第五章 届かない言葉
今日も父は遅い。
あの人が出て行ってから、二人の怒鳴り声や、そのあとの泣き声を聞かなくていいのは精神衛生にいい。
だからといって、父と仲良く出来るはずもなく。
あの人が置いて行った、父への不信と怒りが時々顔を出す。
親だから立派なわけではなく。
親子だから分かり合えるわけでもない。
父は、不器用でお金にだらしなく、周りの人を不幸にする。
声を荒げたり、花音に厳しいことは言わない。
いや、言えないのだ。
自分が娘に好かれていないとは微塵も考えない。
子どもは親を好きなものだと決めつけている。
幸せな人だ。
あの人が出て行った時も驚いていた。
すごく怒りながら、悲しんでいた。
自分たちが娘に与えた気持ちについて、まるで考える力を持っていなかった。
それでも時は過ぎ、何もなかったように時間はたった。
当たり前のように生活を続け、悲しくても、腹が立っても、悔しくてもお腹はすいて、朝は来る。
こうやって適当に日々を生きて、友達とバカな話をしていればいまはそれでやりすごせる。
だけど、なぜか捨て鉢な気持ちになると肩のあざが痛い。
いつできたのかわからないけど、高校に入学した夏、友達に言われて気が付いた。
薄い黄色の小さなあざ、普段はまったく忘れてるけど、何かの拍子に「忘れるな。」って言うみたいに存在を誇示する。
それもわずかな痛みを伴って。
今日も無事に一日をやり過ごし、バイト代をもらった。
あの人がいたころは、いつも、バイト代は自分で使わず渡していた。
嬉しそうに受け取って「ありがとう。花音。」という時は、たまにしか見れない優しい母の顔だった。
この頃は、このバイトが、結構気に入っている。
ぬいぐるみの中から見える子どもたちの好奇心いっぱいの笑顔に、忘れようとしている何かを思い出さないように、クマになったりウサギになったり、時にはお姫様になったりもする。
もうすぐ春休みも終わる。
三日月の記憶も薄れ、投げやりな日常にどっぷりつかっていた。
絵本の中に出てくるようなお店でかった、春に似合いの若草色の大きなカバンを肩にかけて、家への道をぼんやり歩いていた。
日は長くなり、ぬくもりが恋しくなる季節も終わりを告げようとしている。
ふと自分の影に、並ぶように伸びた影に気が付いて、振り向く勇気が持てず、気が付くと誰かから逃げるように走っていた。
砂利をひいた小さな裏道を抜け、カバンを胸に抱えて、靴の紐がほどけて転びそうになってもかまわず走った。
『冗談じゃない。
また、三日月が突然現れて、言いたいことだけ言って消えたらたまらない。
私の気持ちをかき乱して、思い出したくもない小さな頃の記憶をよみがえらせる。
何も知らにくせに。』
がたついている横開きの戸に鍵を何度も差し込み、やっと回った。
玄関に入って、開けたガラス戸を乱暴にしめた。
大きな音がして、そのあとしばらく響いていた。
壊れそうな心の悲鳴のように。
ささくれ立った、畳の部屋に座り込んで
「なんでいまどき、畳なのよ。
普通、フローリングでしょ。
そうか。
うち普通じゃなかった。
だから私いつも一人でご飯食べてるんだ。
ずっと、留守番ばかり。」
ほほは濡れてるけど、笑えてきた。
花音は思い出した。
布団のなかに、小さな化粧用の剃刀を持ち込んで、これで切ったら…もう、けんか見なくていいかな。
頭まで布団をかぶり、剃刀を当てた。
でも、動かせなかった。
「そう、それは君が、八歳の冬。」と声がした。
意地でも顔をみないように、畳を見つめたまま、花音は、その声を聞いた。
「悲しい冬だ。」
「はい。なに、その短いまとめかた。
しかもなんで人の家に勝手に入っているのよ。
今日も突然現れて、また、てきとうに消えるんでしょ。」
「そうだ。ずっといることは出来ない。」
「いやいや、そっちじゃなくて。
ずっといてほしいって誰が言った。」
「いま、ひとりで留守番はいやだ。」と花音が言っていたような気がするが
と声を出して笑った。
その笑い声は、この世は楽しいことばかりだとでもいうように、軽やかで優しい。
その声につられて、花音は顔をあげた。
そこには、この前よりは、ましな三日月。
下弦と上弦が、少しでも好感を持ってもらえるようにと、花音の日常を細かに観察してそろえた服を着た三日月がいた。
あまりに、感じが違うので、戸惑う花音だった。
その反応に、気をよくした三日月は自信たっぷりに言った。
「少し慣れれば、今どきの服は軽くて、動きやすい。
いい時代だ。
誰もが、身分を決められることなく、どんな服を着てもとがめられることもない。
花音は自由な良き時代に生きている。
花音は幸せは時間の中にいる。」
「自由な良き時代って。
いつと比べてるのか知らないけど。
無理やり幸せ押し付けないで。」
あきれたような顔をして、睨みつけるように三日月をみながら
「私のこと全部知ってるんでしょ。
だったらよくそんな言葉言えるわね。
その…し・ あ・ わ ・せ ・っていう言葉。」
すると三日月は、パントマイムでもするように、目を大きく開いて、両手を広げどうしようもないというように、悲しそうに花音を見た。
大きく開いた目の中には、星が輝いていた。
深いすこまれそうな蒼の中に光る星が無数に輝いていた。
花音が顔をそらさなければ、きっと見えたはずだ。
「花音は、何も見ようとしないのだな。
ただ自分の、怒りや悲しみに浸って、不幸な少女を、たんのうして生きるのか。
今を嘆いて、何も感じないふりをして、ただやり過ごすのか。」
「私の考えてることわかるんだから、今どう思っているかわかるでしょ。
いちいち聞かないで。」ととげのある声で言った。
音のない時間が流れた。
花音は、広い世界に二人しかいないような気がした。
体を包むような光の帯に思わず、幼いころ父や母と見た蛍を思い出した。
川のせせらぎが聞こえ、父に抱っこされた花音は、楽しんでいた蛍の乱舞を突然怖がって泣き出した。
あまりの多くの蛍の光に、このままどこかに連れていかれそうな気がした。
大きな無骨な手が、花音の頭を撫でていた。
近くにいた母が「大丈夫、お父さんもお母さんもいるのに。」
と笑ってうちわで扇いでくれた。
沈黙を破ったのは三日月。
「怒りに満ちた心は見えない。
花音、覚えておいてほしい。
悲しみや苦しみで人の心は濁ったりしない。
ただ、怒りや憎しみは心をくもらせ、濁ってしまう。」
そう言った瞬間、三日月の体はまた形をなくしたようにぼやけて消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます