「隠形」

 青空に輝く雲が眩しい。

 公彦は底なしの空を見上げて目を細めた。

 東西を校舎、北を渡り廊下に囲まれた中庭は、五月も近い今ならば色彩豊かである。校舎に沿っては常緑樹、中ほどには花壇が並べられ、同時にベンチも据え付けられている。

 色とりどりに咲き誇る花たちがその姿と甘い香りで誘うせいか、昼休みに弁当を食べに中庭へ出る生徒の姿はいつもより多かった。

 公彦は弁当を食べに来たわけではない。いい陽気にふらふらと出て来ただけである。

 日光は心地好いし空気も澄んでいる気はする。

 しかしクラスメイトや恋人と昼食を摂っているのであろうベンチに近づくわけにもいかず、うろうろと中庭を彷徨う破目になった。

 なんとも居たたまれない。正直、出て来てしまったことを早々に後悔し、なんとか格好だけ付けて校舎内に帰ろうとしたときだった。

 南東に据えられたベンチ。誰かが身体を横たえているのに気付いた。それまでは花壇越しで無人に見えていたのだ。

 調子が悪そう、という風には見えない。穏やかな寝顔で安らかな寝息を立てている。

 女子だ。学年章からすると一年生。

 見知らぬ女の子の寝顔を眺めているなどあまり褒められたことではないと承知していたはずなのだが、不覚にも魅入られて視線を外せなかった。

 可憐なのだ。髪は活動的に短く切られているし、一応はまだ春だというのにうっすらと日焼けしてもいるが、そんなことを忘れさせるほど令嬢めいて繊細に整った横顔。瑞々しく色づいたくちびるはほんの少しだけ開き、無垢な眠りの吐息を大気に溶かす。

 日焼けしている、と分かるのは制服の襟からちらりと覗く肩が驚くほど白いからだ。

 不意に罪悪感に襲われて周囲を見回す。

 こちらを見ている者は誰もいない。大丈夫だ。

 ほっと一息ついて視線を戻すと、少女が身じろぎした。眉根を寄せ、すぐにうっすらと目を明ける。

 公彦はまたもうろたえた。何をしているのかと問われたら、きまりが悪いなどというものではない。しかし逃げても既に顔を見られている以上はいつかは見つかるに違いない。

 その間にも少女は眩しそうに目をしばたたかせ、その美貌にぼんやりとした表情を浮かべて身を起こした。

 正面から見ると、今までの印象が一層強くなる。瞳に意識が徹ってゆくほどに鮮烈に引き締まってゆく。

 そして彼女はそのくちびるを開いた。

「俺に何の用なんだよ?」

「あ、いや…………え?」

 言い訳をしようとして、公彦は違和感に言葉を詰まらせた。

 口調が容貌とちぐはぐだった。まさか大雑把な印象の男言葉が出てくるとは思ってもみなかったのだ。

 が、違和感はすぐに薄れた。

「昼寝邪魔したんだから、用があるんじゃないのかよ?」

 何言ってんだあんた、とばかりに浮かべた苦笑は不思議と快活で、まるでやんちゃな少年のようで、なるほどと妙に納得してしまった。

「……男ちゃうよな?」

 どこからどう見ても女にしか見えないものの、念のためですらなく反射的に尋ねれば、返って来たのは当然のように否定だ。

「女だよ。ついでに言っとくと、男になりたいわけでもねえよ」

 豪快に大あくびをして、慣れ切った口調で答える。おそらくは昔から同じことを訊かれ続けて来たのだろう。

「それで、用事は? 果たし合いとかならいつでも受け付けてるぜ?」

「……なんで果たし合い申し込まなあかんの」

「理由は、まあ……適当でいいんじゃねえの?」

 冗談なのかと思いきや存外に真顔でそんなことを言う。なんとも変わった子だと思った。

 ともあれ、このまま立ち去れば寝顔を見ていたことは誤魔化せる気がする。

 表情が引き攣ってはいないだろうか、目が泳いではいないだろうか。これ以上不審に思われる前に距離さえとってしまえば。

「じゃあな、風邪引くなよ?」

 言い残して立ち去ろうとしたときだった。

『喧嘩だ!』

 昇降口の方で誰かが叫ぶ声がした。

「喧嘩なら俺も混ぜろ!」

 くわっと目を見開き、少女が獲物を追う肉食獣の如くに飛び出した。

 置いて行かれた公彦は、誤魔化す必要もなくなったことに安堵しながらも、何とも不思議な気分で少女の背を見送る。

「……何なんだ、ありゃ」








 学校内において殴り合いの喧嘩というものは、起こったとしてもすぐ終わる。

 なにせ顔見知りが多い。クラスメイトや教師など、即座に止めるべく行動する人間が多いのだ。あるいは、周りにいなくともすぐに呼ばれて来る。

 決着がつくまでやり遂げようとすれば、人目のないところを選ぶしかない。

 若葉が昇降口前に辿り着く頃には既に、野次馬の残りが興奮気味に様子を語り合っているだけだった。

「どうせこんなオチだろうとは思ったよ……」

 見るからに肩を落とし、呟く。

 喧嘩に混ぜろとは言ったものの、本当に人を殴りに来たわけではない。強い奴を探したいのである。下手な鉄砲数撃ちゃ当たるとばかりに喧嘩の現場に駆けつけてみるものの、まともに間に合ったためしはない。

 間に合ったとしてもほとんど無駄になる、とは姉妹たちにも言われている。あとは、何らかの格闘技を身につけている者を探した方がまだ建設的だとも。

 だが違うのだ。若葉自身にも上手く言い表すことができないが、根本的なところで何かが違う。

 よく分からない衝動が、喧嘩の現場へと走らせるのである。

「やれやれ」

 溜め息一つ。これ以上ここにいても仕方がない、と若葉がそのまま校舎内へ上がろうとしたときだった。

 ゆるやかに流れた風の中に、微かな血の匂い。

 若葉はぴたりと足を止めた。

 確かに微かではあるが、これは僅かに滲み出たような血ではない。若葉の五感が鋭いとはいえ、獣並みというわけでもないのだ。匂いを感じ取れるからには、それなりの出血であるはずだ。無論のこと、距離は近いだろう。

 そして、混じり気のない純粋な血の香だと思った。生々しく、今も溢れているような。

 昇降口の近くには駐輪場しかない。術か何かで姿を隠しているのだろう。

「……紅葉がいてくれたら一発なのに……」

 数ヶ月前までは同じ学校に紅葉がいた。その探査術にかかればこの匂いの元など容易く探り出せるはずなのだが。

「よりによって千草姉ぇとあやめ姉ぇじゃあなあ……」

 若葉自身は言わずもがな、あやめも探査系統の術を修得していないし、千草は苦手ではないだけで得意なわけでもない。頼んだところであまり期待はできない気がする。

 若葉は比較的よく的中する自分の予感を信じることにしているのだ。

 あるいは、術ならもうひとつ選択肢があるかもしれない。

「もしかしてその辺に八重桜いたりしねえか?」

 長い時を姉に協力し、今も大蛇の異界やこちら側を気侭にうろついている知り合いの名を呼んでみたものの、返事はない。

 やはりそう都合よくはいかないようである。

 しかし、だ。

 若葉は昇降口前からじっくりと辺りを見回した。

 放っておくわけにもいかない。怪我をしている誰かがいるということなのだ。

 あるいは、何か、が。

「よし」

 頷く。

 匂いを隠せていないのだ、見えなくともきっと触れられはするだろう。手探り足探りでこの辺りを虱潰しに触れて回れば見つけられるかもしれない。

 もう予鈴の鳴りそうな時刻だが、清掃と午後の授業はサボるとしよう。

 如月若葉は一度決めれば一直線なのである。




 珍妙な動きで駐輪場をふらふらとしているその姿を何人かの生徒が見かけたが、見なかったことにしてくれた。




 もう一時間も探し続けた頃だろうか。

 門にほど近い、自転車一台分の空間の空いた場所にさしかかったとき、喉元に何かが押し当てられていた。

 冷たい。おそらくは刃物。

 まだ見えない。だが声はした。

『どうやら僕を探していたようだが、君は何者だ? 僕に用でもあるのか?』

 高いが男の声だ。冷え冷えとして、明らかな警戒を含んでいる。

 対する若葉は、突然であったことに驚いただけで返答そのものは平然としていた。それこそ、姿の見えない相手との会話など八重桜で慣れている。

「怪我してるっぽい奴をほっとけるかよ。ほら、保健室とか病院とか連れてってやるから姿見せろよ。物騒なものは仕舞ってな」

『ここに天地院の関係者はいないはずだ。君は誰だ? 荒水波の構成員か?』

 しかし声は疑念を表すばかりで、喉元の冷たさも下げられることはない。

 若葉は眉根を寄せた。

「誰だっつっても……どう言えばいいんだろうな」

 さすがに、事実をそのまま口にしたとしても神秘に関わる者にすらほとんど信じてもらえない、信じてもらえたならそれはそれで碌なことにならないことが多い、ということは承知している。

 だが、適切な誤魔化し方も思いつかない。

「とりあえず、天地院でも荒水波でもねえよ。強いて言うなら地上最強を目指す女だ」

 若葉としては最大限に気を利かせて答えたつもりだったのだが、何の反応も得られなかった。

「まあ、俺のことはいいだろ。それより怪我は大丈夫なのか?」

『……言う必要があるのか?』

「心配じゃねえか。何のために授業サボって探してたと思ってたんだよ。安心しろよ、俺は絶対に敵じゃない……とまでは言い切れねえけどな」

 また、返答がない。突き付けられた刃も動かない。

 若葉は大きなため息をついた。

「分かった分かった。何か要るもんはあるか? 手に入るなら持って来てやるけど」

『首に当たっているのが何なのか、君は分かっているのか?』

「刀とかナイフとか、とにかく刃物なんだろ? そんなに怯えるんじゃねえよ。不利なときほど笑うもんだろ、男なら特にさ」

 切先が震えた。肌が僅かに切れ、ぷくりと浮いた血がやがて流れて制服に染み込む。

 確かな痛み。しかし若葉は自分の言葉を証明するように、頼もしいガキ大将の顔で笑って見せた。

「まあ、要るのは包帯と消毒液と、あと昼飯ってとこだろ。向こうの建物の角曲がって、プール横のあたりで待ってな。あそこなら姿なんか消さなくても、プールサイドから見下ろされねえ限り見えねえから」

 す、と身を引き、背を向ける。斬りかかるつもりがあるなら容易く斬り捨てられるであろう、無用心な背中だ。

 当然のように、斬られることなどなかった。






 若葉の指定した位置は袋小路になっている。

 建物とプールと、それを繋ぐ通路に挟まれた狭い空間だ。

 陽の光も風も遮られるので快適とは言い難いが、校内でここほど人の来ない場所はない。

「待ったか?」

 角を曲がりながら、若葉は声をかけた。

 ちょうど休み時間だったので教室に帰って鞄に常備してある包帯と消毒液を持ち出し、購買で残ったパンを大急ぎで買い込んで来たのだ。

「別に」

 プール側の壁に背を預け、姿を現していたのは若葉とほとんど歳の変わらぬ少年だった。

 小柄な体躯や少し伸ばされた柔らかそうな髪、女性的に整った面立ちは、一目見ただけでは少女めいた印象を与える。おそらくは、むしろ少女と思う者の方が多いのではないだろうか。

 その黒尽くめの左袖は切り裂かれ、ざくりと割れた前腕から今も血が滲み出している。

「思ったより出てないんだな」

 傍にしゃがみ込み、手当の準備をしながら若葉は感想を漏らした。これだけの傷ならもっと血が溢れていてもよさそうな気がしたのだが。

「動脈を圧迫するとともに薬師真言でとっくに治療は開始してる。それより君はちゃんと処置ができるんだろうな? むしろ悪化した、じゃ笑えない」

「任せとけって。俺もよく怪我するから慣れてるよ。ほら、沁みるぜ」

 やや乱暴ではあるが的確な動きをしていると思ったのか、少年はそれ以上何も言わなかった。

 自然、問いかけるのは若葉になる。

「しっかし、何だってわざわざ学校で姿隠してたんだ? ホテルにでも潜んでりゃよかったろうに。あ、金がないのか?」

「……学校というものは、何も仕込まなくても排他結界を形作るものなんだよ。術で探されたときなんかには地味に利いて来る」

 そんなことも知らないのか、と言わんばかりに少年は重い溜め息をついた。

「学校というのは特殊な空間だ。年若い人間が多くて、外からの干渉を拒絶して内部だけでの決済が認められ易い。最近は開けて来たせいか排他結界も随分と弱まってはいるけど」

「へえ」

「別に学校に限った話じゃない。閉鎖的な集落なんかでも同じことは起こる。ただ、学校ほど構成員の数と個々の排他の強度の乗算が大きいところはあまりないんだ」

「そういや紅葉もそんなこと言ってたことが……んー、あるような気がしないでもないな」

 さして記憶力のよくもない若葉だが、紅葉の言うことは比較的よく覚えている。

 確か、だから現代においては学校に巣を張る妖が多いのだと言っていたか。外部の人間にはひどく見つけづらくなるのだと。

 去年解決した事件の際に聞いたことだ。

 実のところ、理解出来ているのは学校が結界を形成しているということだけだ。排他だの乗算だのといった言葉は少なくとも耳にしただけでは何のことやら見当もつかない。

「なるほどね。よ、っと。これで大丈夫だろ」

 処置を終え、若葉はぽんと腕を叩いた。

 痛んだのか少年は僅かに眉を顰めたが、苦鳴は漏らさなかった。

「……一応礼を言っておくが……」

「これ以上関わるな、って?」

 視線と視線がぶつかる。

 少年は鋭く、若葉は熱く。

「そうはいかねえだろ。お前がここらの平和を乱そうってのなら力尽くでも止めるし、逆ならお前の敵は多分俺たちの敵でもあるんだぜ?」

「君じゃ力不足だ。少なくとも僕を見つけるのにあんな頭の悪いことをやってるようじゃ話にならない。いいように踊らされるだけだ」

「なんで初対面の奴にまでンなこと言われなきゃなんねえんだか」

 酷い言われようではある。だが、若葉はやれやれとばかりに苦笑しただけで、怒りはおろか苛立ちすら見せなかった。

 言葉そのものは厳しいが、少年の口調にも表情にも馬鹿にするような雰囲気はないのだ。ただ真摯なのである。

 まったく気にしなかったわけでもないが。

「力不足ってなら、まあ、そういうことにしとこう。俺も好き好んで足引っ張る趣味はねえよ。でも、引っ張らなくてもお前負けそうだけどな」

「……なんだと?」

 その言葉に少年のまなざしが剣呑なものになった。

「僕は負けない」

「こんなとこで傷治してる奴が何言ってんだよ。その余裕のなさは勝ってる奴の雰囲気じゃねえだろ。杏姉ぇなんか、いつもクソいまいましいくらい無駄に余裕たっぷりだぜ?」

 若葉はあまりものを考えて喋ってはいない。しかし思ったことを率直に口に出すだけで、痛いところを抉ることはある。

 少年も自覚はあるのだ。人は己自身をも騙せるものだが、騙し切れるほどにまで面の皮は厚くなかった。

 悔しげに口許を揺らめかせ、そして。

 素早く印を結んだ。

 その印も、同時に小さく唱えた真言も若葉には解らなかった。

「まりしえい……何だって?」

 問い終わる時すらなく、ぶわりと広がったのは白いもの。

 霧だ。それも、少し離せば自らの手すら見えなくなるほど濃い、世界を塗り潰すような。

「おい、ちょっと待てよ! お前一体何を」

 視界を奪われ、若葉は少年がいたはずの空間を慌てて探るものの、一切の手応えはなかった。姿も気配も、そのすべてが忽然と消え去ってしまっていた。

『無駄だよ』

 姿のない声だけが響く。

『さっきまで使ってたその場凌ぎの隠形じゃない。摩利支天の呪法だ。僕はもう、此処にいて此処にいない』

「だから待てってば!」

『もう一度だけ礼は言っておく。二度と会うこともないだろうからね』

「待てっつってんのに!」

 引き留める声も虚しく、もうそれ以上の返答はなかった。

 大きく溜め息をつく。

 まるでその吐息に押し分けられるようにして、白が割れる。

 あとは早かった。見る見るうちに薄れ、光が戻って来る。

 見上げれば青い空を鳥が過ぎる。くるりと弄る黒髪はさらりと指を通し、艶やかではあっても湿ってはいなかった。

「いきなり何だってんだよ、そんなに急がなくてもいいだろうに」

 怒っているのではない。そういうこともあるだろうと思う。

 いかにも短気そうに見えて、若葉は大抵のことに対して許容的だ。

 今、思うのはただ一つ。

「せめて飯くらい食ってけよ、もったいねえ」

 折角買って来たパンが、残った包帯の脇で寂しそうに在った。




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