第四章 のぞみ

下弦たちは、姿が見えるようになる直前に帰った。

あと少し遅ければ花音に見つかってしまったかもしれない。

太陽の光が、わずかでも残っている間は姿は見えない。

曙の光でさえ下弦たちを透明にする。

ここにいないものにする。

そういう意味では、クマの中の花音も似たようなものだ。

三日月のもとに帰るとやはり、質問された。

「今までどこに。いや分かっているからいい。何か報告することはないのか。」

と三日月はぶっきらぼうに聞いた。

「べつに何も。ただ、花音ちゃんが過去に苦しんでいました。」と上弦は答えた。

「それはどうかな。乗り越えるためには、見つめることも大切だ。

目を閉じて耳をふさいでも、起こったことは変えられない。」

そして、ニヤッと笑うと

「ところで、今日の私の服装は、どこか変だったか。妙に道行く人が見ていた気がした。

いや、私があまりにクールだから見ていたのかもしれないが、一応二人の意見を聞いてみたくて。

正直に言ってくれ。」

「変でした。」と下弦と上弦の声がハモっていた。

一瞬、まばたきしたように見えた三日月の目は、怪しく光った。

「そうか、次はもう少しましな服で行かないと、花音に迷惑がかかるかもしれない。

どんな格好がいいのかリサーチを頼む。」

「心得ました。」と上弦は答えながら、三日月は、また花音に会うつもりなのだと知った。


見えない姿を、見えるものにするには三日月でさえすごく力を使う。

だから長くそのまま居る事は出来ないのだ。

幾夜も蓄えた力を、体にかたちを与えるためにだけすべて使う。

下弦たちには出来ないことだ。

下弦たちは、花音の肩の触れるだけで、蓄えた力はかなり消える。

「ひとつ教えてもらえますか。」と下弦が言った。

どうぞとでもいうように、しっかり下弦の顔を見据えた。

その瞳に、おそれをなして言葉に詰まりながら言った。

「どうして、花音ちゃんなのですか。

よほど、いいものが彼女の中にあるのですか。

まだ、幼気な17歳、どうしてしるしをつけられたのか不思議です。」

「なにも。」と三日月は思いっきりのびをした。

「えっ。」上弦が思わず言った。

下弦は三日月のそのしぐさが照れ隠しだと知っている。

だから、だまって次の言葉を待った。

「まあ、しいていえば…」と言ったきり、三日月は光る手を見つめていた。

「しいていえば。」と上弦は繰り返した。

「花音は、無理を言ったことがない幼子だった。

七歳の夜、花音は、秋の空をじっと見て、思いっきり手を伸ばした。

空に浮かんでいる、三日月に向かって。

届かないとか、無理とかの邪念なく、ただ三日月を欲した。

その小さな手は、輝く三日月に触れようと真っ直ぐ伸ばされていた。

何も欲しがらなかった花音が、初めて願ったものそれが三日月。

私はただ、嬉しかった。

そして、花音を選んだ。」

「それだけで…」と上弦は腑に落ちないと首をかしげた。

「大切なことだ。」三日月は静かにしかし強い意志を込めて言った。

「望むことがですか。」

「さすが、下弦。

望まなければ手に入ることはない。

諦めから何も生まれない。

花音は七歳で、遠く高きものを望んだ。

手に入ると疑いもせず。

それこそが、花音の隠れし力。」

「でも、力を得るためには、試練もまた必要ですが…」

「上弦は優しいな。

だが、花音は、私が選ばなくとも、もう試練の中にいた。

人は優しさだけで育つことはできない。

やさしい言葉は心地よい。

優しい環境も心地よい。

心地よさは人を駄目にする何よりの要素でもあるのだ。

私の友達だったルソーはよく言っていた。

『子どもを不幸にするいちばん確実な方法はなにか……それはいつでも何でも手に入れられるようにしてやることだ。』とね。」

「ルソーってたしか18世紀の人じゃなかったですか。」と言った上弦の言葉もさらっとかわし

「長く生きていると、博識になる。みんな先に消えてしまうが、それはまた別のことだ。」と答えると背を向けてその場から去った。


花音は、三日月に会った日から三回着ぐるみのバイトをした。

バイトが終わって、外に出る時は、いつもあたりをきょろきょろしてしまう。

誰にも、話しかけられたくないような気持ちと、話しかけてくれる人を、探しているような気持ちが入り混じる。

全く矛盾した気持ち。

そしてあの公園の前を通ると、すわり心地の良い丸太のベンチでお昼を食べたりする。

三日月のせいで、あれからよく小さな頃を思い出す。

小さな頃を思い出すたび、三日月という人は、花音の中で『三日月』と呼び捨てになり、ずっと以前から知っているような気持ちになった。

今まで、閉じ込めていた思いが、自分でも抑えきれなくて、涙が止まらない夜もある。

そんな日は、妙に月が輝く夜だったりして、月夜が嫌いになりそうだ。

三日月に会ったせいで、気持ちが乱れる。

忘れようとしても、あまりに美味しかったクロワッサンの食感が、あれは夢じゃないと教える。


悶々と歩きながら自転車を押していると、クラスメートの貴志に会った。

貴志は、まるで女友達のように気安い。

いやそれ以上に何でも話せる。

だから、花音の家の事情も全部知ってる。

とりつくろわなくていい相手は気が楽だ。

「よう、久しぶり。

買い物に行くのか。

おれも買いたいものあるから一緒に行くわ。」

何のためらいもなく、並んで歩きだした。

「なんだよ。

うかない顔して、またなにかあったのか。」

「別に。」

短く答えて、無言で歩いた。

どうしてだか、三日月の事は誰にも話したくない。

貴志は、花音の事をよくわかっていた。

花音の母が出ていいたこと知った時

「同情はいらない。

慰めの言葉もいらない。

ただいつものように友達でいて。

出来ないなら、話しかけないで。」

そう言った花音の強がりを、ふんわり受け止めた。

スーパーにつくと、

「じゃな。おれポテトチップス買うだけだから。

またな。」と離れていった。

花音は、貴志の優しさに救われている。

まだ母がいたころも、

「いつも留守番でさびしかった。」と話したら

「でもさ、花音のおばちゃんは仕事で家に居ないんだろう。

俺のお袋は、外で友達と遊んで家に居ないんだぜ。

まだ救があるだろう。

俺なんて、お袋がいなくて寂しいってことも感じない。

こっちがよっぽど問題じゃん。」

「たしかに。」と声を合わせて笑った。









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