六

 最後の煙草が燃え尽きようとしている。

 火はフィルターとともにわたしの唇を焦がそうとしていたが、なんだかそんなこと、どうでもいいような気分になっていた。


 結局、あれから一睡もしていない。

 眠れず、ベッドの端に腰掛けてほとんど動かず、観ているわけでもないテレビに目をむけて、じっとしていた。

 なにもする気になれず、ずーっとそうしていた。

 半ば狂いかけていたんだと思う。

 そうしているうちに日が暮れて、夜も更け、テレビの画面も砂嵐しか映さなくなって、それでもまだわたしはなにもする気になれず、横になって目を閉じるのさえおっくうでそのままの格好でじっとしていた。


 一昼夜分の時間が過ぎて、窓の外がだんだんと白みはじめた頃。


 わたしの目前になんの前触れもなく轣死体が出現した。

 もっと正確にいうのなら、轣死体になりかけの男が、だ。


 ネズミ色のスーツをだらしなく着こなしたその人は、はじめのうち半透明で、明らかに酔った足取りで安っぽいフローリングの床を上を二、三歩歩いていく。

 一歩歩くごとに色がつきはじめ、存在感を増していく。

 と、不意に崩れ落ちて四つん這いになり、いかにも苦しそうな顔をしてOの形に口を開ける。

 ゴロゴロと喉を鳴らしたかと思うと、その場に透明な液体を大量に吐き出す。

 急に顔をあげ、まるで眩しいものを見るかのように顔の前に手をかざし、目を細める。

 そして、恐ろしい勢いで体全体が地面に叩きつけられる。

 体の上を見えないタイヤが通過した。

 脇の下から肋にかけた部分が、「あっ!」と叫ぶ間もなくペシャンコになる。

 わたしは、骨と肉とが踏みつぶされるいやぁな音を聞いた。

 そのすぐあとに、おそらく後輪が腰とお腹をペチャンコにする。

 原型をとどめない内臓と体液をあたりにぶちまけて、挽き肉でできた轍を残した。

 その頃にはその人は、その人の残骸は、半透明の亡霊じみた存在ではなく、なぜかキチンとした物体としてこの部屋に存在していて、そのおかげでぶっ潰れた肉やら内臓やら骨の破片やらが飛び散ってわたしの目の下あたりにもぶつかる。

 ぺちゃ、という小気味のよい音。

 かくしてわたしは、はじめてこの部屋に死体が出現する過程をつぶさに目撃することになり、この部屋の死体はまたひとつ増えたのである。


 すでに当たり前の感情が死んでいたわたしは頬に手を当て、掌についた血をしげしげと眺め、のろのろとバスルームに足を運び念入りに手を洗う。

 手を洗いながら顔をあげると、そこには目の下に隈をつくった、まるで幽霊みたいな顔色をした女の子がいて、その子の顔を見ていると急になにもかもがおかしくなって、はじめは低く、段々高く、乾いた声で笑い声をあげはじめる。

 笑って笑って、もう息が苦しくなるくらい笑って、むせかえって、咳をして、そうやって咳こんでいるうちに気持ちが悪くなって、傍らの便器に顔をむけて苦く黄色い胃液を吐いた。

 ほとんど丸一日なにも食べていなかったから、他に吐くものがなかったんだ。

 便座に両手をついて荒い息をついていると、次第に冷静というかいくらか落ち着いた考えができるようになって、バスルームにうっちゃいといたレゲエのおじさんが着ていたボロを拾って洗面台でジャブジャブ濯いで、できたてホヤホヤの轣死体さんを片づけにかかる。 

 腕から上で腰から下は多少汚れているといっても固形物だからまだいいが、その間にあった全体の三分の二にあたる部分は液体と固体の混合物として部屋中のそこここに跳ね散らばり、あるいは付着していた。

 そのひとつひとつを、偏執狂じみた執念でゴシゴシ洗い落とし、あるいはガシゴシこそぎ落とすうちに日は昇り、高くなり、わたしの頭と体の動きは徐々に重く、鈍くなっていく。

 どうにかこうにか部屋中を片づけ終わったかなと思う頃、わたしの体は耐えられないくらいに重くなり、そのままベッドの上に倒れ込む。


 そして何十時間ぶりに快適な、夢のない眠りに落ちる。

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