生成り騒動――――若葉、天地院の天才に出会うのこと
「天地院より」
『あなたは特別な人間なの』
脳裏を母の言葉がよぎる。
暗き森、深き山は未だまつろわぬ。何が出てもおかしくない。
本来であれば警戒の術を幾重にもかけ、複数でもって臨むべきなのだ。
だが晶は独りで駆ける。
『あなたは特別な人間なの』
独りで成し遂げることを期待されている。
初めて剣を握ったときのことは覚えていない。初めて大人を負かした歳ならば、八つだ。
初めて術を教わったときの気持ちは覚えていない。至難と言われる孔雀明王呪を会得したのならば、十二の歳のことだ。
天地院きっての天才。それが立花晶である。
天地院とは、明治に入って陰陽寮が廃止される際にその流れを継いで密やかに形成された退魔組織だ。
旧陰陽寮の人員を中心として、日本各地で降魔や調伏にあたっていた家を組み込み、またたく間に日本最大の規模にまで膨れ上がった。
その武器は数だ。母数が大きいということは、あらゆるものの絶対数も大きくなるということでもある。
卓越した術者の数も、異能持ちの数も、情報の量も網羅する範囲も、ほとんどのものが日本最大となった。
だが同時に欠点も大きくなった。
権力争いと、腐敗である。
元々横の繋がりで形成された天地院は、結成当初から幾つもの派閥が存在していた。あるいは潰れ、あるいは統合され、それでも決してひとつになることはない。幾らでも新たに生まれ来て、争いを繰り返すのである。
その闘争の申し子、現在の最大派閥であり天地院最高評議会の四割を占める遠野派の要請を、晶は受けた。
標的は生成り、鬼へと変じかけている人間だ。極みに達した感情や、先祖返り、あるいは呪いなどの何らかの要因で人は鬼と成ってしまうことがある。
まだ救える可能性もないではないが、人と鬼との間でもがき苦しむ生成りは大抵が心を壊し、結局は完全に鬼と成ってしまう。
しかし、成るまではまだ人であるのだ。儚い可能性に賭けて呼び戻そうとすることはできる。
もっとも、今回追っている相手は違う。卓越した術者が自ら望んで鬼へと変じようとしているのだ。当初はそのことに気付けずに人へ還そうとして、そこへ付け込まれて十名以上の死傷者を出した。
その程度で済んだ、と言ってもいいのかもしれない。元から力を持ち、戦い方も知っていた男が不完全とはいえ鬼の身体能力と生命力までも手に入れ、しかも弱みを利用してきたということなのだ。
そして、もはや並みの退魔師では歯が立たぬと、晶に要請が出たのである。
『あなたは特別な人間なの』
逃れ続ける生成りを追い、ついには淡路にまで辿り着いてしまった。
まともに刃を交えたのは一度きり、真夜中の明石大橋。手傷は負わせたものの、その一合だけで逃げられた。
駆けながら、晶は生成りの力量を計算する。いかに逃げに徹しているからと言っても、自分の追撃をここまでいなして見せるなど、既に並みの鬼の力を軽く上回っているとしか思えない。
頭の中に確たる基準があるわけではないが、分かるのだ。剣を振るうときのように、術を扱うときのように、なんとなく推し量ることができる。
厄介だ。強いということもあるが、淡路島に入られてしまったことが何よりもやり難い。
日本中をくまなく網羅する天地院であるが、例外となる地域が二箇所だけある。中国山地と、ここ淡路島だ。
両方とも荒水波絡みである。縄張り争いになど興味のない荒水波も、本拠とこの始まりの島だけは天地院の好きにさせなかった。
今、淡路に天地院所属の家は皆無だ。それは、他の地域でならば受けられる現地の家による支援がないということを意味する。
そしてもうひとつ。
淡路に入ってからというもの、胸の内から底知れぬ不安が湧き上がって来る。ざわざわと、じくじくと、恐怖にも似た何かが這い上がって来る。
こんなものは知らない。今までに一度もなかった。幼い頃、明らかな格上とやり合ったときにも、こうではなかった。
しかしそれでも何とかするしかない。
不安を押し殺す。
自分は期待されているのだ。
頭上が開ける。
金色の月が煌々と輝きを降らせていた。
『あなたは特別な人間なの』
何度も母の言葉が繰り返される。
『あなたは特別な人間なの。だって……』
亡くなった母の言葉。嬉しそうに語る言葉。
『だってあなたを身籠る直前に、白い鳥が母さんの中に入って来たのだもの』
朝日が差し込む。
ここは大蛇の異界。すべてが大蛇のものであるからには、陽光もまた大蛇のものだ。
光はやわらかに瞼をくすぐり、若葉の意識を眠りの園から連れ出した。
うっすらと目を明け、眩しそうに瞬かせてからまた閉じ。
「むー……あれ?」
ぱちりと開いた。
枕元の時計で時間を確認すれば、六時。
「寝坊したー!!」
布団を撥ね飛ばした。
如月家の朝は早い。個々人である程度の差はあるが、概ね夜明け前、五時くらいには起きている。
慌てて寝巻から剣道着にも似た鍛錬着に着替え、部屋を出る。
台所からはもう規則的な包丁の音が聞こえて来ていた。
「なあ紅葉、杏姉ぇ知らねえ?」
「……若葉ちゃん?」
首を突っ込んで問えば、手を止めた紅葉は振り返って小首を傾げた。いつもの訥々とした口調で答える。
「どこにいるかは、調べないと分からないです……」
去年から、食事の支度は主に紅葉が行っている。朝夕に一人だけ仕事の量が多いが、料理好きな紅葉自身は何ら負担には感じていない。
そもそも自分から言い出したことであり、その華奢な身を割烹着に包み、台所はわたしの城とばかりにいつも上機嫌で鍋や包丁を扱っているのだ。
「杏姉さんは六人の中で一番早起きですから……」
「ちぇ……今日こそボコボコにしてやろうと思ってたのによ」
口を尖らせる若葉にくすりと笑い、紅葉は俎板の上のものをひとつ、口許に差し出した。
苺が若葉の瑞々しいくちびるをつつく。
ほのかな甘い香り。決して濃厚に鼻腔を満たすわけではなく、おずおずとくすぐるような。
「若葉ちゃん、あーん……」
「んー」
ぱくりと食い付けば途端に広がる上品な甘さと酸味。入り混じり、心を蕩かせる。
またたく間に食べ終えてしまうと若葉は軽く右手を挙げた。
「そんじゃま、今からでもせめて走るくらいはして来る。あやめ姉ぇと遇ったら一戦交えて来てもいいかもなあ……」
「気をつけてね、若葉ちゃん……」
見送る紅葉の表情は微笑ましげで、それでいて少し心配そうで、むしろ紅葉の方が姉めいて。
一方、視線を背に飛び出す若葉には何の惑いもなかった。
蔦の絡む木々が左右を流れてゆく。
『おはよう、姫』
『おはよう、若葉姫』
「おう、おはよう!」
草の陰、木の股に顔を覗かせる毛むくじゃらの小さな精霊たちに挨拶を返し、若葉は朝を駆ける。
その足取りに危うげなところはない。地を蹴って、行く手を遮る岩を跳び越え、その向こうへ消えてゆく。
袴とは決して走り易いわけではない装いだというのに、信じられぬほどの速さで森を走破するのだ。
そうそうできることではない。森自体も原生の森に近く、若葉たちが踏み入ることで道らしきものも形成されている、その程度のものなのである。
しかし若葉にとっては長く親しんだ場所だ。極めて高い運動能力を持つこともこの速さの理由ではあるが、やはり慣れていることが大きい。
とは言え、油断できるわけではない。
大蛇の異界は決して、皆が仲良く共存する優しい世界などではない。奪うものと奪われるものとが存在する、生命の流転する世界だ。存在しないのは機械による開発くらいのものだ。
その中で確かに若葉たちは特別な立場でありはするものの、それでも危険がないわけではないのである。
緑、茶、黒みがかる灰色。やわらかな光の下、毒をも交えながら色彩豊かに森は息づく。肺腑を満たし頬を撫でる大気は、涼しく健やかではあるが。
若葉は駆けに駆け、やがて目の前が大きく開ける。
泉だ。信じられぬほどに透明な水を湛え、だというのに底が見えない。
形は楕円に近い。人の背丈、およそ二十人分が長径となる。
その畔に、求める姿のひとつがあった。
姿勢良い長身、涼しげなまなざし。髪はすべて後ろへと流されて、秀でた額が露わになっている。
若葉と同じ鍛錬着に身を包み、徒手空拳ながらもまるで居合いでも行おうかという体勢で、あやめはそこに静止していた。
そして若葉が声をかけようとした瞬間、動く。
刃の顕現と同時の薙ぎ。瞬き一つの間に手首を返し、今度は袈裟。そこで再び静止したならば、切先は微塵も揺るがない。
やはり凄い、と若葉は思う。
止まれば揺るがず、動けば剣閃は零れ落ちる光にしか見えない。速さを求めたがゆえの速さではなく、鋭さを求めて速さにも至った剣である。
と、不意にあやめが声をかけて来た。少し低めの、静かではあるが不思議なほど朗々と響く。
「寝坊か、若葉」
静止を解き、刀も消える。
若葉はきまり悪げに小さく笑った。
「春眠……ほら、なんとか言うだろ?」
「春眠暁を覚えず、だ。もう五月も近いが」
「うん、そんな感じ。それより今日は何してたんだ?」
本音が半分、誤魔化しがもう半分で問う。
その誤魔化しを見抜きながらも咎めることはせず、あやめはもう一度、刀をその手の中に顕現させた。
「術の修練だ」
この刀は今この時に創り出したものだ。紅葉の編み出した術のひとつで、単純に『武装法』と呼んでいる。
ただ武器を創り出すだけ、ではあるのだが、存外に深い。習熟によって発展させることができるのだ。たとえば千草は、用意しておいた呪符を使用することによって大量の短刀を一度に生成し、手を離れた後もしばらく形を保つように工夫している。
しかし答えを聞いた若葉は露骨に詰まらなそうな顔を見せた。
「えー、術かよ……どうせなら俺と模擬戦でもしようぜ」
「若葉」
名を呼ぶあやめの口調は変わらない。だが、まなざしが少しだけ細く、厳しくなった。
「苦手なのは分かるが、お前や私のように不得手な者こそ修練するものだ。特にお前の場合は、本気で戦うなら正真正銘の生命線だろう」
「いや、まあ……そうなのかもしれねぇけどさあ……」
若葉は柳眉を寄せて渋る。内心では理解できているのだ。認めたくないだけで。
ただ同時に、本当に苦手なのだ。あやめは基本的なところを幾つかと、特に磨き上げている武装法、あとは異能混じりの術と呼んでよいのかどうか分からぬものを使えるが、若葉はたった一つしか使える術がない。決定的なまでに才能が欠落しているのである。
そして、その一つが使えるのにも理由がある。
「紅葉の努力を無駄にしてやるな」
「う……」
一番仲の良い、双子のようなと言われる妹の名を出されて言葉に詰まる。
紅葉は常軌を逸した術才と、姉への愛情とをもって、若葉に必要であり、かつ修得できる術を創り上げたのだ。
「ああ、もう分かったよ! 三十分だけな、その後は模擬戦だからな!?」
「よかろう」
あやめは悠然と頷く。
が、ふと空を見上げて呟いた。
「……三十分も経てば朝食の時間になるような気もするがな」
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