の様に見えたのだろう。実際、行燈などの灯りでは、人の影もものすごく大きくなる。

 さらに下層では、暗くなったら寝る。ここから、早く寝れば油代の節約になり。早起きは三文の徳と言う言葉が生まれたようだ。


----本当に、忙しい私…。 


 やっとお夏も物事に真剣に取り組むようになって来た。それでも、つい、今までの怠け癖が頭をもたげることもあるが、少しは真面目になったのだから、良しとすべきだが、肝心の戯作物の方は千々として進まない。


----こんなはずじゃなかった…。


 筋を考えていた時は、それこそ夏の入道雲の様に膨れ上がって来たものだが、いざ書き始めれば、すぐに行き詰ってしまう。

 細かい人物描写はいらない、台詞とト書きだけ。普通の会話を書けばいいだけのこと。これならやれると思った。

 さらに、家事の手抜きは許されない。ご飯は何とか炊けるようになったが、今度は野菜を洗って切ること。難関は葱を刻むこと。切ったつもりがつながっている。茄子は切ってすぐ水にさらさなかったので、黒くなってしまった。さらに、蜆やあさりは洗って砂抜きできるが、今でも生魚には触れない。

 それでも、こんなに努力してるのだ。少しは自由な時間が欲しい。何より、夢之丞に会いたい…。


お夏 「姉さん、今度いつ夢之丞さんに逢えるの」

お駒 「さあ…」

お夏 「そんなこと言わないで。そうだ、あの、差し入れに行きたいんだけど、い

   いかしら」

お駒 「何を差し入れに行くの」


 何と言っても、お夏は世話になってる身。そんなに金はない。


お夏 「そうねえ。おにぎりなんてどうかしら。私、一生懸命握るから」

お駒 「じゃ、そう、おしよ」

お夏 「えっ、いいの」

お駒 「でもさ、おにぎりだけ受け取って帰らされるのがオチだよ。それで、いい

   なら」

お夏 「……」

 

 そして、今夜も白い紙の前で悪戦苦闘する。それでも、まだ、日はある。来年の夏芝居に間に合えばいいのだと、既に新人戯作者気取りのお夏だったが、やっとの思いで書いたものなのに、お駒から即駄目だしされる。


お駒 「芝居ってのはさ、場所と筋と時が一致しなきゃ駄目。これじゃ、全然」

お夏 「そんなあ。でも、幽霊の話なんだから、ちょっとくらい」

お駒 「そのちょっとも駄目」

お夏 「じゃ、来年の夏芝居に間に合うように、今から書き直しますっ」

お駒 「えっ」


 どうやら、お夏は書きさえすれば、上演されると思っているようだ。


お駒 「やれやれ…」






























 









 





  













  








 

  



 








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