「香」
春の陽光に海が煌めいている。
青と言おうか、それとも緑だろうか。穏やかに揺れては光を散らす。
その眩さに紅葉は目を細めた。艶やかな黒髪は緑なすと形容される由縁を示すように瑞々しく陽を吸い込み、対して肌理細かな白磁の頬は儚さを思わせる。
白いブラウスに臙脂のロングスカート。いつかの姉のような出で立ちだ。あるいは、巫女装束に似た配色の。
背後で古いバスの扉が閉まり、重い音を立てて発車する。排気の臭いを払って振り向けば、クラスメイトが嬉しそうに笑った。
「ここから少し歩くんだ。付いて来て」
「……はい」
弾む足取りの西丸亜里沙、その背を追う。
そういえば、と思い出した。彼女に声をかけられるよりも前から不思議に思っていて、公園でも奇妙に感じたことだ。
言葉。
以前は皆と同じように地元の喋り方をしていたのに、今はほぼ標準語になっている。おそらくは意図的にそうしているのだろう。時々元に戻りかけては慌てて言い直すのだ。
しかし尋ねることはできなかった。単純に、内気さのせいで。
しばらくは道路沿いに歩いた。周囲に民家は見当たらない。右手には防波堤、左には小さな山がせり出していて道路との合間に飲食店が何軒か並んでいる。
このあたりに来たのは初めてだ。バスに十五分ほど揺られ、学校から社を通り越して辿り着いた。さすがに遠いが歩いて来られない距離でもないと紅葉は思う。
風が吹いた。潮の香が鼻腔をくすぐり、木々がざわめく。
山へ入るのであろう道が行く先の脇に見えた。
「あそこから登るんだ」
こちらを振り返った亜里沙が指差した。
道は中腹の館まで続いていた。
息を荒げて登るクラスメイトの後ろを、周辺の気配を探りながら紅葉は静かに行く。
山歩きは慣れている。長い眠りにつく前の記憶は半ばぼやけているが、あの冷たい雨の日までの二年間は山で暮らしていたのだ。今の世に生きるようになってからも、大蛇の異界で遊んでいた。
木々の、土の、岩の匂いが薄い。そして替わりに人の手が入っている。紅葉はそう思う。
やがて現れたのは、確かに屋敷と呼びたくなる建物だった。煉瓦造りと思しき西洋風の二階建て。日本の気候には合わないだろうに。
小さな山である。ちらりと横を見れば木々の間からは先ほどの道路が見えた。背の高い木はない。向こうからもこの館が少しは見えてしかるべきだったはずだが、まったく気がつかなかった。
紅葉は亜里沙に尋ねる。
「ここは……特定の人しか近付けないようになっているんですか……?」
「え?」
亜里沙はぎょっとした顔を見せたが、すぐに笑った。
「……さすが巫女姫様、分かるんだ? そう、この『屋敷』の主人に招かれた人しかここには来れんように……来られないようになってる」
「わたしは望む人なら入れるように……する方がいいと思います……」
孤立させられるのは危険だ。後を追って来ているはずの姉たちが入れるようにしなければならない。いや、本当に侵入するだけであればどうとでもするだろうが、できれば忍び込めるようにしておきたいのだ。
「いや、そういうわけにも……ほら、魔獣のこともあるし」
「……残念です」
「それより中に入ろう? みんなもう待ってるはずだし」
「はい……」
誘われ、紅葉は一歩を踏み出す。
これからが本番だ。
その部屋は焚きしめた香に満たされていた。
よい香りではある。むせるほど濃いわけでもない。
紅葉は少しだけ眉根を寄せ、一通り室内を観察した。
およそ二十畳といったところだろうかと見る。高価そうな絨毯を敷いた洋室だが、紅葉は畳を単位にした感覚にしか馴染みがない。
正方形に近く、窓はない。壁を飾る様々なタペストリーには中華風から南米風、カナダの国旗にエジプトの壁画めいたものと統一感がまるで見られず、四隅の台にはそれぞれ煙を吐き出す香炉がひとつずつ。タペストリーの間から覗く壁には奇怪な紋様。
部屋の中央を占めるのは大きな丸テーブルだ。それに対して六脚の椅子は寂しいように思えた。
「さ、座って。もうちょっとしたらみんな来ると思うから」
そう言って亜里沙が先に席に座る。
まつろわぬものはこれに。そう呟いて紅葉はその隣、入口を左手に臨む席へと腰掛けた。
そして亜里沙を見つめながらどう切り出したものかと迷う。話をするなら昨日も一昨日もあったのだが、どうにも勇気が出なかった。まだ背景がまったく判っていなかったため話の進め方を想定できなかったということもある。
が、すぐに亜里沙の方から話しかけて来た。
「いよいよだね。巫女姫様が加わればきっと反撃も開始できるはずだから」
上気した頬、張りのある声。見るからに嬉しそうだ。
「…………西丸さん」
違うのだと、否定するようなことを今は言わず、素直に尋ねる。
「……紅葉は……西丸さんのことを聞かせて欲しいです」
「うん、いいよ。アルシオンには親友がいてさ」
「えっと、そうじゃなくて……」
案の定アルシオンについて語り始めようとする亜里沙を遮る。それだけでさえ緊張のあまり卒倒しそうな気分だったが、もう少し、もう少しすればもうちょっとだけ慣れてほんの僅かだけ平気になると自分に言い聞かせて耐える。
「紅葉のクラスメイトの、西丸さんのことを教えて欲しいです……」
「え……」
意図は今度こそ伝わってくれたのだろう、亜里沙はきょとんとした顔をした後で眉を曇らせた。
ひどく詰まらなそうに言う。
「別に……何もない。聞いても面白くないだろうし、喋ることも別に思い当たらないし」
「……たとえば……好きな食べ物とか……」
「それなら栗饅頭とか」
食い下がる紅葉にはさすがに違和感を覚えたのか亜里沙は戸惑い気味に、それでも素直に答えた。
「……紅葉は……南瓜の甘辛煮が好きです……」
「え、あ……うん……そうなんや。微妙に渋いな」
「あとは……風呂吹き大根も」
「……そっちはむっちゃ渋いな」
呆気に取られてか、亜里沙の口調がすっかり本来のものに戻っている。慌てて訂正する気も起こらないようだ。
実のところ、紅葉には何らかの意図があるわけではない。本当にただの世間話を、必死に続けようとしているだけである。
しかしそれは亜里沙の方から打ち切られた。
「そや! ……ああ、いや、そうだ。そんなことよりあたしの力、見せたげる」
そう言うが早いか、両手を胸の前で合わせ、眉間に皺を寄せて見るからに気力を漲らせる。
「まだこの部屋でしか使えないけど、あたしの、アルシオンの力」
ゆっくりと両手を開く。赤々と燃え盛る炎がそこに現れた。
ゆらゆらと儚げに揺らめく紅い火。紅葉は愁えげにまなざしを伏せた。
見えている。この炎が、一体何であるのか。
「西丸さん……」
「おっかしいなあ……いつもはもっと大きいんだよ? それになんか熱くない……」
「……西丸さん」
小首を傾げる彼女は紅葉の言葉に、表情に不審を抱かない。ただ己が手の内の炎を見つめ、疑問に眉をひそめるばかりだ。
不安が見える。炎の様子がいつもと異なるという、それだけのことをとても気にしている。
紅葉はそっと繊手を伸ばした。おそるおそる、亜里沙の手に触れる。ふ、と炎が消えた。
「……学校は……詰まりませんか……?」
「詰まらないというか……ほら、仮の姿に過ぎないわけだし」
言葉が速い。目が泳ぐ。この話題は嫌だと、声も表情も雄弁に語る。
紅葉が眉を曇らせ、さらに続けようとしたときだ。
「やあ、お待たせしたね」
ゆらりと、ドアが開いた。
「今の名前で名乗ろうか。私は野上清文だ。一応、神聖騎士団の団長を務めていた」
ドアの向いとなる席に腰掛けてにこやかにそう挨拶したのは、落ち着いたスーツに身を包んだ中肉中背の男性だ。年の頃は四十ほどだろうか。
一応は、人好きのする笑顔である。左目を覆う眼帯さえなければ。
「やはりこれが気になるかな。幼い頃に病気でね、治療のために摘出したんだ」
眼帯に触れながら苦笑する。
紅葉は何の反応も返さない。いつもの気弱な表情で、ただ見上げている。
その姿を果たしてどう受け取ったものか、男は喉の奥で唸った。
「確かに巫女姫様は内気な方でいらっしゃったが」
「でしょ? 絶対間違いないですよ」
「しかししっかり確かめてみるまでは分からないな。二人きりで話したい。アルシオンは外してもらえるかな。居間の方にあとの三人もいる」
はしゃぐ亜里沙をやんわりと制する顔つきも穏やかだ。それなのに反抗を許さないような強さがある。
亜里沙も素直に言うことを聞いて立ち上がった。
「じゃあね、巫女姫様」
そう言い残して部屋を出てゆく。足取りは軽く、紅葉が巫女姫であることへの確信と、野上清文と名乗った男への信頼が感じられた。
だからこそ紅葉は眉を曇らせるのだ。
ぱたん、とドアの閉じる音。
「さて……」
僅かに声音が変化している。
紅葉を見つめる隻眼も冷やかに温度を下げ、笑みは皮肉げに。
「君は……誰だ?」
口調そのものはあまり変わらない。声も穏やかで染みとおるようであることには違いない。
「もちろん名前は知っている。如月紅葉。歳は……まあこの時期だ、十四なんだろう。だが誕生日は分からない。どこで生まれたのか、どこに住んでいるのかも分からない」
紅葉は答えない。
しかし、こちらもまた先ほどまでとは異なる。亜里沙に話しかけていたときの気弱げな表情などどこにもなく、静かで落ち着いた面差しだけがあった。
相手がただの詐欺師であれば、隣には千草の姿があっただろう。そうではなかったからこそ紅葉は独りなのだ。
「答えない、か」
男は冷徹に紅葉を観察している。
「この部屋に焚きしめてある香はうちの秘伝でね、霊木と呪術とを複合して、ちょっとお喋りをしやすくするんだ」
無論、『お喋りをしやすくする』などというのは言葉の綾だ。おそらくは暗示を受けやすい状態に落とし込むのだろう。そして恐らくはこれこそが妄想を補助する要なのだ。
人の意識はあやふやなものである。触れ続ければそのうちに、最初は偽りだと知っていたはずのことすら信じ込む。言い聞かせ続けることで偽の記憶を作り出すこともできるなら、密に浴びせ続けられる妄想はやがて他者へと転移する。
ただでさえそうなのだ、そこへこの香のような力が加われば何の不思議があろうか。
こういったものが存在しているであろうことは紅葉も予見していた。亜里沙たちはこれをいつも吸っていたことになる。後遺症が残るようなものでなければいいけれど、と思わずにいられない。
「けれど喋ってくれないところをみると、どうもやはり君には効いていない。気付いたのは不思議じゃない。よくある手だからね、真っ当な術者であれば中身までは分からなくとも危険を即座に予測するだろう」
男は語る。何を狙っているのかは分からない。だが少なくとも、無意味に喋っているわけではないはずだ。
巌から昨夜もたらされた情報からすれば、そのような人物ではありえない。
「だが……どうやって防いだ? 解毒の術自体は数多の体系に、それこそ閉鎖された山奥の集落に伝わる土着の呪術にだってあるだろう。けれどこの香は本当に特別製でね、幾つもの体系の呪を練り込んで、ちょっとやそっとの解毒では歯が立たないようにしてある。お蔭で効力自体は低くなってしまったがね」
男の声に少しだけ熱が籠もる。それだけ自信があったのかもしれない。
事実、口にしたことが本当であるのなら、この香は決して容易く作り上げることの出来るものではないのである。
術法というものは単純ではない。血が要ることがある。信仰が必要となることがある。知識は必須であるように思えて、逆に無知こそが奥義へと至る条件であることもありうる。要する天性や経験、鍛錬は異なり、複数の術法体系を操るならば相互に負の影響を及ぼすのが当然だ。
だから、力を弱めたとはいえ幾つもの体系の呪を組み込むなどという芸当は余程の才に恵まれるか、工夫の果てにしか成し得ないことなのである。
「つまりこの香に対抗するためには、そのすべてへの対抗手段を持っているか、あるいは広域スペクトラムを持つ強力な術でなければならない。例えば一切の害毒を打ち払う薬師真言や孔雀明王呪、大祓祝詞のようにね。しかしずっと『視』ていたが、君はこの部屋に入ってから何の術も使ってはいないはずだ。それとも入る直前に呟いたあれで防いだとでも言うのではなかろうね」
紅葉はなお答えない。沈黙をもってただ見ている。
双眸と隻眼とがぶつかり合う。
唇を歪めたのは、やはり男の方だ。
「……聞いていたのとは違って、随分と落ち着いている。先ほどまでとも別人のようだ」
紅葉は背筋を伸ばし両手を膝の上で重ね、姿勢良くいる。張りこそあれ気負いはない。
「……あなたは何を目的としているのですか?」
男へと初めて発した声も表情と同じく、静かでいながら確かな形を持つものだった。
正直に答えてくれるとは思っていない。今まで語ったこともすべて、あるいは肝心な何か一つが偽りである可能性がある。
それでも尋ねる。
答えは、にやりとした笑みとともに。
「無論、魔獣王の打倒だよ、姫巫女様」
「中学生の捜索願が、このあたりだけで五件出されているそうです」
紅葉は告げる。
「心当たりはありませんか?」
「それこそ『魔獣』の仕業かもしれないね」
「その『魔獣』の名は……
さらりと、目の前の男の名を告げる。
男は表情をまったく動かさなかった。とぼけた笑みのまま押し黙り、そして喉を鳴らした。
「剣よ」
その言葉の響きが終わらぬうちに、武骨な短剣が部屋中を満たす。百を越える切っ先が虚空から紅葉を狙って静止している。
しかし紅葉はほんの僅かに双眸を細めただけだった。それで一切の幻影は消え去った。
壁に施された呪紋が強い思念に反応して幻影を映し出す、単純な唐繰りだ。先ほど亜里沙が作り出した炎の正体である。普段は香の効果とも相まってより大きく、加えて熱さまでも錯覚していたのだろう。
そして消すにも同じこと。望む世界を幻視することを基礎とする術法体系は多い。それを裏返して現実を『視』れば、創り出された不自然なものは消え去るのだ。
「なるほど」
馬込涼河という名の男は苦笑した。
「よく調べたものだ……というより、恐ろしいお嬢さんだ。香の効きが悪くとも、時間をかければ
名はその存在を象徴する。呪的に名を捉えれば、その存在をも捉えることになりうる。空穂名なる術は偽の名を相手に信じ込ませるという、ひとつの呪術というよりもそれ以前の防衛技術なのだろうと紅葉は推測した。
侮っていたかもしれない。そう思い、己を強く纏い直す。
「恐ろしいと思うなら諦めてください。しかるべきところに引き渡すことになりますけど」
「いや、それはどうだろう」
男の口調はなおもとぼけていた。
「護衛もいるし、あの子たちは君への人質になる。ここは私の領域だ。優秀な術者である君なら、相手の領域に入ることがどれほど不利かを知らないわけではないだろう?」
とぼけた口調ではあっても、それは威圧だ。重圧をかけ、どこかで判断を誤らせるためのものである。
だから紅葉も送り返す。
「本当に独りで来たと思いますか」
「この屋敷には招かれた者しか入れないように結界を張ってある。招かれざる客が入るには破るしかない。そして結界は今も保たれている。残念ながら援軍は来ていないということになるね」
隻眼の視線はやはり冷やかに乾いている。
「しかしそうだね、とりあえず護衛と人質を呼んでみようか。この部屋には監視システムも仕込んである。私は指を鳴らすだけでいい」
右手が動く。
止める暇はなかった。至極自然に、高く鳴り響いた。
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