「謎の如月家」

 がやがやと、十数人の声が重なる。

 あるいは被さり、あるいは一つが際立ち、総じてはがやがやと。

 出て行く者、留まる者、それぞれに様々な表情を見せる。

 放課後の教室は独特の空気を持っている。窓から差し込む茜色の光に染め上げられた教室はいっそうだ。

 終わりとしての終わりと始まりとしての終わりが入り混じり、その両者が生徒たちの胸に宿っている。

 その中で、彼女は別格だ、と公彦は思う。

 視線の先、如月あやめは窓際の自分の席でぴんと背を伸ばし、教科書やノート、筆記用具を鞄に詰めている。

 落ち着いた手つき、禁欲的な表情。何もかもが引き締まって感じる。

 今年同じクラスになって彼女を見て、少ししてから本当にこれが自分と同じ十六歳、高校二年生なのだろうかと心底疑ったものだ。

 それほどに、他のクラスメイトとは異なる空気を彼女は纏っていた。

 動揺に感じているのは自分だけではないだろう。その証拠に、彼女にはほとんど誰も話しかけない。話しかけるのは本当に用があるときだけだ。

 そのようにあやめを観察する公彦にしても、どうしても挫けてしまう。視線でだけは追っても、いつもそこで終わる。彼女が出てゆくのを見送るばかりだ。

 今日もそうだろうと自分で思ってしまうのは、要は既に諦めてしまっているのだろう。

 早めに帰らなければならない用もあり、それでも習慣のように追い。

 そして目が合った。

「っ!?」

 息を呑む。背筋が寒くなった。

 偶然に合ったのではない。こちらを振り向いたあやめは、特に訝しげな色も浮かべていない。

「やはり、私に何か用があるのか?」

 さして大きいとすら思わなかったのによく響いた。

 教室の音が一旦すべて静まり、視線が公彦に集まる。

「え、いや……」

 口籠もる。本当に、用があるわけではないだけに言える言葉がない。

 焦燥は募るものの如何ともし難い。

 どうしよう。

 とりあえず口だけ開いてみたときに、救いの女神は現れた。

「あやめ? いる~?」

 ひょいと、教室の入り口にポニーテイルが踊る。

 教室中の注意が今度はそちらに向いた。

 が、闖入者は気にも留めなかった。

 あやめの傍まで寄ると、にんまりと笑う。

「実はお願いがあるの」

「……下級生の教室だからといって、ずかずかと入り込んでくるのは遠慮願いたいのですが」

 対するあやめの口調はきっぱりとしていた。実の姉の行動によって自分まで注視されることになっても、表情は微塵も揺らがない。

「それで、頼みというのは何です?」

「ほら、あたしがいつも行ってる店あるじゃない? あそこに頼んどいたのができたらしいんだけど、今日用事があって取りに行けないの。代わりに取りに行ってくれない?」

 あやめの席の椅子を引いて腰を下ろし、千草は上目遣いと甘い声。

 横目で推移を見守っていた男子生徒たちをどぎまぎさせつつ、しかし妹には通じるはずもない。

「今日の当番は紅葉のはずですが?」

「いやいや境内の掃除じゃなくて、遊びにいく約束があってさ」

「……姉上」

 けらけらと笑う千草に、そこで初めてあやめが眉を動かした。

「あまり干渉したくはありませんが、帰りに年中寄り道をしているのはいかがなものかと」

「硬いこと言わない言わない。それが高校生活の醍醐味ってやつじゃない」

 そんなやりとりを、すっかり視線から解放された公彦は呆気に取られて眺めていた。

 会話から姉妹だということは判るが、あまりにも対照的な二人だ。

 と、その肩がぽんと叩かれる。

 そして耳元で友人の囁き声。

「もしかして知らへんの? 如月の年子姉妹って有名やぞ?」

「年子姉妹?」

 軽く向き直り、尋ねる。

「ほら、去年の三年に愉快な先輩おったやろ、文化祭のステージ乗っ取ったりしてた人」

「ああ……」

 見てはいないが、聞いたことはある。

 確かに、楽しい人もいるものだと思っていたりはした。

「……この流れで行くと」

「あの二人のお姉さん。で、今年の一年に妹がおって、中学二年と三年にも一人ずつおる」

「……六人?」

 近年珍しい大家族である。

 が、否定された。

「さらに上にも一人おるらしい」

「……そらまた凄い」

 そんなことを話しつつ、再びあやめたちの方に視線を向けると、事態は少しだけ進展していた。

 頼み込む千草に、ついに折れたらしい。

「……分かりました。ならば行って参りましょう」

「やった! 恩に着るわよあやめ?」

「要りません。それよりも次からは自分で行ってくれた方がいい」

 鞄を手に、あやめはその厳しいまなざしで姉を見やるが、当の千草に堪えた様子はない。

「あはは、じゃあよろしくね?」

 椅子を擦る音もなく立ち上がり、軽やかに教室を出て行ってしまう。

 凄い姉さんだ、と公彦が思っているうちに、あやめはため息をつくでもなくこちらも既に教室から足を踏み出そうとしていた。

 声をかける理由もなく、そのまま見送る。むしろうやむやになっていたことを思い出されずに済んでよかった。

「謎の如月七姉妹の四番目、どや?」

「……どうって何についてよ?」

 先の友人がまた耳元で囁いて来るのを振り払い、向き直る。

「大体、謎って?」

「ああ……オレ小学校んときからあいつと同じやねんけどな、あいつの家、誰も知らんのよな。家庭訪問行ったはずの担任も、どこやったっけとか言い出すんやで?」

「単に迷いやすいだけとちゃうん?」

 家を知らないというのは、ありえないとまで言うほどの話ではないと思う。

 だが、返ってきたのはきっぱりとした否定。

「小学生の地元地理知識舐めたらあかん。探検言うて草むら突っ切って訳分からんとこまで行きよったくらいやぞ? 分からんわけがない」

「けど事実として、分からんかったんやろ?」

「そらそうやけどやな……あと、十年以上ここにおるのにまったく言葉がうつれへんっちゅうんも考えてみたら変やぞ?」

「それこそ如月さんの勝手やがな、そんなん」

 鞄に荷物を入れ、提げる。興味がないわけではないのだが、生憎今日は用事がある。

「ならな、また」

「はいよー」

 話を振ってきたことそのものには大して意味もなかったのだろう。食い下がられることもなかった。












 さても妙なことになった。

 そんなことを思いつつ、公彦は横目でちらりと隣を見やる。

 今日の用事というのは、近くに住んでいる叔父の手伝いだった。叔父夫婦はパン屋を営んでいるのだがそれとは関係なく、模様替えのための家具の大移動に駆り出されたのだ。両親は息子をそういったことに気軽に貸し出す。

 特に駄賃が出るわけでもなく、アップルパイとコーヒーをご馳走になって暇した。休日に自分でやってくれればいいのにと正直思わないでもないが、叔母の焼くのアップルパイは絶品なので、まあいいかと思う。

 そして今は、その帰りだ。赤みもすっかり引いて黒に近い空の下、住宅が建ち並ぶ道を歩いている。

「……如月さんは家こっちなん?」

 気後れしつつも、凛々しい横顔に尋ねる。

「ああ」

 少しこちらに顔を向けて頷く様もまた、凛々しかった。

 先ほど出くわした時にも、こちらは腰が引けるほど驚いたのに、あやめはいつもの禁欲的に引き締まった表情で会釈しただけだった。この落ち着きっぷりは一体何なのだろうと思い、すぐに答えに気づく。クラスメイトに会っただけで驚く自分の方が、一般的にはおかしいのだ。

「どうした?」

 続けて、あやめが尋ねてくる。小首をかしげたためか、すべて後ろに流された黒髪が一筋だけ頬にかかっていた。街灯に影を落とすそれを払い、ほんの僅かにまなざしを細めた。

「教室でも思ったのだが、私に何か用があるのか?」

 決して責める口調でも急かす口調でもない。それでも、纏う空気が細められたまなざしを鋭いものに見せ、言葉を厳しいものに錯覚させる。

 公彦は目を逸らした。

「あ、いや……何でもない……」

「そうか」

 あやめはそれ以上の追求はしなかった。再び真っ直ぐに前を見て、確かな足取りで歩む。

 手元で小さな紙袋が揺れている。恐らくは、姉に頼まれていたものだろう。

 長く伸びた影が揺れる様も規則正しい。

 行き過ぎる車や自分たちの足音すら公彦にとってはどこか遠く、静寂にすら感じた。

「……この辺りに住んどるん?」

 耐えかね、尋ねる。質問が先ほどとほぼ同じであることには、口に出してしまってから気付いた。

 が、訂正よりもあやめの答えの方が早かった。

「もう少し先だ」

「へえ」

 意外と近いんやなと思い、それから公彦は我に返った。自分の家は、方向こそ同じだがまだまだ遠い。歩いては通えないほどの距離というわけでもないのだが、普段は通学にバスを利用しているのだ。だというのに何故ここまで歩いて来てしまっているのか。

 本数がそろそろ減り始めているであろうことは気にかかるが、今からでもバスに乗ろうと決める。

「……と。俺、やっぱり」

「『やっぱり』何なのかな、ボク?」

 そう言って楽しそうに笑う声はすぐ後ろでした。

 無論、あやめではない。

 虚を衝かれた公彦は反射にも近い速度で塀に張り付いた。足がもつれかけはしたが、一層無様な姿までは見せずに済んだ。

 一方あやめは悠然と振り返り、提げた紙袋を後ろにいた相手に差し出した。

「頼まれていたものです」

「ん、ありがとね」

 長いポニーテイルを揺らして受け取るその姿を、公彦は覚えていた。人の顔を覚えるのはさして得意ではないが、つい三時間ほど前に強い印象とともに焼き付けられたものを忘れるほどでもない。

 と、千草がこちらを向いた。

「確か、あやめのクラスにいた子よね?」

 教室で見た印象とは異なる、明るく素直な笑顔だ。爽やかでさえある。

「となれば、一応自己紹介しとこうか。あたしはあやめの姉で、千草っていいます。君は?」

「……木下公彦です」

 ごく普通の声で返すことが出来たのは今の彼女の雰囲気に緊張が解けたからだ。まだ心臓はやかましいが、それもすぐに収まるだろう。

 なるたけ自然な動きに見えるように塀から身を離す。

「木下君ね。ふむ」

 千草は小首をかしげ、やや上目遣いで見上げて来た。

「もしかしてうちに遊びに来るの?」

「え、いや……」

 そんなわけはない。慌てて否定しようとして、ふと思い出してしまった。誰も場所を知らない、謎の如月家。

 ほんの二呼吸ほどだが、少しの時間が過ぎてしまった。

「あれ? 否定しないんだ」

「先ほど言いかけていたのはそのことなのか?」

 あやめまで真顔で尋ねてきた。やはりいつも通りの禁欲的に引き締まった表情で、何を考えているのかまったく読めない。

 それだけに、公彦の焦りは倍増した。日も暮れた時刻に親しいわけでもない女の子の家に行きたがっているなどというのは、気味悪がられるのが当たり前だ。そんな勘違いだけは御免だった。

「ちゃう、あれはもう俺バス乗って帰るからって……」

 顔が熱くなっているのが判る。

「ほなな! 帰るから!」

 そう捨て台詞を残すと、脱兎の如く逃げ出した。

 残された二人は顔を見合わせることも無く、あやめはいつもの禁欲的に引き締められた表情、千草はにんまりとした顔で見送った。

「脈ありじゃない、あれ?」

「私には、妙な誤解を受けるのが嫌だっただけに見えますが?」

「……あやめってばほんとにからかい甲斐がなくて詰まんな~い」










「まあ」

 胸の前でぽんと手を合わせ、目を閉じたまま氷雨は嬉しそうに笑った。

 長姉にまでそんな反応をされては、さしものあやめも苦笑せざるを得なかった。

「姉様、姉上に乗せられないでいただきたい」

 夕餉も済み、順々に入浴している時間帯。月明かりの縁側で千草が氷雨に今日の出来事を語っているところへ、湯上りのあやめが丁度通りがかったのだ。

 自分と同じ単姿の千草の横に正座し、涼風に身を浸す。

 止めようという意図があるわけではないが、事実ならともかく無いことまででっち上げられかねないので見過ごせない。

「ふふ……少なくとも、その子があなたに何も思うところはない、ということは考えにくいとわたくしは思いますよ、あやめ」

 婉然と小首をかしげる氷雨は白と緋の巫女装束だ。

「それはそうでしょうが……」

 先ほどの苦笑の残滓を乗せながらも、あやめの禁欲的に引き締められた表情は揺らがない。人が人に対して本当に何も思わないというのは余程のことだ。それに、自分がクラスの中で距離を置かれていることはあやめも自覚している。

「間違いなく、姉上が囃したい類のものではないでしょう」

「ほんとに……何でこう、うちは七人もいてからかい甲斐があるのが紅葉だけなのかしらね」

 千草は小さく肩を揺らした。入浴後とあって髪は下ろしている。

「姉さんは深読みしてキレるし、撫子は素でお友達大好きだし、あんたと若葉は取り付く島もないし……あと姉様だと大蛇様を惚気られるだけだし。ここらで恋人の一人も作ってみようとは思わないの、あやめ?」

「無理に作るものではあるまい」

「いいと思う男の子とかいない?」

「いないな」

「これだよまったく」

 小さくため息をつく。本当にと、そう繰り返したのはもう何度になるかも判らないくらいに思うのだが、この類の話題におけるあやめは難儀だ。特に色恋沙汰を忌避しているわけではなく、やや疎い程度であって、それでかつ反応がこの調子なのである。

「夢がないわね」

「夢は人それぞれでいいでしょう」

「いやまあ、同感だけど……若葉みたいに夢は地上最強っていうのは正直女の子としてどうかと思うわよ。そのうち嫁が欲しいとか言い出したらどうする?」

「構わんと私は思うが」

 あやめは真顔だ。いつもの禁欲的に引き締められた表情である。

 要は、と千草は思う。感性が少々ずれているのだ。

「……いつかあんたも嫁貰いそうよね」

 今度は大きくため息をつき、しかしほどなくしてくちびるを笑みの形にした。

「うん、まあ、髪も結構乾いたし、あたしはこれで行くわね」

「……姉上」

「じゃあね~」

 むしろ上機嫌に立ち去る千草の胸の内に湧き出たものの方向性だけは察して声をかけたものの、千草はそのまま部屋の中に消えてしまった。

 二人のやり取りを見守っていた氷雨がくすりと笑う。

「また何か企んでいるのね、千草は」

「杏姉上と違って防ぎづらいのが厄介なのですが」

 千草が何かを仕掛けてくる場合、その高い対人能力と交友関係を駆使して人を動かしてくる。どこまで影響し、どこから来るかが判らない。しかも時間を置いて警戒の解けた頃に仕掛けるのである。

 害は気分に来るといった程度のことしかしないのだが、それだけに付きまとってでも止めようとまでは思えないのだ。

「ふふ?」

 氷雨はこちらを向いているが、視線は合わない。余程のことがない限りは双眸は閉じられたままなのだ。

 くちびるに乗せた小さな笑みは婉然と、かしげた小首にしなる黒髪は艶然と。伸びた背筋や綺麗に重ねられた両手はそれでなおやわらかい。

 そして、恐ろしいことを口にした。

「あまり悪戯が過ぎるようなら、久しぶりにお灸を据えねばなりませんね」

「きっと、その必要はないと思いますが。姉上も加減は心得ているでしょう」

 あやめは一応擁護しておいた。本音でもあるが、それとは別に千草が可哀想だ。あやめ自身は幸いにも味わったことがないが、杏や若葉の怯えぶりからすると、長姉の灸はさぞかし恐ろしいのだろうとは推測出来る。

「だといいですけれど」

 そうは言うものの、品良い氷雨の声にはどこか笑みが混じっている。

 あやめはゆるやかに瞼を下ろした。吹き抜けた風が肌を冷やした。

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