第二章 思い出
「そうか。君にはわからによね。仕方ない。ぜんぶ知ってるよ。」
その人はまたわからないことを言い始めた。
「どうでもいいけど、ここで話すとかなり目立つんで。
どうしても言いたい事があるなら、場所変えてもらえますか。」
と突き放した声で答えた。
やっぱり、かなり変だわ。大体、今日初めて会ったのに、全部知ってるって。
ストーカーですって白状してるよなものだし。
それにしては、まるでいいことして、自慢してるみたいに堂々としてる。
私の知らない、親戚の人かな。
どんな親戚がいても、驚かないわ。
幼いころの苦い思い出を、無理やり閉じ込めた。
そして、いつも落ち着きたい時にする励ましのおまじないする。
目を閉じて、ゆっくり開けた。
目の前で、その人は、花音の大好きなものを紙袋から取り出した。
「答えはこれ、わかるよね。」
「クロワッサン。」
お昼を食べ損ねていたこともあって、クロワッサンを見たとき、お腹が小さな音を立てた。
そのクロワッサンは今まで見た中で、一番おいしそうだった。
薄い、クリーム色の紙の上に乗っているクロワッサン。
きれいな形、しかもまるで今焼きましたとでもいうようにほのかにバター香りが漂ってきた。
いつかテレビで見た外国のパン屋さんのクロワッサン。
生地を伸ばして、バターをこねて、又のばして、バターを入れて、丁寧に重ねられた小さな三日月のかたち、外はさっくり、中はバターでしっとり。
どうせ私には一生縁がないだろう遠い国のパン屋さん。
クロワッサンの香りが、幸せな気持ちを運んできた。
その人は、何も気が付かないふりをして言った。
「惜しーい。あってるけど、正確には違う。
どうしても思い出してくれないようだから仕方ないか。
私の名前は三日月と申します。」
その答えに『いつの時代の人よ。』と突っ込みたかった。
でも、礼儀正しく背筋を伸ばし、軽く優雅に、まるで、この間見た映画の中の騎士のように名前を言ったその人にただ頷いていた。
「私は、はなね。」
「知ってるよ。」
それから、さっきまで熊だった私と、今でも仕事中のような三日月と名乗った人と芽吹き始めた木々が春を伝える道を歩いた。
その間中、三日月は、クロワッサンを大切そうに手のひらに、乗せているから、空腹感が花音を悩ました。
隣からのクロワッサンの香りと、木々の若葉、そして、静かに横を歩くまだ見知らぬ人。
空は晴れていて、風はさわやかで、すれ違う人は不思議そうに二人を見ては、笑ったり、振り返ったりする人もいるけど、花音は全く気にならなかった。
東京では、緑が多い。
人も多い。
そして、無関心が幅を利かしている。
通学途中の朝は、駅から人が途切れることなくあふれ出る。
製造工場から、絶え間なく出荷される荷物のような改札口の人並みは、時々気持ち悪くなる。
ブランコのある公園についた。
色とりどりの花が咲く、今どき珍しく小さな煉瓦で囲まれた花壇の前に、ベンチがあった。
ちょうど三日月と名乗ったこの人の雰囲気にピッタリのベンチだ。
まるで、注文して作られたよう。
座るところは細い丸太で作られているし。
背もたれには細工が施してあって、緩やかに丸い。
座ると包み込むように安心感がある。
こんなベンチ、前来た時、なかった気がする。
花音はベンチがとても気に入った。
よく整備されている公園で、ブランコや滑り台の下には、転んでも落ちても大丈夫なようにコルクが敷き詰められている。
危ないものをなくすのじゃなくて、工夫して守る。
きっとこの公園を愛している人たちがたくさんいるからだ。
ブランコはどんどん公園から消えている。
落ちたら危ないとか、管理が大変とか、ただ大人の都合で、子どもたちから遊びを奪っている。
ブランコが小さなころから好きな花音は、消えていくブランコがが悲しくて、公園にブランコの姿を見つけるとホッとする。
「小さな頃、よくブランコに乗ってたよね。
思いっきりこいで、足を大きく伸ばしたり、曲げたりして。
もっと高く、もっと遠くに行きたいって、いつも頭をそらし空を仰いでた。」
「まるで見てたように、適当に話し作らないで。」
むっとして、花音は言った。
だけど、ほんとのことだと思った。
「逆上がり出来るようになってよかった。
私も嬉しかった。
毎日友達と、暗くなるまで練習していたね。
あれは、君が10歳の頃。」
ふとそのころのことを思い出した。
季節はいつの頃か忘れた。
私は、手に豆を作って、毎日練習した。
友達は、鉄棒が得意で、続けて何回もまわれるし、逆上がりも簡単にこなした。
名前は、恭子ちゃん、だったかな。
髪が長くて、小柄で、運動神経抜群の女の子。
『逆上がり教えてあげるから、親友になろう。」
恭子ちゃんの提案だった。
だけど親友になれたかどうか覚えていない。
『恭子ちゃんのお蔭で、私、逆上がり出来るようになったんだ。』
恭子ちゃんのお母さんは、よく鉄棒のところまで迎えに来てた。
「御飯よ。もう遅いのにいつまで鉄棒してるの。」
そう言って、恭子ちゃんと手をつないで歩きす。
「花音ちゃんも早く帰りなさいね。」と振り返った。
二人の後姿を、見続ける勇気がなくて、また鉄棒を続けた。
母は迎えに来たりしない。
「仕方ないよ。働いていたんだから。」と三日月が言った。
「わかってるわよ。そんなこと。だから困らせたことなんて一度もないわ。」
その自分の声に、ふと現実に戻った。
花音は、三日月の声に素直に反応していた。
「食べる。」
目の前に差し出されたクロワッサン、時間がたっているのに、ほのかに香ってる。
かっこよく、断りたかったけど、出来なかった。
目の前に、美味しそうな食べて下さいと言わんばかりのクロワッサン。
他のものならまだしも、これには我慢できなかった。
「いただきます。」
その時、初めて、差し出された手には、手袋をしていることに気が付いた。
クロワッサンを、オレンジジュースと一緒に受け取った。
話す言葉が見つからなくて、聞きたいことは山ほどあったけど、黙々と食べた。
隣の三日月は、ただ嬉しそうに私の食べる姿を眺めていた。
まるで、孫の顔を眺める祖父のように、遠い時間を懐かしむように。
いったいこの人、幾つなんだ。
でも背中も曲がってないし、かなり整った顔。
とにかく今は、このクロワッサンをかみしめて食べよう。
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