「密呪」
ノウマクサンマンダ バザラダン カン
夜に赤が走る。
それは炎だ。晶を中心に渦を巻き、六つの穂先を形作ったかと思うと標的へと次々と襲いかかる。
不動明王火炎呪。一切の邪を焼き尽くすと言われる呪法だ。周囲の林を焦がすことはなく、滅すべきもののみを焼却する。
だが、自らを滅ぼすはずの炎に照らされながら生成りは笑った。
「一つ」
瘴気を叩きつけてまず一つ。
「二つ、三つ」
両腕で掻き消して二つ目と三つ目を。
「四つ五つ六つ」
四五六は捉えられない。ぐんと加速して生成りが晶の目前に辿り着く。
振るわれるのは棒だ。太い鋼の棒。
まともに打たれたりしようものなら、人は肉塊と化すだろう。半ば鬼と化した肉体の有する膂力はそれを可能とする。
そればかりではない。一分の乱れもない鋭さは、棒でありながら刃物のように切り裂くことさえやってのけたのだ。
しかし晶は側方へと跳躍、易々とかわして見せる。枝に手をかけるとその勢いのままくるりと上に乗り、すかさず隣の木へと移る。
重い破壊音。
晶が跳躍した瞬間に、今まで乗っていた木が幹を粉砕されてゆっくりと倒れ始める。
異常だ。
己を誤魔化すためではなく、本心からそう思う。
明石大橋での一合のときはこうではなかった。速さも膂力も、ただの強力な鬼程度でしかなかった。だから一太刀を与えることができた。
しかし何よりも恐ろしいのは、不動明王火炎呪すらいなしてしまうことだ。
およそ密呪の中では最強に近いと言っても過言ではない術だというのに、それをさえ強引に打ち破ってしまうのだ。
無論、より鬼と近しくなってはいるのだろう。強くなること自体は不思議ではない。
だが、いかに元が優秀な術者だったとはいえ、これは人が成る鬼の領域を越えている。
もし完全に鬼と化したならば、一体どれほどにまで達するというのか。伝説に語られる鬼の王や貶められた神の域にも至るのではないか。
「はーはははははっ!」
生成りが些か奇妙な笑い方をする。どこか乾いた、毒のある笑声だ。
「どうしたどうした、この程度か!」
「自らを鬼と化して力を得ただけの雑魚がよく囀る!」
印を結ぶ。
ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク
サラバタタラタ センダマカロシャダ ケン ギャキギャキ
サラバビキンナンウン タラタ カンマン
紅蓮。
迦楼羅炎が周囲を埋め尽くす。
先ほどの火炎呪とは異なり、正式な不動明王火界呪だ。
逃げ場はない。打ち消そうとも、次から次へと押し寄せ、焼き尽くすのだ。
それでも生成りは笑う。
「はははっ! これはこれは!」
風が渦巻いた。
炎に押されながらも荒れ狂う暴風の中心で、狂ったように笑う。
「お前もオレも大して変わりゃしない。天地院の天才だ? 笑わせる!」
「喚くな。ここで燃え尽きろ」
拮抗、よりは晶が有利だ。
そのはずなのに、じりじりと炙られながらも生成りが語るのだ。
「違うだろ、『お前』の力はこんなもんじゃない」
「言われるまでもない!」
「違う違う、お前なんかじゃない、憎き『お前』だよ」
その双眸は言葉通りに憎しみに溢れて。
なぜこれほどまでのまなざしを向けられるのか、晶には分からなかった。
『あなたは特別な人間なの』
不意に母の声が脳裏に響く。
特別だから。特別な人間だから。
戦わなければならない。任務を果たさなければ。
ぎりと奥歯を噛み締めて呪に一層の力を込める。
だが。
「哀れだなァ、
炎は、むしろ少しだけ押し返された。
今度こそ本当に拮抗する。
生成りも決して余裕があるわけではない。牙を剥き出し泡を吹き、咆哮する。
「舐めるなよ? 神器もないお前如きに! まだ戻り切っちゃいねえとは言え、このオレを倒せるものかよッ!」
唸る、唸る、風が唸る。瘴気の嵐となって炎を押し戻さんとする。
無論、一切を浄化する迦楼羅炎は瘴気を焼き捨てているのだ。だというのに底なしに湧き出でて、押し流そうとするのだ。
「く……」
苦鳴が漏れる。
瘴気は焼かれようとも、怨の念は届く。
それでも晶はそれを斬り払った。文字通り、抜き放った刀によって。
銘はない。歴史もない。だが、特別な術の込められた一振りだ。
刃長79.9cm、反り2.7cm。
天下五剣がひとつ、童子切安綱と同じ
印が解かれたことによって不動明王火界呪もまた途切れたが、今度は霊刀が瘴気を割る。
「はは、ははははは!」
生成りが笑う。
「そうだな、そうでなくちゃな。『お前』には術よりも剣が似合う」
「お前は一体何を言ってるんだ」
胸の奥の苛立つ思いを押し殺し、晶は僅かな苦みを口許に浮かべる。
この生成りはおかしなことを言う。
まるで自分のことを以前から知っているような、それも恨んでいるようなことを言う。
だが。
「……だが、剣の方が得意なのは間違いない」
昨夜手傷を負ったのは、ほんの数時間の間に力を増していた生成りに不意を打たれたからだ。
こうしてまともに向き合えば負ける気はしない。
そう、そのはずだ。
「覚悟しろ」
晶は宣言した。
「んー、確かに気になると言えば気にはなる、かな」
涼しい風が吹く。
あと少しもすれば暑さが侵食し始めるのだろうが、まだ夜風はえも言われぬ心地好さを保っている。
縁側で若葉の話を聞いていた千草は、思案げに小首を傾げた。
風呂上がりの頬は上気して、下ろした髪の濡れた様など歳以上の色香を醸しているものの、妹である若葉にとっては要領よく一番風呂に入っただけの姉に過ぎない。
「だろ? 見つけらんねえかな?」
「あたしに言われてもね。さすがにそれが出来るのは紅葉くらいじゃないかな。どう?」
千草は今縁側にいる最後の一人、当の本人に話を振った。
華奢な身をいつものように姿勢良く居る紅葉は、少し困ったように眉尻を下げて見せた。
「……頑張ればできないことはないと思いますけど……摩利支天の呪法を使ってる最中だとさすがに大変です……」
「へ? 難しいのか?」
若葉が驚いたのは決して無知であるがためばかりではない。
紅葉の術の腕は実際に桁が外れている。対抗しうる者など、人の内にはほとんどないのだ。
「真言は神性術ですから……それもその本地を辿れば主神級ばかり……」
「ん? んん?」
「ああ、つまりねえ……」
千草はほんの少しの間、薄紅いくちびるに人差し指を触れさせて思案した後、その指で若葉の頬をつついた。
紅葉の説明を欠片も理解出来ていないのであろう妹に助け舟を出す。
「真言っていうのは自分の力だけじゃなくて、ほんの少しだけ神霊の力を貸してもらってるのよ。だから修得さえすれば、速くて強くて効率がいいの」
「ああ、なんとなく分かった。そりゃ強えわな……ってか何だよ、つつくなよ、俺の顔がどうかしたのかよ」
「なんでもない、遊んでるだけよ?」
千草の頬に微かに浮かぶ苦笑は、術法体系がそう単純に強い弱いで量られるものではないことを知っているからだ。しかし若葉に説明するならこのくらいで丁度いい。
だが紅葉は更に続けた。
「何よりも強いというわけじゃないですし、修得には厳しい修行を必要としますけど……神性術を相手にして何よりも厄介なのは、術そのものがとても強固なことなんです。少ない力を基に大きな効果を得ようと理を駆使する呪は、それだけ干渉出来る箇所も大きいですけど、元の力自体が大きい神性術は……」
「はいはい、そこまでそこまで。若葉が頭から煙吹くわよ?」
つん、と今度は紅葉の額をつつく。
大人しい紅葉だが、術のことを語るときには熱が籠もるのだ。
そして若葉にとって最も興味があるのは、強いか否かである。
「もしかしてあいつほんとに凄ぇ強えの?」
「多分ね。少なくとも若葉よりは上でしょ」
「千草姉ぇより?」
ぐっと乗り出して来る。その瞳はきらきらと、少年めいてまっすぐに輝いて。
これで相手に恋心の一つも抱いてくれたら面白かったのにと、千草は思う。
「それは知らないけど」
「えええええー、千草姉ぇって能力評価とか大好きじゃねえかよ」
「いや、そりゃ好きだけど……無茶言わないでよ」
苦笑が大きくなる。
そもそも分かっていること自体が、摩利支天と薬師如来の真言を使ったらしいということ、あとは刀を持っていたということだけなのだ。それも、要領を得ない若葉の説明を基にした推測だから、正しいのかどうかさえ分からない。
「まあ、あたしとしては逃げちゃえば勝ちのつもりだから、大抵の相手には勝てちゃうけど」
「前から思ってんだけど、逃げて勝利宣言はずるいだろ……」
「だってあたしは支援役だもの」
千草はにんまりと笑う。
「状況によって勝利条件って変わるのよ、若葉? 別にその場であたしが倒さなくったっていい。逃げて、有利な状況にするの。かくして千草さんは、イワちゃんを相手にしてさえ十中八、九勝てると嘯くことができるのです」
「詐欺だろ、それは」
「あら、イワちゃんは認めてるわよ?」
荒水波は標的を確実に抹殺することを旨とする。最初から予定されていたのではない限り、逃すことは敗北だ。だから巌も、仮定であってもそういった見方をするのだ。
「逃げるわけにはいかねえときだってあるだろ」
「まあ、あとは逃してくれない相手とかね」
千草に若葉を言い負かすつもりのあるわけではない。極端なことを言っているのも自覚している。
向ける言葉は相手に合わせて変えるものだ。正面から突進しがちな若葉だからこそ、こんなことを言っているのだ。
ただ、正面切ってやり合わないようにするというのは、紛うことなき千草のやり方ではある。
「ともあれ、首突っ込むかどうかだっけ?」
「ああ、多分あれ勝てねえよ。凄え負けそうな雰囲気だった」
「当たり前のような顔して勝つって宣言して勝ちそうな雰囲気してても一度も勝てたことない、なんて例もあるわけだけど」
軽口を叩きながらも、確かにそれはあるかもしれないと思う。
若葉の言う、負けそうな雰囲気というものは何ら特別な代物ではない。焦燥から来る動揺、他者への攻撃性など誰もが感じ取れることだ。
格上に勝つために必要なのは彼我の戦力を冷徹に分析しての具体的な方策。だというのに、焦燥に駆られていると希望的観測が先に立って、結局は碌に何も考えていないか、あるいは判断を誤ってしまう。
若葉の出会った少年は、おそらく手錬れではあるのだろう。複数の真言を扱い、何より独りで行動している。
しかし、若葉が負けそうだと感じたのならば危ない。
「まず、荒水波じゃないわよね」
此処には巌がいる。荒水波から送り込まれたのならば協力していないわけがない。
それに荒水波は真言など使わない。二千年の間に作り上げられた独自の体系を用いるのだ。
「普通に考えれば、天地院の密教系かな」
「……修験道の可能性の方が高いと紅葉は思います」
「ああ、純粋な密教系はあんまり刀使わないんだっけ」
「結印を行いにくいですし、金剛杵がありますから……」
金剛杵とは、密教やチベット仏教における法具である。中央に柄、その上下には槍状の刃が付いている。
扱いにくい形状からすれば武器としては向かないのだが、元々が雷を模したものであり、霊的な威は生半な弓や刀を遥かに凌ぐ。
「まあどちらにせよ、天地院としての行動なのなら下手に手を出さない方が賢明だとは思うんだけど……」
ちらりと若葉、それから紅葉を見やる。
「……思うんだけど、納得しないわよね」
「独りで暴走してるのかもしれねえだろ?」
「……それに……その相手が悪いとは限らないです……」
二人はそっくりの顔立ちに別々の表情を浮かべて頷いた。
真っ直ぐな若葉と優しい紅葉。可愛い妹たちに見つめられ、それじゃあと千草が言いかけたときだった。
「あんたら何やってんの?」
杏が姿を見せた。
買い物にでも行っていたのか右手にはビニール袋を提げ、そして。
「まあ、いいや。何でもいいから適当にこれ治して看病しといてくれる? 社の下で倒れてたから拾って来た」
杏の後ろから、数十の棒人間のような小型式神に持ち上げられ、気を失った少年が一人、姿を現した。
一目見ただけでは男とは判らぬ、繊細に整ったやわらかな顔立ちと小柄な体躯。しかし右腕と左脚がおかしな方向に曲がり、脇腹が真っ赤に染まっている。
「姉さん、これ……」
「というか、俺が会ったのこいつだよ!」
「じゃ、お願い。あたしお風呂入って来るから」
大怪我をしている人間を連れて来て、何事もなかったかのような顔で放り出し、杏はそのまますたすたと歩み去ってしまう。
残された三人は一瞬だけ顔を見合わせ、慌てて動き始めた。
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