前世騒動――――紅葉、クラスメイトを助けようとするのこと
「夢に見る」
間違いない。
西丸亜里沙はそう思う。
赤々と、春の西日の差し込む教室。生徒は既に三々五々に散り、最後から三人目も立ち去って残っているのは亜里沙と今日の日直だけ。
今がチャンスだ。
「あの……如月さん……」
思い切ってかけた声は、我知らず上擦っていた。
如月紅葉は目を引く少女である。
羨ましいほどに白い肌、腰まであるぬばたまの黒髪をうなじのあたりで紙縒りによって括り、気弱げな面立ちは美しいとしか言いようがない。
背丈は平均よりも少し高い程度だが、体躯は華奢そのものだ。決して過度に痩せているわけではなく、それでも首や肩の細さは印象的である。
飾りはあえて言うなれば紙縒りのみ、髪型など普通なら野暮ったくなりかねないもの、それなのに同級生がどう足掻いても届かない領域にいるのだ。
「っ……!?」
驚いたように振り向いた紅葉は、続けて怯えを帯びた表情を見せた。
「……紅葉に、何か……?」
「えっと……」
亜里沙もよく知っている。紅葉は非常に内向的だ。クラスに親しい人間もいて孤立しているわけではないものの、親しくない人間に対してはこのような態度をとる。
だが、今は亜里沙にも余裕がなかった。自分のことしか考えられなかった。
「ちょっと、一緒に来て欲しい所があるんだけど」
言った。
ついに言ってしまった。鼓動がおかしい。不規則に乱打している。
大丈夫だ。間違いないはずだ。彼女でなければ他に誰がいるというのだ。
彼女はどう見ても特別な存在だ。嘘のように美人だということもある。学業成績も学年主席だ。その上、信じがたいことにこの華奢な身体で運動能力まで高いのである。単純な筋力には秀でないということが、せめてもの欠点になっているのか否か。
特別でないはずがないと、これだけでも亜里沙は思う。その上、もう一つある。
昼休みに中庭で見かける彼女は、時々雰囲気が違う。木々に寄り添う姿はどこか神聖に感じられる。緑に守られているように見える。周囲の世界がまるで彼女のために回っているようだとすら思える。
だから間違いない。
彼女、如月紅葉こそが自分たちの頂くべき巫女姫なのだ。
亜里沙は夢に見る。
千年以上前、超文明によって築き上げられた天空の城があった。それは世界中を移動する、最強の騎士団の城であった。
何処の国にも属さず、巫女姫を主と仰ぎ、魔物が現れれば行って打ち滅ぼし、非道な僭主が圧政を布けば天誅を与えた。
騎士はすべて一騎当千、超絶の戦士たちであった。
亜里沙は幾度も夢に見る。
天空城には門がある。
それは外と内との境界となる場所だ。城壁の上などは視覚的には続いているように見えてもその外と内は完全に遮断されている。唯一、門のみが通じているのだ。
床が小さく揺れる。巨大な城が大地へと降り立った反動にしてはあまりにも小さな振動。
門の前に集う騎士たちは剣や槍で武装し、視線を外へと向けていた。
迫り来るのは虚ろな目をした、巨大な獣に似たものの群れ。
それらは獣ではない。形だけ異形の獣である、侵略する力だ。
「『魔獣』だな」
「ああよかった、『魔獣』だな」
先頭の二人の青年が本来の役割であることに頷き合う。
『魔獣』が何ものであるのかは分からない。だが『魔獣』は人を殺し、国を滅ぼす。だから見つけ次第殲滅するのだ。
無論、世界の調停者たる騎士の役目は他にもある。しかし武力をもって人を裁くよりも人の敵たる『魔獣』と戦う方がいい。だから、良かったと言う。
『敵数およそ七百、正面から一塊となってこちらへ突き進んで来ます。これを殲滅、少なくとも一時間食い止めてください』
柔らかに響く声は巫女の座の二階層下にある指令部からの連絡だ。そこに詰めているのは術者である。神器を触媒とする必要なく自力で術法を使いこなせる彼らは、直接的な壊し潰ししか出来ない騎士とは異なり極めて多彩な術を使う。この連絡も遠話の術である。
「了解した。出るぞ」
静かに鋭く、号令をかける。
デ=ネス=クォルセ神聖騎士団、その第三騎士隊二十名、いずれも一騎当千のつわものだ。それが赤い荒野に躍り出る。
十八名は三名一組となって大きく横に広がる。戦力比はむしろこちらが大きく勝ると言って良いほどなのだが、数は圧倒的に向こうが多い。固まっていては、遠くを悠々と抜けられてしまう。
そして余った二人、隊長と副隊長はそのまま『魔獣』の中央へと突入した。
目指すは一際巨大な一体。おそらくはこの群れの核だ。
言葉はない。二人は視線だけを交わす。それで充分なのだ。
「そんな感じの夢、見たことない?」
もう陽も稜線の下に落ちた時刻。公園のベンチに並んで座り、亜里沙はきらきらとした目で紅葉を見つめた。
強引に出られると嫌と言えずに引きずられて来た紅葉は酷く困惑した表情とともに無言でかぶりを振った。
しかし亜里沙は気にしない。
「うん、いいの。まだ分からないのね。あたしも最初は何のことかと思ったし」
自分も教えられ、やがて思い出した口だ。時間がかかることは覚悟の上である。巫女姫ならばその存在の大きさのせいで騎士たちよりも強力な封印がなされているはずだ。
「巫女姫様について一から教えてあげる。あ、それともあたしのことの方からがいい?」
「……えっと……紅葉はそういう人じゃないと……」
「うん大丈夫、まだ分かってもらえないのは分かってるから。まずはあたしのことからがいいかな」
「あ、あの……紅葉はお夕飯作らなきゃ……」
「本当のあたしは第三騎士隊隊長、アルシオン。なんでかこの身体は女になっちゃってるけど、本来男なの」
喋り始めた亜里沙は既に紅葉の言葉を聞いていなかった。ベンチを強く叩いた衝撃に紅葉が怯えても気にしなかった。
まくし立てる。
「愛剣は紅蓮剣シリーズの最高作、<第三炎帝>。2mくらいあるんだけど、まあ、あたしも身長2m越えてたし」
まさに立て板に水。アルシオンの生い立ちを喋り、少年時代の挫折に鼻息を荒くし、騎士団に入ってからの戦いには大きく身振りを交え、恩人の死には涙ぐみ、そして最後の戦いについて語り終える頃にはすっかり夜になってしまっていた。
「あいつの裏切りさえなければ魔獣王にも負けるはずなかった。巫女姫様も死なずに済んだ。きっとあいつも転生してると思うから気をつけて。あいつ、人の心に入り込んでくるの上手いから」
そう締めくくって、ようやく亜里沙も周囲の状況に気付いた。
「……あ、まずっ、行かなあかっ……行かなきゃいけないところがあったのに」
「……遅いから、もう帰った方がいいと思う……」
「それは駄目」
「……塾か何か……?」
「いや、違うけど」
本当は塾に行くはずの日ではあるのだが、そもそも亜里沙は最近まったく通っていない。そのようなもの、世界を守るという使命の前には瑣末事である。
「じゃあね、また明日……も明後日も駄目だから明々後日、日曜! 『屋敷』に連れてってみんなを紹介したげる」
「……いえ、そういうのはちょっと……」
「怖がらないで。目覚めればきっと分かるから。じゃあ」
「あの……」
駆け去る亜里沙を、紅葉は呆然と見送った。
三時間もの時が怒涛のように押し寄せ、過ぎ去っていた。
「うーん……まあ、なんと言うか……」
氷雨の姿だけがない、夕食の席で話を聞いた千草は苦笑いした。
「妄想? って言うか、設定? ありえないわよ、それ」
時間は遅い。ようやく家に帰り着いてから、改めて買い物に行ったためだ。
あやめはいつものように禁欲的に、撫子はどこか残念そうに、と皆それぞれの表情で頷く中、杏だけはひらひらと手を振った。
「無いって証明もほぼ不可能でしょ。や、ま、ないと思うけどね」
「……それは……悪魔の証明ですから……」
揚げ足取りにも等しい台詞を肯定し、大蛇様にお聞きすれば判るかもしれませんけど、と繋ぎ、更に紅葉は付け加える。
「でも……少なくとも紅葉が千年前にそんなところにいたなんてことはありえないです……」
「六人揃って勾玉の中だったもんね」
今度の千草の台詞には全員が頷いた。
六人は二千年の時を、魂を勾玉に封じた状態で過ごしたのだ。千年前に前世などあるわけがない。
「で……日曜に『屋敷』とやらへ連れて行かれるわけ?」
「……みたいです……」
「んなの断りゃいいじゃないのよ」
出汁巻きに舌鼓を打ちつつ、面倒そうに杏が箸を振った。
「付き合う義理なんてないでしょ? 紅葉が遅くなったら夕飯まで遅くなるじゃない」
「……止める理由がこれでもかってほど姉さんらしいわね」
やれやれと千草が頭を振る。
それから紅葉に向き直った。
「まあ、でも、行く必要ないっていうのには賛成ね。紅葉は騙されやすいし」
そうは言うものの、紅葉を侮っているわけではない。押しこそ弱いが紅葉は根本的に頭は良いのだ。騙されやすいということならば、直情的な若葉や善意が過ぎる撫子の方が遥かに危ない。
ただ、社会的なものは比較的苦手の部類に入るということと、やはり押しが弱いということは、大丈夫だと太鼓判を押すにはあまりにも心許なく思えてくる要素である。
紅葉自身もそもそも見知らぬ人間と話すことからして避けようとする性質であり、だから千草は紅葉がすぐに頷くと思っていた。
しかし、紅葉はしばらく押し黙った。
「……どうしたの?」
問うてようやく口を開いた。
「……西丸さんだけじゃないです」
訥々とした、呟くような、囁くような調子。俯き加減の面差しは濃く憂いを匂わせている。
「『みんな』って言ってました。同じ人は他に何人もいるはずです」
何を言いたいのかは皆に分かっていた。
だがだからこそ、千草は言う。
「話聞いてた感じじゃ、別に親しくないんじゃない、その子?」
「……喋ったのも今日が初めてです……」
俯いたまま、紅葉。
千草は更に続ける。
「正直苦手でしょ? 出来るなら関わりたくないくらいに」
「……話を聞いてくれない人は苦手です……」
やはり俯いたまま、紅葉。
千草はあくまでも軽く、促した。
「いいんじゃない、別にほっといても。そのうち目が覚めるわよ。大体、単なる設定の可能性は高いと思うわよ?」
「……それは駄目です」
紅葉はそれでも俯いていた。
「……多分ですけど……妄想にせよ、騙されているにせよ……複数の人間で認識を共有することによって安心を得て、強固に信じ込んでいるんだと思います。そうだったら、ちょっとやそっとじゃ自分は取り戻せないです……」
「苦手な子なのに助けに行くの? むしろ夢を壊して恨まれそうな気がするけど?」
ああ、本当に、と千草は心の内だけでこっそりと笑う。
厄介ごとは避けたいはずなのに、苦手な相手なのに、恨まれるのも嫌なくせに、行きたくなどないのに行きたいのだ。
「……行かなきゃです……クラスメイトです……」
そこで顔を上げ、紅葉は言った。
眉尻は下がり、なんだか泣き出しそうにすら見える。
ばしりと拳と掌を打ち合わせ、若葉が腰を浮かせた。
「よっしゃっ! オレが付いてってぶっ潰してやる!」
「却下」
「うわっ!?」
立ち上がったところで千草が絶妙に膝裏を打ち、若葉は見事にひっくり返った。いい音がする。
「っつぅ……何すんだよ千草姉ぇ!?」
「うわだっさ」
「るせえよ!!」
横合いからの杏の容赦ない一言に、さすがに恥ずかしくはあるのか頬を赤くしながら身を起こし、千草を恨めしげに見やる。
「なんで駄目なんだよ?」
「いや、だってあんたが行ったらミイラ取りがミイラになりそうじゃない」
「そこまでアタマ悪くねえよっ!!」
「やー、詐欺とかって引っかからないように気を張ってる時にこそ引っかかり易いから、気張る若葉はやばいと思うわけなのよ、あたし」
千草はひらひらと手を振り、それから真顔になった。
「とは言え、やっぱり紅葉独りでっていうのも不安なわけだけど……」
皆で顔を見合わせる。
現状では情報が少なすぎて、どうにも判断し難い。
「そもそも怪しいからといって力尽くで潰すというわけにもいきますまい」
「そうよね、ただの詐欺師だったりしたら紅葉のクラスメイトを取り戻すくらいがやれる限度よね」
あやめの言葉に小さく頷きつつ、思案する。
現在の社会はなるたけ乱さないようにと長姉からも言われている。例えば堕ちた神が力を振るっているのであればこちらも全力で構わない、と言うよりもむしろ全力でなければ対抗出来ないわけだが、ただの犯罪者を捕まえるとなれば警察の仕事である。
ことはできるだけ少ない人数で小さく片付けるべきなのだ。
「……うん、あたしが明後日までに調べとくわ。撫子もできれば校内の話とかをお願い。色々決めるのはその後ってことで」
千草はちらりと杏に視線をやった。
「どうせなら姉さんも手伝ってくれるとありがたいんだけど?」
「やだ」
「……ったく、暇人のくせに」
「あんた、大学生なめてんの?」
「実際、暇そうじゃないのよ」
杏はいつもこうである。頼んでも動かないか、逆に頼みもしないのに割り込んでくるか、そのどちらかであるのがほとんどなのだ。
もっとも、そもそも期待もしていなかったので落胆もなく、千草は少しぼやいただけですぐに頭をいま最も重要なことに切り替えた。
「ところで今日のお風呂の順番どうする?」
最後に入ると風呂掃除が待っているのだ。
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