第三章 過去を見つめて
「ごちそうさま。」
美味しいものを食べると人は笑顔になる。
「あの、名前と私のこと確かによく知ってることはわかった。でもどうして。」
お腹が満足したら、心もほっこりして、どうでもいい事聞く感じで質問した。
「うーん。話すと長いし、今日はこのぐらいで帰る。」
「そんな。勝手に現われて、疑問だけ残して消えるなんて許さない。それじゃまるであの人といっしょじゃない。許さない!」
「お母さんのことあの人はよくないね。次までに、小さな頃の事思い出しといて。」
と言うと三日月は唐突に立ち上がり、ことば通り消えた。
花音には、消えたというより、周りの景色に馴染んでいなくなったように見えた。
まるで、夢を見ていたようだ。
でも、クロワッサンがお美味しかったことは夢じゃない。
まさか私に、どこかのマジシャンがクロワッサンを届けるために…そんな訳ないか。
この事態が呑み込めなくて、とりあえずなかったことにしようと決めた。
『あーあ。なんだかわけのわからない日だった。きっと疲れてるんだ。今日は思いのほか暑かったし、ぬいぐるみが重かった。とにかく早く忘れよう。』
二人の様子をじっと見つめていた下弦と上弦はあわてた。
三日月のあとを追うほうがいいのか、花音が無事に家に帰るまで見届ける方がいいのか指示を受けてなかった。
ここは、動揺している花音が心配なので後者を選ぶことにした。
『これぐらいの選択権は僕らにもあるはずだ。』上弦は思った。
「よかったね。ベンチ花音ちゃん気に入ってくれて。
昨日の夜汗かいたかいあったわ。
白樺切り出して運ぶの大変だったよ。
まだ手が痛くて、光が弱いよ。」と下弦が満足そうにささやいた。
でも、僕たちの姿は見えないんだと思うと、少しさびしかった。
花音は無事に家に帰りつき、お風呂にお湯を入れ始めた。
今日は、スパゲティーとサラダにするようだ。
お昼のことは極力記憶からなくそうと努力している。
二人にはその気持ちはよくわかった。
「僕たち三日月様に頼まれて、よく代わりに花音ちゃんの事見てたね。
ほんと、見てるだけで、何一つ力になれなかった。」と下弦が言った。
「そう、あの時も。
まだ、四つぐらいの花音ちゃん。
お腹痛くて泣いていた。
貧乏だったね、花音ちゃんの家。」上弦も思い出していた。
花音ちゃんのお母さん、仕方ないから、近くの医者に連れて行って、ただの腹痛だってことで安心してた。
でも、「あんたが痛いっていうから行ったけど、お金、又使ったじゃない。いいかげんにしてよね。」って、ぷりぷりしながら花音ちゃんを引きずるように連れて帰ってた。
「それからは二度と、花音ちゃん、お腹痛いって言わなくなった。」下弦もその時の花音の姿を思い出した。
冬なのに、薄いセーターとオーバー、マフラーも手袋もなかった。
だけど、お母さんに引きずられるようにしながらも、花音はしっかり手つないで、怒っている母親の顔をなんだかうれしそうに見ていた。
「花音ちゃん、いつもお母さんにひどいこと言われながらも、お母さんのこと大好きだったね。」
「子どもは、誰でも母親が大好きさ。
小さな心一杯にあふれそうな愛を持ってる。
親の心、子知らずって言うけど。きっと反対だよ。」上弦は難しい顔で言った。
花音は、お風呂にお湯を入れながら、思い出すまいとするほど、今日の出来事が頭を巡っていた。
そしてだんだん腹が立ってきた。
突然現れた変な三日月とかいう人に、こんなに心乱されている自分に腹が立った。
感情は使わないと決めた。
何があっても、何がなくても、ただ毎日を淡々と過ごしていつか死ぬ。
それでいい。
あの人が出て行ったときそう決めたのだ。
テストの最終日、家に帰ると母の荷物が消えていた。
薄っぺらな窓から差し込む光が、部屋をいつもより広く見せていた。
いや、荷物と母が消えた部屋はただの空間。
それはもう家でさえないのかもしれない。
映画の終わった場所に、一人取り残されているようないたたまれない気持ちと、乾いた感情その記憶しかなくて、そのあとどうしたのかは覚えていない。
うすうすは感じていたけど、私はもう高校一年生だった。
私に伝える言葉もなかったのか。
母は言葉さえ残さず、未練もないように去って行った。
両親の仲は最悪で、喧嘩はすざましかった。
小さな頃から慣れていたけど、物事がわかるようになってからのほうが辛かった。
母は、仕事がない時は私のそばで、父の悪口をまき散らす。
それでも、大好きだった母が、月に二回ぐらい家に居てくれる日は嬉しくて、中学の頃は、部活も休んで家に帰った。
遠くから、見える家の二階で母が布団をポンポン叩いているのが見えると『お母さんが今日は家に居る。』胸が弾んだ。
大した家具も何もない小さな家だった。
窓を開けると、隣の家の窓までが手を伸ばせば届くぐらいで、音はいつもよく聞こえた。
だけどベランダだけは、南に面していた。
太陽の溢れる場所、笑顔と一緒に手を振ってくれた母。
いつも、母は働いていた。
時々、母の仕事の都合で、私は叔母の家にいった。
近くに住んでいたのだ。
叔母の家も裕福ではなかったが、よくしてくれたと思っていた。
人は、自分の子がかわいいから仕方ない。
叔母が私に用意してくれていたのは、いつも前日の残りものだと知ったのはずいぶん後になってからだ。
「花音ちゃんは、こっちのテーブルのほうが食べやすいから、ここで食べてね。」と優しい笑顔とほんの少しの悪意もいっしょに混ぜて出していた。
三日月の言葉のせいか、思い出すつもりがないのに鮮明に記憶がよみがえる。
小学校二年生の頃、長崎の田舎から父方の祖母が私より四つ違いのいとこを連れて遊びに来た。
祖母は優しい、人だったけれど、いとこはその母親に似て意地悪だった。
私の大切にしていた、たった一つの人形を、自分のものみたいにいじりまわり、ひどいことをしたりしていた。
私は人形を一つだけしかもっていなかった。
私はその人形を、返してほしくて、珍しく声をあげて泣いた。
ずっと泣いていた。
でも。母も祖母も私に人形を返すようにいとこに言ってはくれなかった。
その従妹は、私の泣き声も悲しみも全く意に反さず、平気でむしろ楽しそうに遊んでいた。
父の兄の子、伯父はいい人の部類に入るだろうが、いつもお金を借りに来る父を迷惑がっていた。
当たり前だ。
私でもそう思うだろう。
そして家族ごと、見下していた。
だから、私の名前を呼ばず「昭の子」と呼んでいた。
父の名が昭だからだ。
そう呼ばれるたびに、「お前には価値がない。」と言われているようで悲しく思ったことを覚えている。
いとこたちと、遊園地に行っても、私は乗り物には乗らない。
アイスクリームも食べない。
「今日はお腹が痛いと言いなさい。」と母が言うのだ。
そして私は、いとこたちが楽しそうに遊ぶ姿を眺めるだけだった。
父はもちろん、ほかの父親みたいにそばにはいない。
下弦は見かねて、指を肩に触れた。
「痛い。」と鋭く叫んで、花音は走馬灯のような記憶の波から逃れた。
「三日月様には内緒だよ。」と下弦は目くばせした。
「もう少し遅ければ、僕が同じことをしていたよ。」
花音がお風呂に入ったのを見届けて、二人は消えた。
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