「夕暮れ」






 紅葉は自らのことを名前で呼ぶ。

 それは往々にして幼さの現れであると人には見られ、あるいは侮られることもある。

 仮にからかわれることがあっても紅葉は何も言わないし、改めることもない。

 理由がある。

 己を『紅葉』と第三者的に語ることによって意思の在処をぼかし、言霊の力を削ぐ鍵とするのだ。

 誰も操ってしまわないように、誰にも強いたりしないように。

 強過ぎる言霊を扱うからこそ、紅葉はただの言葉の方が難しくて好きだった。

 いつか自分の言霊をすべて掌握できるようになるまで、紅葉は自らを名前で呼び続ける。






 事件は終了した。

 屋敷の地下室からは、術で昏睡させられた上で中心静脈栄養によって生かされていた行方不明の五人も見つかった。

 医療手技にまで通じているとは、馬込涼河という男は本当に多芸であったのだと、ある種の感服も覚えないでもない。

 ともあれ平和な日常が還っては来たのだが。

 巻き込まれた者には記憶が残っている。

 千草による説明で皆、最終的に一応の理解は示したものの、問題がすべて消えるわけではない。

 心は理屈だけでどうにかなるものではないのだ。

 赤々と、春の西日の差し込む教室。生徒は既に三々五々に散り、最後から三人目も立ち去って残っているのは紅葉と今日の日直だけ。

 今がチャンスだ。

「……あの……」

 西丸亜里沙に声をかける。

 びくりと、亜里沙は肩を震わせた。振り返るのはとてもゆっくりで、こちらを向いた顔には何とも言い難い笑み。

 困惑を残しながら、自嘲するような。

「……あたしに何の用なん?」

 その口調にも明らかな棘がある。

 紅葉は小さなくちびるを震わせ、しかし今更になって何を言っていいのかは分からなかった。いつものことと言えないこともないが、こんなときでも何も浮かんでくれないのだ。

 ただ見つめるだけ、何かを言おうとしているだけで、立ち尽くす。

 亜里沙は鼻を鳴らした。

「笑えた? 最初から分かっとったんやろ? 違うて言うてたもんな」

「……全部じゃ、ないですけど……でも笑うなんて……」

 蚊の鳴くような声はまともには届かない。気弱に見つめる視線も容易く振り払われる。

「で、あたしのは妄想で如月さんはほんまに特別って? 笑えてしゃあないやろ?」

「そんなこと……」

「間違いなく特別やんか」

 吐き捨てるように亜里沙は言う。激昂こそしないものの、それを煮詰めて濃縮したような、粘りつく口調だ。

「よう分からんけど、何か術とかも使えるんよな? あたしみたいな偽物と違て?」

「それは……」

 紅葉に自分が特別であるというつもりはない。だが、そう思っていることと客観的にそうであることとは異なる。

 術法を行使できること。そればかりではなく、亜里沙の知らぬことではあるが本当は二千年前に生まれて、神や精霊の近くに暮らして、九年前まで勾玉の中で眠っていて。これを特別ではないと思う人などほとんどいないだろう。

「でも、紅葉は……」

 それでも否定しようとして。

 今度は亜里沙の頬をこぼれ落ちるものに言葉を失った。

「ずるい……」

 絞り出すような、かすれた声が胸を締め付ける。

「……なんでこんなに差があるんよ……如月さんはそんな綺麗でさあ、頭も良うて特別な力もあって……」

「西丸さん……」

 亜里沙の本当に求めているものが戦う力や術法の類であるわけではない。もっと漠然とした、そしてささやかなものだ。

 誰だって今よりも素敵な自分でありたいのだと、あるいは特別な人間でありたいのだと紅葉は思う。

 紅葉自身にしてみても、好き好んでこんな内気な自分でいるわけではない。千草や撫子のようにまで社交的にとは思わないくとも、クラスメイトとくらいなら気負わずに喋れるようになりたい。

 努力すればいい。そう、誰しもが言うだろう。

 そうなれるよう努力すればいい。それは間違いなく正しい言葉であるのだが。

 そんな誰にでも言えて誰でも知っているようなことは、もう自分でそうすると決めた者の背を押す役にしか立たない。まだ何かが見えているわけではない誰かにとって必要なのは、そんなものではないと思うのだ。

 紅葉はおずおずと手を伸ばし、亜里沙を抱き締めた。亜里沙の方が背が高いせいで抱きついているようにも見える。

 さすがに虚を突かれたのか、頬を濡らしたまま亜里沙はうろたえた。

「っ……」

「……紅葉が泣いてると……姉様はいつもこうしてくれました……」

 身じろぎする亜里沙を、紅葉は離さない。たどたどしく、語りかける。

「一番大事なことなんだって、言ってました……」

「一番、大事……?」

 亜里沙は戸惑う。こんなことをされるとは夢にも思わなかったのだ。

 しかし次の言葉にこそ最も混乱した。

「もし紅葉を特別だと言うのなら……紅葉の友達であることは特別になりませんか……?」

 見方によっては傲慢とも言える台詞だが、惑った理由はそこではない。

「……友達……?」

 二人は親しくもないクラスメイトであり、騎士の生まれ変わりなどというものが偽りであった以上、亜里沙としては今もそれ以外の何ものでもないつもりだった。

 だが紅葉は訥々と、囁くように続ける。

「栗饅頭……好きなんですよね……? 紅葉が南瓜の甘辛煮を好きなのを知ってるの、家族以外はほとんどいないです……」

「如月さん……」

 どきりと鼓動が跳ねる。首筋にかかる吐息はくすぐるようで、鼻腔にはほんのりと清々しい薫り。

 何よりも必死なのであろうことが言葉ならず伝わって来る。何も特別な力などなくとも分かることはあるのだ。

「それでも、友達じゃないですか……?」

 細く、静かな声だ。

 そして優しい。

 不意にまた涙が溢れて来た。

「あたしが友達でええんかな……釣り合えへんことない……?」

「……友達に釣り合うとか釣り合わないとか、紅葉にはよく分からないです……」

 紅葉の言葉はあくまでも訥々として、囁くようで。

 艶やかな黒髪が、亜里沙の揺らぐ視界の中でやわらかく夕陽に染められていた。






 同じ夕陽の中、道路に揺れる影二つ。

「それにしてもさ、イワちゃん」

「ん?」

「報われないわね」

「……何がや」

 千草の唐突な台詞に、巌は眉を顰める。

 またも昇降口で出くわしたのはいいとしても、なぜまた今日も付いて来られているのか分からない。事件はもう終わったはずだ。

 しかし千草はきゃらきゃらと笑う。

「ほら、警察にかけ合って行方不明者とか無理に調べてくれたの、紅葉のためでしょ? でも紅葉的には結局イワちゃんへの好感度下がってるんじゃないかなあ……って思って」

「そもそもそういう気はない。何遍言えば分かる?」

 巌には理解できない。本当に、なぜこうも色恋沙汰に結び付けたがるのか。

 紅葉に弱いのは自分でも認める。あの懸命な姿を見れば手助けしてやりたくなるのは確かなのだ。

 ちらりと千草を横目に見下ろせば、思いもかけず静かな表情。

「紅葉もね、もうちょっと大きくなれば納得できるようになるんじゃないかなと思う。元々あたしたちが生きてた環境は、むしろ今のイワちゃんより生死が容赦ない世界だったし」

「いや」

 言わんとすることを汲み取り、巌はかぶりを振った。

「一生分からんでええ」

「え?」

 千草がきょとんとした顔を見せるが説明はしない。

 紅葉は優しい子である。撫子のように無邪気なわけでもないのに、馬込涼河にも機会をなどと望んでしまうほど心根から蕩けるように甘い。

 それでいいのだと巌は思っている。その優しさの何を笑おう、何を責めよう。

 殺す覚悟だの殺される覚悟だのと、そんな碌でもないものを腹に呑まなければならない人間は少ないほどにいい。荒水波の苛烈と冷酷の理由の一つはそこにこそある。

 優しい誰かの心が惨劇の引き金になるのなら、その分の血と悪名も被ればいいのだ。

「ならな」

 道の分かれ目に辿り着く。巌は振り向くこともなく手を上げることもなく、そのまま大股で歩いてゆく。

「じゃあね、イワちゃん」

 一方、千草はひらひらと手を振りながらその大きな背中を見送り、随分と小さくなってから大きく息をついた。

 それから社への道を行こうとして、もう一度だけ振り返る。

 背中はまだ消えていなかった。

 苦笑だろうか、微笑だろうか。どちらを浮かべたのかは自分自身でも分からなかった。

「……ばーか」

 どちらにせよ、呟きはやわらかに。




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