「水波」
白鼠がちょろちょろと走る。
屋敷中を駆け巡り、狭い隙間にも入り込んで紅葉の脳裏に屋内の構造を完成させてゆく。加えて行方不明の子たちの捜索も兼ねる。
雀は壁を抜け、外から屋敷を観察して屋内の情報と統合することで屋敷全体を捉え、同時に周囲を警戒する。
犬はその鼻で亜里沙を追い、姉たちと合流してともに護衛する。
そして虎の役目は、馬込涼河を可及的速やかに取り押さえることだ。
涼河は裏口から外へ出る。
当然のように逃走経路は準備してある。獣道を幾つか利用することによって出られる空間に、バイクを一台隠してあるのだ。
そこから先は分からない。国外に飛ぶにはまず本州へと渡らなければならないが、読まれる可能性は高い。少なくとも一度四国を経由すべきだろうか。
苦く口を歪める。
あの少女を入れるべきではなかった。中学生がたった一人で乗り込んできたことで、組織ぐるみの可能性は低いと判断してしまったことも間違いだった。
こういった失敗は稀にある。裏に生きる人間にとって慎重さは非常に重要な資質であるが、同時に死地に飛びこめないようでは意味がない。命を賭けたくないのなら、こちらへなど来ずに最初から真っ当な職に就いて真っ当に働いておけばいいのだ。
だから涼河は何十度と賭けをし、何度も追い詰められて来た。
今回も賭けに乗るだけの魅力はあった。今集めているのは強い魂を持つ子供だ。亜里沙の話からだけでも大きな霊力を有しているのであろうことが推測できる如月紅葉という少女は、手に入れることさえできればもう今回の仕事は切り上げてもいいと思えるほどに魅力的だった。
ただ、蓋を開けてみれば大きな霊力などという生易しいものでは済まされなかっただけだ。
本当に、こういった失敗は稀にある。
そしてそれでも今まで逃げ延びて来たのだ。今回もそのつもりでいる。
まずはバイクまで辿り着かなくてはならない。それには護衛が、護衛としての命を与えてある人形がどれほどの時を稼いでくれるかだ。
荒い息の中、不意に舌打ちが漏れた。
すべてを投げ捨てて逃げる涼河とて、惜しいものはある。その中でもあの人形は格別である。
あれは、涼河の珠込への最後の未練だ。
珠込の造る人形は通常の式神とは異なる。霊木を削り、組み合わせ、磨き、化粧を施して衣を着せ、術を施すうちに、人形には心が生じる。付喪神にも似て、魂を持つのだ。
あの人形は涼河が霊木を削って組み立てたものだ。その時点でもう二十年以上のブランクがあったため、特に顔などは酷くて結局仮面のようになってしまった。そこに服従の呪縛で縛った人の魂を入れることによって動かしている。正確には、人の魂を入れたと聞いただけで、本当にそうであるかは怪しいが。
無論のこと、人形に魂を封じ込めたのは涼河ではない。今回の仕事の依頼者でもある男だ。あのときは対価として赤子を二十、攫って来ることになったものだ。
その甲斐はあった。どんな魂が使われているのかは分からないが、充分に護衛の役割を果たせるほど高い戦闘能力を人形は有している。
しかし結局、護衛人形は作品として何もかもが珠込に及ばない。それでも涼河は外法で造られた己が人形に昏い愉悦を覚えていたのだ。
そして、その愉悦を捨てても涼河は今走る。
獣道まであと僅か。入ってしまいさえすれば地の利のある自分に追いつける人間はいないはず。そう思ったときだった。
重く、軽快な足音がした。しかも四つ脚の。
背後からの衝撃。涼河は吹き飛ばされて前方の樹に叩きつけられた。
息が詰まる。苦鳴を堪えて転がれば、仰向けとなったときに肩を押さえつけられた。
目の前には白い虎の顎。
しかし食らいつくことはなかった。替わりに声が響いた。
『降伏してください』
あの少女の声だ。
ということは、この虎は式神か。
思わず口許が笑みを形作った。なんと緻密な霊力で構成されているのだろうか。この虎一体ですら自分の全霊力を上回っているに違いないのだ。
そして美しい。実在の虎の持つ機能美とともに、俗世を忘れさせるような、畏怖を覚えさせるような幻想を体現している。
「嫌だと言ったらどうなるのかな?」
苦痛に口許を歪めながらも挑発する。弱点はもう分かっているのだ。決してとまでは言わないが、あの少女に自分を殺すことはできない。
「殺すのかね、私を?」
『そんな……わたしはただ、やり直して欲しいだけです……』
案の定、健気なほど真摯にそんな言葉が返って来た。
「ふ……くくっ。生きて償えとでも言いたいのかね」
失笑する。これが笑いを漏らさずにいられようか。そんなお約束のような台詞を、二十年も生きていない小娘に言われて。
とりあえず打ちのめしておくべきではあるだろう。いくら甘いとはいえ力の方は桁外れ、霊力も術の腕も常軌を逸している。逃げようとする前に心を大きく傷つけておいた方がいい。
「君の言霊で強制でもしてみるといいさ。容易いだろう」
『そんなことしません……それじゃ何の意味もないじゃないですか……』
泣き出してしまいそうな声だ。この式神の向こうでどんな表情をしているのかも目に浮かぶようだった。
『あなたにだって何か理由があったんだと思います。だから……』
「だから何だというんだ」
人の善性を信じているというより信じたい性質か、と涼河は読む。
理由ならば当然ある。よんどころない理由には、どんな道筋によってもまったくもって辿り着かないが。
「随分と高みからものを言うんだねえ。その日食うものに困る人間の気持ちが分かるのかね? 悪以外に生きる術を持たない者の思いが分かるとでも?」
涼河の言葉は相変わらず詭弁と戯言である。頭はいいが人の好さが邪魔をする、そんな相手に真っ当な論理は必要ない。もっともらしい言葉を並べて非難し、その空気に呑み込んでしまうのがいい。
だが、その目論見は完全には果たされなかった。
『食べ物に困る気持ちなら分かります……でも空腹はあなたのやって来た方法でしか解消できないものではないはずです』
「そういうことを言ってるわけじゃないんだがねえ」
涼河にしてみれば食うに困ったことがあるとは思えない少女がなぜか食らいついて来たことに少し驚きながらも、動揺は見せない。
さらに続けようとして、ふと思い直した。
改心したように見せかけて見逃してくれるように頼みこんでみたら、案外聞き入れてくれるのではなかろうか。
自分の半分にも満たない歳の少女に土下座するなど造作もない。大層なことだと思うからいけないのだ。みっともないだとか、逆にだからこそ格好良いだとか、その両方を涼河は嘲笑う。いや、利用し易いという意味では有り難いか。
『お願いです、降伏してください……!』
紅葉の声は哀切すら帯びて聞く者の胸を締め付ける。
しかし同時に強引だった。もっとゆっくりと筋道を追って思いを告げたならあるいは、大抵の者は聞き入れたかもしれないが。
馬込涼河はただ、どうすればその悲痛を最もうまく利用できるかを考えるばかりで。
だからなぜ強引であるのか、そう急くのか、理由に気付かなかった。
『お願いです、早くしないと……』
「いや、もう既に終わりや」
低い声が降って来た。理由がやって来た。
『巌さん、あと少しだけ……』
「これでも大目には見た。約束や。屋敷の外に出したらおれの管轄にする、てな」
涼河は知らない。
ブラックリストに載せてある標的を見つけたならば、当然この一帯を預かる和泉家が仕掛けるという流れになった。そこで紅葉が無理を言ったのだ。そして妥協点として示された条件のひとつが、標的を屋敷の外に出してしまったならそこからは完全に巌が始末を付けるということだ。
「約束や」
巌は無情にもう一度それだけを繰り返し、別の言葉を続けた。
「クラスメイトのフォローでもしとくことやな」
無言のままに白い虎が消え、背の痛みを堪えながら涼河は立ち上がる。
そして先ほどからの声の主を観察した。
巨漢だ。なんとも無骨なつくりの顔と身体で佇んでいる。
簡素なシャツに浮かんで見える筋肉の束。太い腕、太い手首、握られた大きな拳。太い脚に巨大な足。そして頭が小さく見えてしまうほど太い首。風雪に削られながらも耐えた巨岩を思わせてならない。
涼河も無数の修羅場をくぐって来たのだ、その体躯が見せかけのものであるか否かは判る。無論のこと、これは立ち塞がるものを物理的に打ち倒すことを目的として鍛え上げられた肉体であるに違いない。
ならば、と涼河は即座に動いた。
用いるものは、相手の認識を僅かにずらす術法だ。元々の術ならば十歩分でも認識を狂わせることのできた術だが、涼河が扱うと最大でも10cm程度にしかならないほどにまで弱体化している。
しかしそれでいいのだ。肉体や近接武器を用いた攻撃のほとんどは、極められた一撃に近づくほど、必要なときに必要な打撃や斬撃を与えるようになるものだ。だから10cm外れただけでもその真価を発揮できなくなる。
もちろん無傷ともいかないが、なまじ傷を負わせることが可能であるため逆に気付かれにくい。空間を蹂躙するような攻撃手段を持っている相手以外には非常に有用なのである。
「ゆらゆらと」
発動の言葉が古神道の魂振りに似ているのも欺瞞に一役買い、当然ながら術そのものは多系統複合呪。余程のことがない限りは破られない。
そのはずだったのだが。
巌は左の眉をぴくりと跳ねさせると、右手を開いた。
「押し流せ」
大きな掌から溢れ出したのは水。水流が巨体の周囲を三重の螺旋状に取り囲んだ。上端では虚空に消え、下端では虚空から現れる。
ふ、と吸い込まれるような感覚。
放った呪がその水に受け流されるのを涼河は肌で感じた。紅葉のときのような言霊ではなく術として確立されたものだ。
反射的に跳び退る。
様々な体系を修得して来た涼河は、自分自身は使えない体系についても非常にたくさん目にして来た。水は世界中どこへ行っても穢れを洗い流すものだから、水をもって無効化されたのだろうとは推測できる。
しかし、今使われた術がどの体系に属しているのかは確定できなかった。神道に近い気はしたが何か違うと経験が告げている。
それとともに、目の前にいる相手が強力な浄化術を容易く扱ってみせるほどの腕前であることに戦慄した。
「……君は」
「なりはこんなやが、おれはかなり術者寄りでな」
体躯に相応しい声で飄々と。無論、今行ったことは術者寄りなどという告白で済まされるものではない。
ならばと次に放ったのは、小鬼を顕現させる使鬼符だ。
身の丈は子供ほどだが並みの男では相手にもならぬ膂力を誇る。四肢を引きちぎることまでは出来ずとも、むしゃぶりつけば骨をへし折り肉を抉ることができる。
三体の小鬼は一斉に飛びかかった。
呼応するように、水の描く螺旋が外へと大きく広がる。
それは飛沫すら見せず、小鬼の二体を軽々と切り払った。頭に胸に腹に脚、何箇所もを霊刀の如き切れ味で斜めに輪切りにしたのだ。
だがその二体を踏み台に、最後の一体が身軽に跳躍して上を跳び越え、肉薄する。
しかしそれも、大きな手で頭を鷲掴みにされていた。
「おれは術者やが」
そのまま地に叩きつけて首を踏み砕き、巌はぶっきらぼうに告げる。
「なりは一応こんなんでな」
小鬼は断末魔の苦鳴もなく、あえなく薄れて消える。巨躯のもたらす体重と筋力、あとは物々しい靴に薄い金属板でも仕込まれているのかもしれない。
そしてその間、視線は涼河から外されていない。この程度のことであれば慣れ切っているということなのだろう。
「……なるほど。強いな、君は」
苦笑が漏れてしまったのはやむないところだ。
「随分と厳ついが、まだ十代だろう? よくぞそこまで鍛え上げたものだ。天地院には若き天才が一人いると聞くが、もしかして君がそうなのかね」
天地院は陰陽寮の流れを汲む、政府と密接な関係を持つ退魔組織だ。大きさで言えば日本随一である。
誤った称賛を口にしながら、涼河は攻略法を見出そうとする。
戦って勝つのは不可能であろうから、もちろん逃げる手立てを探るのだ。
その心の弱いところを探るべく、更なる言葉を発しようとしたときだった。
「投降か、死か。選べ」
端的に、巌は告げた。表情を殺し切って、何も読み取れない。
涼河はどちらとも答えなかった。
「容易く死を口にするのだね。君が死の何を知っているというのだ」
「特例や。お前の技術は役に立てることができるかもしれん。それまでは生かしても構わん」
巌も返答しなかった。決定事項を淡々と告げるのみだ。
そして繰り返す。
「特例や。まだ生かしても構わん」
「……本来は殺すのが前提と言わんばかりだねえ」
殺気はおろか嫌悪すら感じないことが何よりも不気味に思えた。
こんな例に出会ったことが今までにあったろうかと自問、一つだけ思い当たる。
軍人だ。それも、表には出せないような案件を無感動に処理する類の、並みの兵士などとは隔絶した。
術の心得はなかったため、逃れるのにはそれほど苦労しなかったおかげであまり意識に残らなかったのだ。
「――――須らく滅すべし」
不意に巌が言った。
その音はどうしようもなく不吉に響いた。
「人の世に災いを為すもの全てを、須らく滅すべし」
「君は……」
記憶の隅で警告が火花を散らした。
知らず、身体が震えた。握り締めた右手も震える。
何よりも『これ』を恐れていたはずだ。全ての可能性を考慮すべしと自戒してなお、奥底に押し込まれてしまっていた相手だ。
口許だけが歪んだ。
「……君はまさか、天地院ではなく……」
「荒水波や」
それは涼河にとっての最悪を示す名だ。
涼河だけではない。日本国内で霊的な事象に関わる者にとって、荒水波の手の内に捉えられるということは死を意味する。
荒水波は苛烈だ。標的を葬ることが六の民を救うことに繋がるならば無辜の四を犠牲にする、そんな手を一切の惑いなく行ってのける。
標的に対して容赦などするはずもない。生かすことがあってもそれは益になる間だけ、結局は全てを絶ち、滅ぼし去るのだ。
「選べ。投降か、死か。動けば殺す。投降以外の言葉も殺す。五秒過ぎても殺す」
先ほどから巌が宣告している通りであるのだ。死ぬのは今がいいか、投降してもう少し先になるのがいいかを問うているのである。
涼河は今まで、何が何でも生き延びて来た。絶望的な状況など幾つもあった。それでも諦めなかった。
その涼河をして、為すすべもなく意思が挫かれていた。
降った振りをして隙を見て逃げる、それが馬込涼河という男が迷いなく選ぶ選択肢であるはずだったのに、冷酷に時だけが刻まれる。
荒水波は絶望的なのではない。
絶望であるのだ。
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