「その頃」

 時は少し遡る。

「さすがは紅葉、見事なもんね」

 樹の陰から煉瓦造りの屋敷を見上げ、千草が当然とばかりに頷く。

 身体にぴたりと沿ってラインを浮き上がらせるノースリーブシャツは襟刳りも深く、豊かな胸の谷間を垣間見せている。ミニスカートから伸びた肉感的な太ももはスパッツが覆い、足元は使い込まれたスニーカーだ。なんとも活動的な出で立ちである。

 さも分かっているような口ぶりであるが、実のところ屋敷に張られた結界の質の変化などまるで読み取れてはいない。ここに辿り着いたばかりの頃には認識できなかった建物を先ほどしかと目に収められるようになっただけである。

「そのようです」

 頷くあやめにも結界の作りが分かるわけではない。しかしこちらは最初から屋敷が見えてはいた。

 白いシャツとジーンズというあまり変わり映えのしない服装で、表情もいつものように禁欲的に引き締められている。

「いつ突入しますか」

「うぅん……紅葉には五分くらい時間をおいて欲しいとは言われてるわけだけど……やっぱり心配ではあるわね、性格的に」

 千草は困ったように眉尻を下げた。

 術を行使することさえ心に決めれば、全力を出さずにいてすら紅葉の力量は凄まじいものだ。術にせよ武器にせよ、至近距離から不意打ちで大威力の攻撃でも受けない限りはその身を傷つけさせることすらあるまい。そして負傷や苦痛に容易く屈するような精神の持ち主でもない。

 しかし、紅葉はなるべくなら傷つけずに終わらせたいと言っていた。その心根の優しさは得難いものだが、果たして今回の相手はそれを見逃してくれるだろうか。

 一昨日、撫子が学校でこの件に巻き込まれている生徒をもう一人見つけ出した。亜里沙と同じ立場である。そしてその子から聞き出せたのが外見的特徴だった。

 実のところ、これは駄目かと思ったのだ。見た目くらいならば紅葉に頑張ってもらえば亜里沙からでも聞き出せる。

 ところがこれを巌に伝えて調べてもらった結果、一応一致するとして馬込涼河という名が出て来たのである。

 理由は単純だ。

「荒水波のブラックリストに載ってたってことは、つまり一度見つかっておきながら今まで逃げていられたってことで」

「強い、というよりも強かなのでしょう。生き抜くための覚悟が余程固いのかと」

 単純な強さや戦いの駆け引きで荒水波を凌ぐことはほぼ不可能だ。荒水波は最強である。その手の内に捕らえられれば、どれほど卓越した術者でも終わりとなるのだ。

 だから、馬込涼河は自分が荒水波の視界内に入ってしまったと自覚した瞬間に逃げ、身を隠しながら生きて来たのだろう。

「……もう行っておきましょうか。屋内戦闘は苦手なんだけど……ならないことを祈っとくわ」

 やはり姉としての心配が勝る。三分は待ったしこれくらいならもういいわよね、と自分を納得させた。

「でもあやめ、うっかり結界壊さないでね?」

「心得ております」

 軽口にも真顔で答えるあやめに思わず苦笑を漏らし、千草はそこから一歩を踏み出した。






 鍵は開いている。

 閉めたかどうかは知らないが、常に開いているように今は設定されている。

 入ってすぐの場所に監視カメラも設置されていたが、それも誤魔化されているはずだ。

 いずれも密やかに紅葉の成したことである。

 二人は無造作に歩んでいるように見えながら足音もなく、目配せで進行方向を決める。

 広い屋敷ではあるがそれでも高は知れ、二階までの吹き抜けとなっている空間まで辿り着くとすぐに左手奥から続く廊下より扉の閉まる音とこちらに小走りに駆けて来る足音がした。少し戻って扉の陰に身を隠せば、近付いても気付くことなくそのまま右手奥へと。

「左奥の部屋に紅葉がいるのかしら? 右に走って行ったクラスメイトは……」

「屋敷の主を呼びに行ったのか、それとも主は既に紅葉と対面しているのか。私が左へ参りましょう。姉上は右の様子を」

「了解」

 そう呟き、千草がやはり音もなく動き出す。

 紅葉が監視の術や機械を騙くらかしているのは、さすがに自分自身が通った場所だけだろう。ここから先はいっそう気を付けなければならない。

志那都比古シナツヒコ様、お力を」

 ミニスカートが揺れ、屋内であるにもかかわらず、ふわりと風が吹いた。その流れる先の感触を、千草は触覚にも似た感覚で受け取る。

 これは千草独自の術法の一端だ。全般的な術そのものはさほど得意ではないが、半ば天性の異能と言ってもいいこれだけは次元を異ならせる。

「……よし」

 小声で呟く。

 決して鋭敏に知覚できるわけではないものの、少なくとも壁や床、天井から突き出した異様なものは存在していないことだけは確認できた。

 その間にも壁沿いにするすると歩み、亜里沙が部屋に入るところをかろうじて把握、どうしようかと少しだけ思案した後で小さく笑う。

 カメラの有無を今度は視覚で確認してからドアの前に立ち、左手で軽くノック。後ろに回した右手には、どこからともなく現れた短刀。

 返事はすぐに来た。

『はい?』

 戸惑ったような声とともに内側からドアを開けたのは亜里沙だった。千草の顔を見てさらに不思議そうな顔になる。

「えっと……誰ですか?」

「紅葉の姉の千草です。妹が心配でこっそり付いて来ちゃった」

 にっこりと笑いながら後ろ手の短刀を消す。

 返事もドアを開けるまでの時間もごく短かったということは、室内には無用心を止める者がいないということだ。馬込涼河の側の存在がいる可能性は低い。

「でも見つかっちゃって、ここで待ってろって言われたんだけど、入っていいかな?」

 さりげなくドアを少しずつ大きく開け、目の前の亜里沙にばかりではなく他の三人にもこちらの姿を見せて微笑みかける。特に男子二人に目をやるときには、だめ? と少し甘えるように。ちなみにその一方とは昨日会っている。

 効果は覿面だった。

「って、昨日のおねーさんやん。どーぞどーぞ座ってください!」

「え、なに? お姉さんがこれやと巫女姫様ってほんまに可愛いん?」

 露骨に目の色が変わっている。

 亜里沙も残る最後の一人も面白くはなさそうだったが、さすがにそこまで慮ってはいられない。

 彼らの安全を確保することは千草とあやめの役割のひとつである。ひとかたまりになっておいてくれたこの僥倖を生かさない手はない。

 素早く部屋の様子を確認する。

 窓はない。ごちゃごちゃとタペストリーによって飾り立てられた壁には、果たして何があるのやら。霊的・呪的な何かは感じないものの、隠しカメラくらいならばどこかに仕込まれているのではなかろうか。

 もう見つかっていると仮定して、この子たちを守らなければならない。突入前の言葉通りに屋内戦闘は苦手としているのだが、背に腹は代えられない。

 できればこのまま説得して外へ連れ出すことができればいいのだが。

「けど、もしかしておねーさんも騎士とかやったりして」

「え、いやー、違うと思うけどねー。それよりできれば一か所に固まっといてくれると嬉しいかな」

 非常に大きな労力を必要としそうではあったし、説得の暇もない可能性が高い。

 千草はドアを振り返った。

 その向こう、比較的遠くから重い破壊音。

「うわ、もう何か来たわけ……?」

 思わずぼやいた。




 ドアが閉まるまでのやりとりは、あやめにも聞こえていた。

 随分と思い切った行動に思えるが千草のことだからうまくやるのだろうと信用し、自らは左へと向かう。

 しかし五歩歩んで、足を止めた。

 急速に張り詰めてゆく空気。気配がある。

 いや、気配と呼ぶには少し違和感を覚える。肉体的な息遣いというよりも、意識だけがこちらを見ているような。

 なにはともあれ、おそらくは見つかったということなのだろう。

 動かぬままにあやめはその何かを探る。術でも異能でもない、人が当たり前に持つ感覚を研ぎ澄まし、察する。

 右手手前の階段ではない。左右の奥でもない。無論、背後でもない。

 吹き抜けとなっているこの空間、一階部分は壁に絵画が飾られているだけだが、二階に当たる高さには窓が一つある。それも大きい。

 その窓で、影が動いた。

 甲高い破砕音。高度の差など存在しないかのように直線的に迫り来るもの。

 あやめは退るのではなく、むしろ斜め前方へと跳んだ。降って来る硝子を浴びない位置だ。

 襲撃者のあるならば、それが紅葉や千草の許へ行かないようにしなければならない。右手を握れば虚空から染み出すようにして現れた刀の柄の感触。即座に振り返り、目の当たりにしたのは重い音とともに床が砕ける様だ。

 そこにいたのは奇妙な姿だった。

 人に似た形はしている。腕は二本、脚は二本、紺のスーツを着込み、革靴を履いている。

 しかし袖から覗く手には木目。目のようなもの、口の如きものが刻まれた顔にも木目。その顔は仮面にも等しく、表情は見られない。

 『それ』は機敏に身構えた。ねじくれた柄の戦鎚をゆらゆらと揺らめかせながら、瞳のない溝をこちらに向けている。

 対してあやめは正眼に構えた。

 す、と双眸が緩やかに細められ、黒瞳が奇怪な存在を素直に映し出す。

 正体は分からない。木を用いて造られた人形が動いているということだけが確かな事実だ。

 式神の一種だろうかとまずは考える。

 文化や体系によって呼称も分類も異なるが、式神と呼ばれるものは術者の使役する霊的存在である。術者の創り出した疑似生命であるか、あるいは意思を持つ妖や精霊が使役されている場合も当てはまる。

 後者は勿論、前者も力の程は千差万別だ。最低限の自律機能を与えられて目鼻の代わりをするだけのものから強大な戦闘能力を有するものまで、術者の力量によって大きく異なる。

 このとき大抵の術者が寄り代を用いる。あらかじめ術を施しておいた物を核とすることにより、力や機能を大幅に強化するのである。多いのは作成や持ち運びの簡便な呪符だが、そこで手間暇をかけた人形を用いれば極めて優秀な式神が出来上がる。

 それが今目の前にいるこの人形なのではないかと推測したのだ。

 もし推測が正しいのであれば、あやめにとっては本来組みし易い相手である。が、今はそうもいかない。

 全力を出せばこの館を包む結界もおそらくは破壊されてしまう。当然馬込涼河は気付くだろう。それは紅葉の危険に繋がる可能性がある。

 実際にはちょうどこの時点で涼河が結界の異変に気付いたのだが、それを可能性の一つとして推測することまではできても確信には至らない以上、あやめとしては紅葉を優先したいのだ。

 あるいは早々にこの人形を片付けてしまった方がいいのかもしれないと思わぬわけでもないのだが。

 じり、と幅の半分だけ足を摺る。

 途端に人形が跳んだ。何の予備動作もなく前方、あやめの方へ。大気を唸らせ鉄槌が振り下ろされる。

 初動を読むことができないその一撃は、素人よりもむしろある程度の腕に達した者にとってこそ恐ろしいものだ。見えるはずのものが見えないことによって虚を突かれてしまうのである。

 だが、あやめはいつもの禁欲的な表情で静かに見据えていた。身体ひとつ、その幅だけするりと右に動く。

 いつかは来るであろうとは判っているのだ、読めずとも不意打ちとはならない。ならぬほどの腕にまで達している。

 身ひとつ分の移動とともに刃が閃く。鎚が床を砕くよりも早く、こぼれ落ちる光が人形を撫でた。

 あやめはほんの僅かに眉を顰める。

 音と感触はあった。しかし人形は頭部の半ばまで断ち割られながら跳び退っていたのだ。先端に重心を置く鎚をあれだけの速度で打ち込んでいながら、床に打ち付けてしまうよりも早く制動をかけ、慣性を殺し切って間髪入れぬ次の動きにまで繋げてみせたのである。

 解せない。

 たった一度の交錯ではあるが、この人形は些かならず異常だと思えた。

 創生された式神の強さというものは、結局はどれほどの出力を持つかに拠るところが大きい。速く、重く、傷ついても倒れないことが強さに繋がるのだ。

 確かにこの人形も速くて力強いが、それよりもむしろこちらを慎重に窺うような雰囲気がどうにも強い気がする。

 創生型式神との戦いは嵐のような攻撃をかいくぐって一撃を打ち込む形になるのが普通だというのに、これではまるで人間を相手にしているようだ。

 余程高度な戦闘式でも組み込んであるのだろうか。

 答えの見出せようはずもなく、またも互いに機を量る。

 だが、機が来るよりも早くあやめの後方の廊下で扉の開け放たれる音がした。次いで駆け去る音。

 そして、妹が全力で扱う膨大な霊気がここにまで届き、肌に響くようだった。

「……紅葉の思い通りにとはゆかぬか」

 優しい妹のことを思って呟くも、まなざしは揺らがない。

 緩やかに長く、息を吐く。

 これでもう全力を出しても構わないということだ。




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