第108話 お夏、ひらめく…
お夏 「ごめんください」
お福 「はい」
お夏 「あら、新しい女中さんね。お夏です」
お福 「まあ、お夏さんですか、お福と申します。どうぞ、お上がりください、ご
新造さ~ん」
こちらはお夏が帰って来た。
中村夢之丞こと清十郎とお夏が夫婦して、従姉であるお駒の許に転がり込んで来た。その清十郎がひょんなことから役者の道を歩むことになり、これから売り出す役者に女房がいては都合が悪いと、夢之丞と言う名前と共に市之丞の家に、お夏はお駒の家にと離れ離れになるも、恐れていたことが…。
子が出来てしまったのだ。そこで、母親を呼び、別の場所での出産となる。生まれたのは娘。だが、それも伏せなくてはならない。
お春と名付けられた娘は、お夏の妹として実家で育てられることとなり、身軽になったお夏は再度、再々度、お駒の許に戻って来た。
お駒 「お夏ちゃん、ここまで、よく間違えずに来られたわね」
お夏 「ただいま、戻りました。色々とありがとうございました。これからもお世
話になります。でも、ここ、ちょっと奥まっていて、わかりにくかったけ
ど、意外と日当たりもいいわねぇ」
お駒はまたも引っ越しをしたのだった。元から引っ越し好きではあったが、そろそろ落ち着こうと思っていた矢先に発覚したお夏の妊娠。
やはり、ここは周りから詮索されないうちにと、住んでいたところから反対側の町にそれも少し道の入り組んだところに新しい住まいを構えたのだ。
お夏 「それより、姉さん、私の部屋どこ」
お駒 「呆れた、早速自分の部屋の心配して」
お夏 「そうでした、これは母から」
と言って、手土産を差し出すのだった。その時、お福が茶を運んで来た。お駒は女中までも新しくしていた。
----さすが、姉さん。
と、改めて、お夏は手を付くのだった。
お夏 「姉さん、本当に何から何までありがとうございました。これからは…」
お駒 「そうだ、お福ちゃん。羊羹買って来て」
お福 「まだ、ありますけど」
お駒 「いいえ、このお夏ちゃんが食べるから。私に劣らず好きだからさ」
お福 「はあい」
と、金を受け取ったお福は部屋を出て行く。
お駒 「お夏っちゃん!気を付けな」
お夏 「えっ、でも、姉さん、私は大丈夫よ。いえ、今度こそ、姉さんにきちんと
挨拶するようにって、おっかさんに言われたのよ。そんでもって、ここに来
るまでの道すがら、一生懸命考えて来たのにぃ」
お駒 「それはわかるけどさぁ。お福がいるじゃない」
お夏 「だから、それも考えて、挨拶しようと思ったのに…」
お駒 「その気持ちだけでいいよ。それより、おっかさんとお春はちゃんと帰った
の」
お夏 「帰ったわよ」
お駒 「でもさ、随分と手近かな名前つけたもんじゃない」
お夏 「そりゃ、私がお夏で、おっかさんがお冬でおばさんがお秋とくりゃ、お春
しかないじゃないじゃない。あっ、それと、姉さんの春亭駒若にも
春亭駒若と言うのは、お駒の恋人の役者、中村市之丞の戯作者名だが、その実は書いているのはお駒だった。
お夏 「それとさ、お福ちゃんて、どの程度まで知ってんの」
お駒 「何も知ってやしないよ。私が市之丞の口述筆記やってることくらい。それ
でも、気を付けなくっちゃ」
お夏 「大丈夫です。お春は私の年の離れた妹で、私は姉さんの母方の従妹で踊り
好きの十七歳の娘。夢之丞は姉さんの父方の親戚で、子供の頃に会ったこと
がある。これでいいでしょ」
お夏がお駒の母方の従妹なのは事実であるが、後は嘘混じり。
お駒 「いいけど、嘘をつくなら、それ相応のことやらなきゃ。先ずは踊りとお
茶。今まで以上に身を入れてやるんだよ。それと、これからは私と話をする
ときでも夢之丞さんと、さん付けすること」
お夏 「はい、承知いたしました。でもぅ、そのぅ、私と夢之丞さん、いつになっ
たら…」
お駒 「そりゃ、お夏ちゃん次第」
お夏 「えっ、それなら、私はいつだって。それにさ、ひどいのよ」
と、お夏は声を潜める。
お夏 「あの時だって、一度しか会いに来てくれなかったもの…」
お夏が出産の後、夢之丞が一度しかやって来なかったことを嘆いているのだ。
お駒 「まだ、そんなこと…。あのさ、済んだことは言わないの。もうすべて、無
し無し。いいかい、これから始まるんだよ。役者の女房なりたきゃ、あんた
も少しは芝居しなさい」
お夏 「はい、わかりました。でも、その、夢之丞さんに逢いたいの」
お駒 「近い内に逢わせてあげるからさ。で、今のお夏は」
お夏 「はい、姉さんの従妹で踊り好きの娘です。でも、いずれは…」
お駒 「そう、それを忘れるんじゃないよ」
お夏 「はい、それで、姉さん、私の部屋どこぉ」
お駒 「こっちだよ」
と、お夏は付いて行く。
お夏 「あら、この家、素敵ぃ、うふふふふ」
家は中庭を挟んでコの字型になっていた。その片方がお駒の部屋で、向かいがお夏の部屋だった。ここなら、お夏と夢之丞、お駒と市之丞。互いに気兼ねなく逢瀬を楽しむことが出来ると言うものだ。
お駒 「なに、そのいやらしい笑い」
お夏 「だってえ…」
お駒 「それより、お福ちゃんが帰って来たら、湯に行くからさ」
お夏 「そう、えっ、私の着物や着替えは?」
部屋の中には鏡台に小さな茶箪笥があるだけだった。
お駒 「押し入れの柳行李に入ってるよ」
お夏 「私も箪笥欲しいな」
お駒 「それは、これからのあんたの頑張り次第。それと、明日からは炊事洗濯掃
除もやること。前にも言ったけど、何も出来ない様じゃ、逆に女中に馬鹿に
されるよ。いいかい!」
だが、早速、翌朝お福から起こされるお夏だった。
お福 「お夏さん!起きてくださいよ!もう、ご新造さんから、甘やかすなって言わ
れてんですから!」
お夏 「うーん、まだ、眠いのよぅ」
と、お夏はまたも布団をかぶる。
お福 「お夏さん!ここにお金落ちてますよ!要らないんだったら、私がもらいます」
と、お福は布団から離れる。
お夏 「ええっ!あっ!それ、駄目!絶対駄目!ああっ!」
お夏はガバと起き上がり、お福を取り押さえようと両手を伸ばした拍子に前に倒れそうになる。
お福 「ほら、起きられたじゃないですかぁ」
お夏 「そんなことより、私のお金ぇ」
お福 「嘘です。そんなのありません」
お夏 「騙したのね。年上をからかうもんじゃないわよ」
お福 「お夏さんが起きないからですよ。でも、早起きは三文の徳って言いますか
ら。今日はいいことがありますよ」
お夏 「もうっ」
渋々起きたお夏は顔を洗っても仏頂面で座り込んだままだった。その間にもお福は朝餉の支度をしている。
お駒 「おや、どうしたのさ。何も手伝わないのかい」
お駒が起きて来た。
お福 「いいえ、今朝は起きただけでもいいじゃないですか」
お夏がまだ眠そうな顔を向けるより先に、お福が言った。
お駒 「言われてみりゃ、そうだね。でも、お福ちゃん、この寝太郎をよく起こし
たこと」
お福 「それは簡単でした」
お駒 「それより、今日は踊りとお茶の師匠のところに挨拶に行くんだからさ」
お夏 「えっ、あら、そうだったわ。何着て行こうかしら」
こうなって来ると、お夏の目も覚めると言うものだ。
お夏 「どう、姉さん。これで、おぼこ娘に見えるかしら」
お駒 「おぼこは無理だけど、まあ、いい感じかな。心も同じだといいんだけど」
そして、二人が挨拶回りから戻れば、まさかの「客」がやって来た。
玄関で声がしたと思ったら、お福がお駒を呼びを来る。何事かと出て見れば、そこにいたのは商家の手代と小僧だった。
手代 「本田屋にございます。旦那様よりのお届け物にございます」
----まさか…。
拮平の居場所を突き止め、二人で会いに行った座敷で真之介が拮平に着物を作ってやると言った時、お駒も一枚欲しいと言った。だが、それはほんの冗談である。
お駒 「まあ、わざわざ…」
上がってお茶でもと思ったが、お夏がいる。真之介の妻とお夏がこれまた瓜二つであることを知っているのは、お駒以外では何でも屋とかわら版屋の繁治くらい。お夏は以前真之介から、ふみと見間違えられたことがあるが、この二人はまだ相対していない。
真之介はこのことを、妻のふみに知られたくないのだ。これが町人同士なら、こんな偶然もあるものだと笑っていられるにしても、舅の播馬がお夏をみて発作を起こしたことがあった。その時は事なきを得たが、真之介と婚姻後の、ふみはお夏に劣らず好奇心旺盛とか…。
当の真之介は、侍社会では異端、町人からは既に向こう側の人間と扱われる。そんなどっちつかずの状況の中にいるのに、何たる偶然。似た者夫婦ならぬ、夫婦が似た者同士とは…。
だから、お駒も本田屋とは遠いところへ引っ越し、ふみとお夏が出くわさないようにしているくらいだ。
ここは、本田屋の人間にお夏を会わせる訳には行かない。お駒は羊羹を小僧に持たせ、手代には多めの金を握らせる。
お駒 「まあ、上がってもらえばいいんだけど、今、来客中なの。そこで、お駒が
たいそう喜んでいたと、旦那様や皆様によろしく伝えてくださいな」
手代 「はい。私共もすぐ帰らねば日が暮れますゆえ。本当にありがとうございま
す」
と、手代と小僧が帰れば、お夏が顔を出す。
お夏 「あら、姉さん、着物買ったの」
----危なかった…。
お夏 「いいなあ、ねえ、見せて、見せてよぅ」
お駒 「あっちで」
お夏は逸る心でお駒が畳紙の紐を引くのを見ていた。
お駒 「わあぁ。素敵…。姉さん、早く」
お駒が着物を肩に当てれば、お福が鏡を持って来る。
お夏 「それより、早く着てみてぇ」
と、お夏の方が興奮している。
お夏 「良く似合うわ。姉さん、趣味いいっ!それにこの帯も憎いぃ!」
お駒 「そうねえ…」
お夏 「そうって。ああ、兄さんなのね。羨ましい…。私なんか…」
思えば、もう長い間、夢之丞から何も買ってもらってない。給金が少ないの、忙しいのとはぐらかされてばかりだった。それに引き換え、やっぱり市之丞は何だかんだ言ったところで、お駒を大切にしているではないか…。
お駒 「違うわよ。市之丞が私のために、こんなの買ってくれるもんかい」
お夏 「えっ、じゃ、誰?」
お駒 「いい人」
お夏 「ええっ、姉さん、そんな人いたの」
お駒 「いるわよ」
お夏 「誰よっ。あっ、兄さんには内緒にしとくから、教せーて」
お駒 「こんなにしゃべって、内緒も何もあったもんじゃないよ」
市之丞「それ、誰だい」
市之丞だった。
市之丞「これでも、一応声かけたんだけど。はあ…、これはすごいや…。こんな着
物の前ではさすがに耳も留守になろうって言うもんだな」
お福 「あの、すみませんでした」
と、お福が恐縮してその場を離れるが、お夏は夢之丞がいないのが気になる。それでも、きちんと座りなおして手を付く。
お夏 「まあ、兄さん、この度は色々とお世話になり、ありがとうございます。あ
の、それで…」
市之丞「おや、お夏ちゃんじゃないか。ああ、夢ならもうすぐ来るさ」
お夏 「まあ…」
市之丞「何だい、おぼこ娘みたいに赤くなってさ」
お駒 「お前さんっ」
と、お駒に睨まれ、やっと気が付く市之丞だった。
市之丞「そうだった。俺としたことが…」
それでも、やはり、お駒の着物が気になる。
市之丞「それで、どこの誰から貰ったと?」
お駒 「だから、いい人だよ」
市之丞「何だと、俺にも言えない様な、いい人がいたのかい。ああ、そう言うこと
かい」
お夏 「あの、兄さん、この着物は」
市之丞「ああ、お夏ちゃん、余計な気ぃ使わなくていいさ」
お夏 「そうじゃなくて、あの、本当に違うんですったら」
市之丞「いや、だから、これはお駒との話だからさ」
お夏 「違うんですったら、これは、つい先程、本田屋から届いたんですよ。と言
うことは、あの、夢之丞さんによく似たあのお侍が、姉さんに。それは、
色々世話になったとかで」
実のところ、お夏はその着物が真之介から届いたものであるとの確証があった訳ではない。それでも本田屋からのものであることは確かなのだから、ここは真之介からにしておけば治まると思ってのことだ。
いや、今、お駒と市之丞の仲が険悪になってもらっては困るのだ。お夏には、これから夢之丞との再会が待っている…。
市之丞「それにしちゃ、随分といい着物じゃないか。じゃ、何かい。そう言うこと
なのかい。なあ、お駒さんよ」
お駒 「馬鹿馬鹿しっ」
夢之丞「お取込みのところ、失礼致します」
お夏 「夢之丞さん!」
お夏は夢之丞の側へ行く。
夢之丞「お夏さん。あの、これは、何か…」
お夏 「あっ、それは兄さんが姉さんにヤキモチ焼いて…」
夢之丞「えっ」
市之丞「ヤキモチなんかじゃないさ。ちょいと、夢。見て見なよ、この着物。随分
といいもんじゃないか」
夢之丞「はい…」
市之丞「それがさ、どっかのいい男に貰ったんだとさ、ふん!」
夢之丞「いえ、これは…。ひょっとして、本田様からでは」
畳紙に本田屋と書いてある。
市之丞「じゃ、何かい、お駒。こんな着物貰う程、あの侍と訳ありだったのかい」
お夏 「ええっ!まあ、姉さん、そうだったのぉ」
お駒 「何だね、お夏ちゃんまで。それがさ、話の流れで私も着物が欲しいって
言ったら、いずれそのうちって。そのうちがやって来たって訳」
市之丞「やっぱり、そう言うことか」
お駒 「何さ、ほら、この間の手紙のことやら何やら、これでも、旦那とは因縁の
ある仲なことは、お前さんも知ってのことじゃないか」
市之丞「何だと。あの手紙はさぁ、書いたの俺じゃないか。ははぁ、さては、お
駒。自分が書いたってことにしたんだな」
夢之丞「あの手紙って何ですか」
と、夢之丞が言った時、お福が茶を運んで来た。
お駒 「まあ、座って、茶でも。実はさ」
お駒は仁神安行と芸者蜜花の話をする。
お駒 「それで、私が代筆を頼まれたって訳」
市之丞「厚かましっ!実はさ、その手紙書いたのは、この俺なんだよっ」
夢之丞「えっ…」
これには、夢之丞とお夏は呆気にとられてしまう。
まさか、市之丞が…。いや、夢之丞にしても、市之丞が筆を持ったところなど、ついぞ見たことがない。
お夏 「えっ、でも、姉さん。その手紙一枚が、この着物?いいなあ…」
市之丞「だからさっ」
お駒 「お前さん!その話は後で」
市之丞「そうは問屋が卸さねえ。この際、はっきりしてもらおうじゃないか」
夢之丞「兄さん、それはやっぱり後のことにした方が…」
お福が興味津々で聞いている。
夢之丞「それにこの前、仁神屋敷から帰る時、兄さん、本田様に私供はあまり自由
が利きませんけど、お駒でしたら何かお役に立てることがあろうかとか、
おっしゃってたではありませんか」
市之丞「ああ、言ったさ。けどよ、それは」
夢之丞「それに、あの本田様が人の女に手を出したりしますかね。兄さんだって、
しないでしょ」
市之丞「当たりめぇだ。俺ゃ、人の女、取ったことなんかねえ。言い寄られたこと
はあるがな」
夢之丞「だから。ほら、あちらはお金持ちですから、着物の一枚や二枚、それも仕
入れ値じゃないですか。着物も薬程ではないにしても、結構掛けてるって聞
いてますよ」
ものの売値とは、仕入れ値に利益を上乗せしたものである。昔から薬はその九割が利益と言われている。
市之丞「まあ、それはわかるにしても、ちと…」
お駒 「では、続きは今夜と言うことで。お福ちゃん、酒買ってきとくれ」
お福 「お酒ならあります」
お駒 「じゃ、持ってきて」
しかし、お夏は驚いてしまう。今は誰もその名を呼ぶことのない本名清十郎こと、役者の中村夢之丞だが、しばらく会わないうちに何か違って見える。知り合った頃の清十郎は今時の若者だった。だが、今の夢之丞は違うのだ。何かよくわからないけど、違うのだ…。
そして、早めの夕飯が始まる。お夏も久しぶりに酒を飲んだ。
市之丞「お夏ちゃん、飲みすぎるなよ」
お夏 「大丈夫です」
どうやら、市之丞も夢之丞も今夜は泊りのようだ。久しぶりに、本当に久しぶりに夢之丞と過ごせるのだ。もう、市之丞とお駒のことなどどうでもいい。早く二人きりになりたい…。
そして、夜になった。
お夏 「お前さん、逢いたかった…」
夢之丞「俺も逢いたかった」
お夏 「でも、一度しか逢いに来てくれなかったじゃない」
お夏の出産後、夢之丞が顔を見せたのは一度だけ。それも、短い時間で帰ったではないか。
夢之丞「いやさ、俺な。今すごく忙しんだ。今日だって、特別に兄さんが連れだし
てくれたんだからさ」
お夏 「じゃ、休みなんてのは」
夢之丞「ねぇよ。休みどころかろくに寝てねぇし」
お夏 「だって、もうすぐ夏じゃないの」
夢之丞「だから、余計忙しんだよ。夏芝居が始まるんだ」
夏芝居とは、江戸時代、夏になると主役級の役者ら劇場関係者は地方巡業や休暇(土用休み)をとるのが普通だった。そんな中、寛政年間から、若手俳優による低料金の興行が行われ定着していく。普段は脇役に回る若手や下級の狂言作者にとっては、登竜門となる機会でもあった。
その興行を夏芝居、夏狂言、土用芝居などと言った。
お夏 「それで、何やんの」
夢之丞「七化けお艶」
それは、春亭駒若こと、お駒の当たり狂言だった。
お夏 「でも、それは綾之助さんが」
綾之介とは一座の花形役者であり、その芝居には夢之丞も吹き替えで出ている。
夢之丞「だから、今度は俺がそれをやるんだよ」
お夏 「えっ、お前さん、主役」
夢之丞「そうだよ。だが、あれをそのままやったんじゃ、脳がないってんで、今、
兄さんと姉さんで夏仕様の構想を練ってなさるところだ」
お夏 「夏仕様ねえ…。でも、それまでの間、のんびりできるじゃない」
夢之丞「何がのんびりできるか。毎日、早変わりの稽古だよ」
七化けお艶の名の通り、一人で七役やるのだ。
お夏 「そっかぁ。でもさ、何か、何か…。お前さんとの距離が何か、離れて行き
そうで…」
夢之丞「もうしばらくはこのまんまだ。じゃあな」
お夏 「えっ、なになに、もぉ!?」
お夏は立ち上がった夢之丞の足にすがりつく。
お夏 「いやだいやだよ。もう行っちまうなんて…。いくら何でもひどいじゃない
のさあ」
夢之丞「おい、夜だ。大きな声出すんじゃねえ。隣近所に聞こえらあ」
お夏 「聞こえたって構うもんかい。こうなったら、全部、みんな、すべて…」
夢之丞「それじゃ、俺がどうなってもいいのか」
お夏 「どうもなりゃしないじゃないか。お前さんがせめて後、
れたら、何も言わないけど…」
夢之丞「あのさ、俺一人勝手は出来ねえんだよ。若い連中だって、必死なんだよ」
お夏 「じゃ、私はどうなってもいいのかい」
夢之丞「そう言う訳じゃねえけどよ。今しばらくは」
お夏 「しばらくってどのくらい。ねえ、どのくらいがしばらく何なのさぁ」
夢之丞「そうさな、せめて、夏芝居が終わるまで」
お夏 「もう…」
夢之丞の足から手を離したお夏は泣き出してしまう。
夢之丞「泣くなよ。いつもの明るいお夏さんはどこへ行ったんだい」
お夏 「だって、あんまりじゃないのさ」
夢之丞「だから、夏芝居が終わるまで。この夏芝居を成功させりゃあ、俺も一人前
の役者の仲間入りができるって言う正念場なんだよ。それも、兄さんと姉さ
んの力添えのお陰で、何の後ろ盾も持たねえこの俺がここまでやって来れた
んだ。いや、もっともっと上まで登ってやらあ」
お夏 「そうだね。お前さんが千両役者になれる日を待つわ」
夢之丞「じゃあな」
部屋を出て行く夢之丞の後を追って玄関に行けば、市之丞もいた。
市之丞「名残は尽きねえが、またなっ」
と、市之丞はお夏に手を挙げ、二人して帰って行った。
----えっ、姉さん。見送らないの…。
そして、泣きの涙でやっと眠れば、またも、朝早くからお福に起こされる。だが、目覚めればどうしても思い出してしまう、夕べのこと…。
お夏 「お福ちゃん、あんたにはまだわからないだろうけど、私、本当に悲しい
の…」
悲しいことは事実だが、ここはお福に、お夏と夢之丞が恋仲であることをしっかり印象付けて置くべきだ。
お福 「いくら悲しくても、何もしなくていいってことはないんですから」
----何さ、子供のくせして、わかったようなこと言うんじゃないわよ。
それでも、すべては夢之丞のためと立ち上がり、お福と共に朝餉の支度にとりかかるが、すぐにダメ出しを食らってしまう。
お夏 「あのさ、お福ちゃん。私、これでもいいとこの娘なの。だから、こんなこ
と、あまりやったことがないの。だからさ、もう少しやさしく言ってくれな
い」
お福 「やさしく言ってるつもりですけど」
お夏 「もっと、やさしくっ」
お福 「無理です。この程度普通です。ぼやぼやしてたら、ご飯焦げてしまいます
し、味噌汁だって煮すぎてしまいます」
お夏 「もう、いいわよっ」
また、計ったようにお駒が起きて来る。
お夏 「まあ、姉さん。夕べは遅くまで灯り付いてたじゃないの」
お駒 「でも、朝は決まった時間に起きるようにしてるの」
そして、朝食が終われば、早速にお駒に詰め寄る。
お夏 「姉さん、夏芝居のことなんだけど…。私、これでも、私、考えたんだけ
ど。やっぱり、夏の芝居の定番て幽霊よね。実は、夕べ、夢之丞さんから聞
いたの。今度の夏芝居、夢之丞さんが七化けお艶をやるんだって。それも、
夏仕様でやるそうね。そこで、私も考えたの。やっぱり、幽霊出した方がい
いと思うんだけど…」
お駒はゆったりと茶を飲んでいる。
お夏 「ほら、あの井戸の場面あるじゃない。そこから幽霊出すと言うのはどうか
しら。ううん、只、井戸から幽霊が出たって、そんなの普通じゃない。そこ
で、私もひらめいたの!」
これでも、睡眠時間削って、それなのに早起きもして、ついに、お夏はひらめいたのだ。
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