「帰還」

 苔むした石段を上って辿り着く、古い社。

 淡路島の隅に、その神社は存在していた。

 鳥居にはその社の名も示されていない。

 近くの住民すらも存在を意識していない、秘された社。

 ただ静かに、ただひっそりとそれは在った。

 古い拝殿、古い本殿、年老いた木々。

 広くもない境内を氷雨は掃き清める。

 差し込む夕陽には音もない。

 照らし出されたその姿はかつてと寸分違いない。

 違おうはずもない。

 腰の位置を越えるぬばたまの黒髪、二十歳前と映る震えの来るほどの美貌、巫女装束に包まれたほっそりとしていながら豊かさをも兼ね備えた体躯。

 今は閉じられているものの、開けば緋の双眸が覗く。

 そして、所作の一つ一つから醸される、尋常ならざる艶。

 そう在り、そう在り続ける、八岐大蛇の戦巫女。

 此処は、八岐大蛇の世界へと繋がる場所だ。

 妹たちはそれぞれ学校に行かなくてはならない。

 人の世の拠点として、此処がある。

「……帰って来ましたね……」

 眼を閉じたまま、石段の方を振り返る。

 妹たちの存在が近付いてくるのを感じる。

 駆け上がる二つの軽快な足音。

 まずは誰なのかを悟って氷雨がくすりと笑うと同時に、最初に飛び込んできたのは杏だ。

 すぐさま後ろを振り返り、底抜けに勝気な表情で踏ん反りがえる。

「ふふん、杏さんに勝とうなんて生意気」

「ちっきしょ~!!」

 少し遅れた若葉が、参道に倒れこんで心底悔しそうに唸っている。

 まず間違いなく、どちらが先にここに辿り着けるか勝負をしていたのだろう。それも、相当前から。

 息も切らしていない杏と荒い呼吸を繰り返す若葉、力の差は歴然としている。

 それでも挑むのが若葉であり、容赦なく退けるのが杏だ。

 もっとも、杏が手を抜かないのはただ単に負けるのが嫌いだからなのだが。

 度が過ぎると注意をする氷雨も、今回は笑って迎えた。

「お帰りなさい」

「あ、姉様……」

「ただいま、姉様」

 二人が同時に気付き、それぞれに笑みを浮かべる。

「きっちりかっちりしっかり、不届き者はあたしが締めてきたのよ、姉様」

「あ、ちょ……何だよ杏姉ぇ、手柄独り占めする気かよ? 単にとどめ差しただけだろ!?」

「あんな状況でも美味しいところをさらっていける……それが杏さんの実力」

「絶対違うっ! 絶対狙ってただけだろ!!」

 かと思えば、もう若葉が杏に噛み付いている。杏は腕組みをしたまま伏し目でにやりと笑うだけだ。

 その気の緩んだ様からは、万事が無事に片付いたのだとは分かったが。

 続いて、紅葉と撫子が頭を覗かせた。

「わ、若葉ちゃん落ち着いて……」

 瞬時に状況を見て取った紅葉は、今にも杏に殴りかかりそうだった若葉に後ろから抱きついた。

 途端に、若葉の動きが止まる。

「む……」

 若葉の筋力は見た目からは予想もつかないほどのものであり、紅葉の全力くらいであれば軽く弾き飛ばしてしまうことも可能なのだが、だからこそそんなことはできない。

「ううううう……」

 それでもまなざしと呻きだけは剣呑に杏へと向けられている。

 一応は止まってくれたことに紅葉は胸を撫で下ろす。仕掛ければ、返り討ちに遭うのは若葉の方だ。

 それに、姉様が見ている。目蓋は閉じられていても、関係ない。

「……ただいまです、姉様……」

 若葉に抱きついたままで顔だけを氷雨へと向けておずおずと、しかしその奥の喜びは隠しきれない。

 紅葉とて、高揚している。

「はい、お帰りなさい。撫子も、お帰りなさい」

 氷雨は紅葉に微笑みを返し、そしてすぐ近くまで寄って見上げてきていた撫子の頭も撫でる。

 撫子はまるで喉をくすぐられた猫のように上機嫌に目を細め、ぽふ、とそのままくっついた。

「えへへへ……」

 首筋に耳の後ろをこすりつける様などもまた、猫のよう。

 そのやわらかな栗色の髪を、氷雨は指で梳いてやる。

 そして最後に姿を見せた二人にも笑いかけた。

「千草、あやめ、お帰りなさい」

「姉様ただいま~」

 ごくごく軽い口調でひらひらと手を振る千草。

「ただいま戻りました」

 静かに顎を引くあやめ。

 そこで、声が止んだ。

 若葉は唸るのをやめて力を抜き、それを受けて紅葉も抱きついていた腕を解く。

 撫子も軽く後ずさって氷雨から離れ、にこりと屈託ない笑顔を見せる。

 一陣の風が吹き抜け、木々のざわめきの中、再び声を発したのは杏だった。

 頬にかかった髪を払い、内に熱を秘め、静かに告げる。

「やったわよ、姉様……」

「災禍は確かに除いて参りました」

 杏も、それに続いたあやめも、千草も若葉も紅葉も、撫子さえも無傷ではない。

 袖は切れ、脇腹には血が滲み、激戦の痕を生々しく留めている。

 それでも苦痛を見せている者はない。

「ご苦労様でした」

 明けた緋瞳でゆっくりと六人を順に見回し、妹たちの雄姿に氷雨は頷いた。

 労いの言葉こそ短いが、そこに込められた思いは深い。

 歪み果てていようと確かに神であるものを葬り去る、それを成し遂げるのは、人の身には重すぎるほどの所業だ。

 大蛇から名と身体を与えられていようと、妹たちはそれでもやはり人なのだ。

「まあ、結局大したことなかったんだけどね」

 ふふん、とまた勝気に戻って杏が薄い胸を張る。

 その胸を横目で見ながら千草は苦笑した。

「どっちかっていうと、この格好でここまで帰って来る方が大変だったかな」

「ここへ入ったことまでは見られていない、はずではありますが」

 あやめも思案げな声を上げる。

 確かに、目立たぬはずなどないなりだ。実に衆目を集めたことだろう。

「一応結界が張られてるから大丈夫なはず……なんだよね、姉様?」

「ええ」

 撫子の問いに氷雨は頷く。もう両の眼は閉じられている。

 この社を覆う人払いの結界は、強大な力を持つ術者をすら容易く謀る。だからこそ拠点となりえてきたのだ。

「それよりも……ふふ、お腹が空いたでしょう? すぐに夕餉の支度をいたしましょう」

「……姉様、紅葉も手伝います……」

 紅葉は半年ほど前から、料理をほぼ一手に担っている。腕前も、もう氷雨に並びそうな位置にまで達しているのだ。

 だからこその申し出だったのだが、氷雨はくすりと笑った。

「気持ちは嬉しいのだけれど、先に温まってきた方がよいと思いますよ」

「あ……」

 言われて、紅葉は今の己の姿を思い出した。白い頬が夕陽以外のものによっても染まる。逸る気持ちで馬鹿なことを言ってしまった、というだけではなく、切れ目から肌が覗いていたのだということも思い出して。

 その首に若葉の腕が力強く巻きついた。

「よっし、一緒に入ろうぜ、一番風呂だ!」

「あ、ちょっと、一番風呂はあたしに決まってるでしょ?」

 当然のように杏が割り込む。妹相手だろうと譲らない。容赦などない。実力行使に及んででも勝ち取る。

 しかし、だ。

「杏さん?」

 優しく名を呼ぶその声に、杏は一瞬にして震え上がった。

 ぎこちない動きで声の主、氷雨を振り返る。

「ね、姉様……?」

「あなたはもう少し譲ることを覚えましょう、と……何度申し上げましたかしら?」

 氷雨は笑顔だ。声も口調も、あくまでも優しい。

 だが、普段とは喋り方が違う。妹たちに対しては、もう少し砕けている。

 もっとも、そのようなことを考えるまでもない。杏にとっては聞き慣れたものだ。

「姉様ごめんなさいー!!?」

 本格的に叱られる前に、脱兎の如く逃げ出す。

 それを追うでもなく見送り、氷雨は呟いた。

「本当に、困った子……」

 苦笑交じりではあるが、同時に愛おしげな響きもある。

 そして残る五人を振り返った。

「さあ、参りましょう。大蛇さまにもご報告申し上げなければなりませんし……」

「風呂入ってからでいいよな? じゃ、行こうぜ紅葉」

「ちょっと、若葉ちゃん……」

 紅葉の手を引き、まずは若葉が駆けてゆく。

 すぐに撫子も後を追った。

「わわ、あたしも~」

「……そんじゃ、あたしたちも行きますか」

 肩をすくめる千草。

「そうですね」

 頷くあやめ。

 並んで歩き出した二人の背も微笑みとともに見送り、氷雨は箒を古びた社務所に仕舞ってから、妹たちと同じく拝殿の向こうに消える。

 探すものがいたとて、既に誰の姿も見出すことは出来ない。

 この世界での拠点たる此処から、本来の家である大蛇の異界へと帰ったのだ。










 苔むした石段を上って辿り着く、古い社。

 淡路島の隅に、その神社は存在していた。

 鳥居にはその社の名も示されていない。

 近くの住民すらも存在を意識していない、秘された社。

 ただ静かに、ただひっそりとそれは在った。

 今も同様ではある。

 しかし、もう必ずしも静かであるとは限らない。


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