壱、不思議の、国の、(4)

 すっぽりと明日葉を覆って隠してしまう程の高さのトウモロコシ畑。天辺では幾つもの雄穂が黄色く染まって、太陽に向かって背伸びをしていた。明日葉の掌よりも大きい立派な葉に包まれるようにして大事に実る雌穂はまだ小さく、収穫時期はもう少し先らしい。

 そんなトウモロコシの葉っぱを掻き分けて、明日葉は畑を抜けた。からくり人形の影がない事を確認してから、微風で土埃の波立つ未舗装の道に出る。轍の間の雑草を飛び越えると、向かいには木製の低い柵に囲まれた草原が広がっていた。明日葉はその柵に両手をついて、深く息を吐く。

 そのまま下を見て数十秒。何とか息を落ち着かせて顔を上げると、遠くの方には、牛や馬の姿が見えた。木柵から向こうは、どうやら牧場らしい。

 明日葉が深呼吸をして、しかし、息を吸った時に漂ってきた動物臭に面喰っていると後ろの方でがさり、と音が鳴った。振り返ると、トウモロコシの雄穂の揺れが徐々にこちらへと近付いてきている。まだ少し距離はありそうだが、人形たちも追いついてきたのだろう。明日葉は慌てて、何処か隠れる所がないか周りを見渡した。

 動物たちの居る奥部にログハウスが見えるが、あそこまで走り切る自信はない。しかし、そこから八十度ほど左に視線を変えると、牧場の端、森の手前に円筒状に細長い建物と、大きな建屋が立ち並んでいた。

 円筒状の建物は、石煉瓦造りの四階立てらしく、木製扉の上に連なる形で三つ窓が取り付けられていた。最上部には窓から九十度離れた位置に、もう一つ扉が取り付けられており、そこからはコの字状の金属が梯子として地上まで続いていた。明日葉が古い映画で観た記憶では確か、サイロというもので、中に家畜の飼料を置いておく倉庫である。

 サイロの隣にある大きな建屋は木板壁の一階建てで平べったく、真ん中に観音開きの扉がつけられていた。大方、家畜用の小屋なのであろう。しかも、運よく扉が開け放してある。あそこならば、少し急げば人形たちが畑から出てくる前に到着できそうだ。

 一段目の板に足を掛けて柵を跨ぎ越えると、明日葉はそのまま全速力で家畜小屋に駆け寄った。しかし、近付いてから異変に気づき、急ブレーキ。扉が馬鹿力で勢いよく開けられたらしく、蝶番が一つはずれて斜めになっていたのだ。恐る恐る中を覗き込むと、侍型からくり人形の背中があった。

「危なかった……もう、何体いるの……」

 そう呟いた明日葉は人形に振り向かれる前に踵を返し、サイロの方へと逃げる。石煉瓦に囲まれた扉をそっと引いてみると、ここも鍵はかかっておらず、静かに開いた。明日葉は恐る恐る覗き込み、藁の束しかない事を確認すると、急いで中へと飛び込んだ。

 外よりも少し涼しい空気が明日葉を覆う。サイロの中は、藁が敷き詰められ、更に隅の方には藁の山が出来ていた。上方にある三つの窓から入ってくる光が、漂う埃を四角く照らして、内部は存外に明るい。円い壁に沿う形で、古く黒ずみ、所々割れた木製の階段が取り付けられており、その階段には半周毎に踊り場が作られていた。この偶数個目の踊り場がちょうど窓の部分に当たっている。

 明日葉は、どうせならば外の様子を高い所から確認しようと、階段を上がり始めた。しかし手摺のない階段である。ミシミシと軋む音が上の階へ行くほど恐怖心を強く煽り始め、二階を越えた所から明日葉は四つん這いになって上がって行った。

 最上階へとたどり着いた明日葉は、壁に沿ってゆっくりと立ち上がり、窓を覗き込んだ。トウモロコシ畑の前には、侍人形が二体、ちょうど柵を跨ぎ越えている所だった。忍者人形が居ない所を見ると、結局川を渡れなかったらしい。そのまま観察していると、幸運にも二体の人形はログハウスの方へと歩き出した。

「よかった、こっちには来ないみたい」

 そう安心したが、早かった。明日葉の真下で、勢いよく扉が開く音が鳴った。嫌な確信をもって、明日葉は藁の敷かれた床板に伏せ、下の階を覗き込んでみる。

「うわぁ、やっぱり……」

 先程、隣の家畜小屋にいた侍人形だろう。今度はサイロの中を探しに来たのだ。

「どうしよう……」

 顔を引っ込めて、座り、明日葉は一考する。まさか下に降りる訳にも行かないし、音を立てたら居場所が知れる。明日葉が選んだのは、そっと全身に藁をかぶって隠れる方法だった。

「見つかりませんように、上がってきませんように、見つかりませんように……」

 藁の中で丸くなり、目を瞑ってそう祈っていたが、無情にも木の軋む音が聞こえて来る。明日葉は、今一度床を這って、こっそりと下を覗き込んだ。

 案の定、人形は階段を上がってきていた。ゆっくりと、しっかりした足取りで。しかも、ご丁寧に藁の山には逐一、腕を突っ込み探りながら。

 その様子に、明日葉は血の気が引いた顔を引っ込め、音をたてないように壁に持たれ掛かって座った。このままでは見つかってしまう。何とかして、ここから逃げなければ。明日葉が挙動不審に周りを見渡すと、自分の座るすぐそばに、扉が一つある事に気付いた。そういえば、外にいる時、外梯子に続いている扉が見えた。逃げ道はここだけだ。

 ぎしり、と明日葉の真下から一際大きな軋み音が鳴った。二階か三階かは分からないが、人形は真下に来ている。好機は今しかない。迷う暇など無かった。明日葉は音をたてないように立ち上がり、そっと扉を開ける。外を覗くと、立眩みがするほどの高さだ。しかし幸いにも、周りには何もいない。

「あの吊り橋よりはマシかな……」

 半ば自分に言い聞かせるように呟くと、明日葉は後ろ向きに扉から出て、コの字の金属に足を掛けた。高所に震える手で、出来うる限り慎重に扉を閉めると、そのまま一歩一歩確実に足場を確認しながら、地上へと向かう。地面に降り立つと同時に、小屋の裏に森の中へと続く小道があるのを見つけた。

「こっちに行くしかないかな……」

 そんな独り言と共に、明日葉は小道へとつま先を向け、歩み出した。

 木の根が所々足を引っ掛けて邪魔をする森の一本道は、途中から登りの傾斜が始まり、明日葉が知らぬ間に山へと入った。逃げ回る緊張が長く続き、もはや明日葉は何事も考えるのが嫌になっていた。それに、何か考え出せば、きっとまたあの広場の時のように涙が溢れてくる。だから、今は、ただただ歩く事だけに集中して、無心を貫くことにした。

 そうする事、数十分。改めて明日葉が疲れを感じ始める前に、開けた場所に出た。そこには傾きかけた金色の太陽と新緑の木々を映して煌めく、小さな湖。ちょうどその真ん中あたりには明緑色の芝生の包む島があり、その上には、窓のない小さな赤い屋根の小屋。

 道を外れ、岸に立った明日葉。その肌に伝う汗を、涼しい風が拭う。湖に映る景色を観ていると、明日葉はこの島に来て初めて、空が青々と無限に広がっている事に気付いた。そして、そんな爽快な風景を前に、光に包まれて、思わず明日葉はお日様に向かって両手を広げ、胸いっぱいに空気を吸ってみる。新鮮な森の香りが身体に沁み渡り、心に少しの安らぎが与えられた。

 足元の湖面に目を移すと、湖底に転がる藻の生えた石や、青々とした水草が、かなり遠くの方まで目視できる程、透明度が高かった。足を少し動かすと、こつん、と爪先に小石が当たって湖の中に落ちた。その石がゆっくりと沈んでいく様を追って、明日葉は膝を曲げ、湖を覗き込んだ。

 波紋が落ち着いた水面に、半透明に透けた自分の顔が映る。その顔が、自分でも何やら心配になる程、不安そうで、情けなくて、やつれていて。思わず明日葉は手で水を掬い、顔を洗った。何度も何度も水を掬って、自分の中から弱気を洗い流そうと試みた。それから、ぱんっと両手で頬を叩いて気付け。その手で顔を覆ったまま、目を瞑って呼吸を深くし、暫く自らの心を整える。

「この島から出るまでは、もう泣かない」

 決心を新たに、明日葉が目を開けると、湖面の顔も少しはましになっている気がした。よし、頑張ろう。無理に笑顔を作って頷くと、明日葉は勢いよく立ち上がった。

 それから、湖に背を向け、湖面に沿った小道へと戻ろうとした時だった。ふと、明日葉には何か聞こえた気がして、息を止めて耳を澄ます。暫時そうしていると、やはり蝉の煩わしい鳴き声に混じって、喚く声と、何かを叩く音が微かに聞こえていた。明日葉は両耳に手を当てて、辺りをくるりと回ってみる。どうやらその音は湖の真ん中あたり、小屋の方から聞こえているようだ。中に何かいるのかもしれない。明日葉はそう思ったが、しかし、今は湖を渡れない。そもそも、何が出てくるかも分からない、近寄りたくもない。

 余計に増した小屋の気味の悪さに身震いをすると、明日葉はそそくさと小道の方へと戻っていった。そうして、湖面に沿って歩いていると、湖の向こうに、今まで木の陰に隠れていた山の山頂が見え出した。いつの間にか、それ程遠くない所まで来ている。そして、この距離になって初めて分かった事に、山頂には何やら紅色で和風建築の塔が建てられているようだった。

「あそこからなら、この島全体を見渡せるかもしれない」

 明日葉は湖を半周して、山頂の方へと延びる小道を行く歩調を速めた。

 湖から道が逸れ、再び森の中へと入り、登り傾斜がつき始めた所である。明日葉は無造作に置かれた、木板の雑な立て札に出くわした。道の先を指し示す矢印の横には、こう記されていた。

「この先、一本道。知れば山頂行き。知らずんば、迷いの森。知らずんば、引き返さなくても引き返す」

 明日葉には、今一つ書いてある内容が良く分からなかった。道は目の前に続いている上に、一本道と書いてある。それなのに迷いの森。迷いようがないではないか。この島の回りくどさは、明日葉にとっては苛立たしい。

「ま、道を逸れなかったら、迷ったと思った時、引き返せばいいよね」

 明日葉は楽観的に立札を無視して、そのまま山を登る事にした。

 天を覆う葉に太陽は殆ど遮られ、所々を白く照らす程度で、湖の周りと比べて薄暗い。ひょろりとまだ弱弱しい細い木々から、ずんぐりと太って幹もひび割れた老木までが節操なく立ち並び、その足元には多種多様な緑色の雑草が茂っていた。その間を落ち葉の薄灰色が、手書き線のようにうねりながら、どこまでも続く道を描いている。

 その道を進むにつれて、徐々に霧が出始め、深くなってきた。とはいえ、先数メートルほどは目視で確認できる上に、はっきりと地面の色が違う為に道を逸れる事はないはずだった。

 しかし、明日葉は、気が付けば行き止まりに行き着いていた。目の前を木が覆い、乾いた落ち葉の道は、ぷつりと途切れている。

「あれ、迷った? 一本道のはずなんだけど……戻るしかないかな」

 仕方なく、明日葉は霧の中、もと来た道を辿って引き返してみるが、数分としない内に霧が晴れて、立て札が現れた。

「この先、一本道。知れば山頂行き。知らずんば、迷いの森。知らずんば、引き返さなくても引き返す」

 何かがおかしいと感じて、明日葉は後ろを振り返ってみる。遠くを見渡しても霧など微塵も見当たらない。首を傾げながら一本道を引き返して、先ほどの行き止まりへと行こうとすると、そのまま見覚えのある景色を抜けて、湖へと出た。湖の真ん中には小屋がある、先ほどと同じ場所だろう。

 明日葉は、顰め面でもう一度、先ほどの立て札まで戻ってきた。此処までは霧もなく、先ほどと同じである。立て札を今一度、読んでみる。

「なるほど、引き返さなくても引き返すってのはそういう事ね」

 妙に納得させられた明日葉だった。もう不思議な事に慣れつつあったし、それ程驚きもなかった。むしろ、苛立ちの方が強い。

「だから、なんなのってば。一本道で山頂行きって書いてあるのに。だいたい、知ればって何? 知らないから立て札を見るんじゃない」

 文句を口にしながら、明日葉はふくれ面で立て札を睨み付けた。と、同時に、森の方から、がさり、と物音がして、その場を飛び退く。転びそうになって、立て札にもたれ掛る形で何とかバランスを取った。音のした方に目をやると、ウサギが飛び出し、道を横切って去って行っただけだった。

「もう、人形かと思ったよ……」

 明日葉は、ほっと息をつくと、立て札を手で押して立ち上がろうとした。その時、札の裏面に、赤いペンで小さく何やら書かれているのを見つけた。

「矢印の方向に爪先を合わせて300歩。道を信じるな、真っ直ぐに行くこと、か」

 明日葉は声に出して読んでみた。普段なら胡散臭いと一蹴したかもしれないが、先ほどの自分の体験から、信憑性が高く感じられた。

「やってみようかな」

 そう呟くと、明日葉は立て札の横に立ち、記されたとおりに矢印の方向と体の向きを合わせた。それから、まっすぐに前だけを見て歩いてみる。

「一、二、三、四……六十三、六十四……」

 直線に歩くと直ぐに先ほどの小道から外れたにも関わらず、不思議なことに一度も行く先に木々が立ちふさがる事はなかった。霧も一切出ていない。一見、竜の髭やシケシダが足元を隠し、曲がりくねった枝が行く手を遮るように見えても、跨ぎ越えたり、少ししゃがんだりすれば避けられる程度だった。

 いよいよあの赤字の信憑性が出てきて、明日葉の歩調が速くなっていく。

「二百九十八、二百九十九、三百! ……って、え、結局、行き止まりじゃない」

 数え終わると同時にエノコログサを跨ぐと、谷に突き出した岩場に出た。向こう岸にも同じように岩が突き出た所があり、その先には道が続いているものの、岩の間は六メートルほど離れており、飛び移るには無理がある。

 明日葉は岩の上に四つん這いになって、恐る恐る谷底を覗き込んでみた。ごつごつとした岩肌の隙間を、翡翠色の水が静かに流れている。高さに身震いした明日葉の髪から、葉っぱがゆらりと落ちていき、数十秒ほど経って、静かに流れる川に波紋を作った。

「これはダメ、落ちたら死ぬ……」

 明日葉は四つん這いのままで、岩縁から後ずさりした。しかし、その時、岩肌に、向かい側の岩を指した矢印と赤字が記されているのを発見した。赤字では、こう書かれている。

「この先、見てはいけない橋。目を瞑って歩け、手摺に沿って。途中で目を開ければ落ちる。その先は山頂まで一本道」

 なにかトンデモナイ事が書いてあるような気がして、明日葉は何度も読み返したが、内容は変わらなかった。

「本気で言ってるの、これ……」

 明日葉は立ち上がって、今一度岩の縁に立ってみる。下を眺めて、生唾を飲み込んだ。それから、書かれたとおりに目を瞑って、一歩踏み出そうとしてみるが、後ろに飛び退いてしりもちをつく。

「無理無理無理無理!」

 そのまま真っ逆さまに谷底に落ちる想像をして、明日葉は身震いした。

「え、絶対無理だって、これ。なにか他に無いの……?」

 もう一度、先ほどの赤字を読んでみる。

「手摺に沿って……? 手摺なんて……もしかして、見えないだけ?」

 明日葉は思い立ったように立ちあがり、先ほどと同じように縁に立って、周りを見渡してみた。何もない。周辺を手で探ってみる。何もない。

「や、何にもないじゃない。罠? これ、罠? これで目を瞑れって、目を瞑ったって……」

 そう言いながらも、明日葉は目を瞑って、もう一度周りを探ってみた。すると、手に何か角ばったものが当たった。手探りで両脇をしらべると、その角ばった何かはそのまま真っ直ぐ明日葉の前へと延びているようだった。

「え……?」

 眉をひそめた明日葉が目を開けてみると、先ほどまでは何一つなかった自分の目の前に、朱色の欄干を持つ古いアーチ式の木橋が現れていた。しかし、それも一瞬の出来事。橋は、明日葉が声を上げる間もなく、すぐに透明になって消えていった。手で触れていた触感もなくなる。

「そういう事ね。なるほど、それで見てはいけない橋か……赤ペン先生を信じるしかないかな」

 あの赤いメモに、勝手なあだ名をつけた明日葉は、小さく決意の吐息を吐くと、再度目を瞑った。両側の手摺をしっかりと握り、一歩一歩、先に足の踏み場がある事を確かめながら進んでいく。

「ここって、今ちょうど谷の真上だよね……」

 数歩歩いたところで、そう思うと、なんだか恐ろしくなって、明日葉の瞼には力が籠った。

 足早に進み、両手が円いものにぶつかる。それを終点に、角張ったものもなくなった。渡り終えたのだと直感した明日葉は、下を向いて恐る恐る目を開けてみる。しっかりと岩肌がある事に安堵し、瞬き。振り返ってみれば、橋が消えて行き、向こう側は先ほどいた所だ。なんとか渡り終える事が出来た。

「さっすが、赤ペン先生!」

 そう言って調子よく胸をなで下ろすと、明日葉は先を急いだ。

 そこからは赤ペン先生の言う通り、一本道が続いていた。これまでと変わらない山道を歩く事、一時間半強。道に敷き詰められた落ち葉がなくなり、砂地となった。木々が捌けはじめ、道の周りは背の低い草だけとなる。

 もうここまでくれば、頂上に建つあの塔の大きさも増していき、その姿がはっきりとしてきた。朱色に塗られた木製の骨組みが鮮やかに映える、白い土壁。それと交互に重なって積み上げられていく、灰色の瓦屋根が五つ。頂上には、クジャクの尾のような形の木製細工が突き刺さっていた。高さが何メートルあるか分からないが、山頂に到着し、手前に立った明日葉には、修学旅行で見た五重塔のように見えた。

 暫く呆けて塔を見上げていた明日葉だったが、ふいに髪を風に煽られて、振り向いた。目の前には、開放感あふれる青雲が果てしなく広がり、深みのある紺碧の大海がどこまでも伸びていた。ここからでも十分に、島全体が見渡すことが出来る。

 島はほぼ円形をしているようである。しかし、明日葉にとっては絶望的な事に、周りはどれだけ遠くまで見渡しても、何一つ浮かんでいない。他の島もなければ、船すら見えない。海の果てでは、ぐるりと水平線が円弧を描いているだけで、明日葉には「孤島」という言葉の持つ寂寞が妙にしっくりときた。

「やっぱり、此処は、違う世界なのかな……」

 これまで島であった人々の言葉が、その考えを支持するように頭の中でリフレインを起こして、明日葉の心臓を圧迫してくる。青空の際涯を眺める程に増してくる孤独感。それに飲み込まれ、俯きそうになるのを我慢して、明日葉は首を強く横に振った。

「心を強く持たないと」

 明日葉はそう呟くと目線を前に向ける。気を取り直して、島全体を眺めなおしてみた。

 此処からだと、先ほど通ったあの湖も見える。楕円形になっており、やはりあの小島はちょうど中央に位置しているようだ。そこから少し離れた所に目をやると、自分が居たであろう牧場とトウモロコシ畑。川を隔てた林の向こうには、三体の人形に追い詰められた小さな町も見える。町から近くの海岸線へと視線を移せば、自分が流れ着いたであろう砂浜を見つけた。

「カヤさんとあのピエロさん、大丈夫かな」

 明日葉は自分を助けてくれた人たちに改めて感謝し、無事を祈った。

 そこからまた、島を見渡したが、他に町らしい所はない。あと一つ、目立つ建物と言えば、砂浜から海岸線を辿って百二十度の場所に位置する、大きな日本風のお城。此処からでも、天守閣と三つの物見櫓、石の城壁がはっきりと確認できた。そのお城の陰からは、吊り橋が真っ直ぐに伸びていて、海に刺さった巨大な岩へと続いている。

「あ、あそこだ! 私、あそこから来たんだ。あそこに行ったら、帰れるのかな?」

 しかし、明日葉の今いる位置からでは、その吊り橋が島のどこから始まっているのかは分からなかった。もっと高いところから見る必要がある。そう考えた明日葉は、振り返って、塔を仰いだ。

「登ったら、きっと見えるよね」

 塔の土台となっている石段を上がり、観音開きの戸を目の前に立つ。縁には金色の細工が施された立派な扉だが、中央には木製の太いかんぬきが付けられているだけだった。少し押してみると、かんぬきが撓んで、隙間が空く。かんぬき以外に鍵はなさそうだ。

 明日葉はかんぬきの下に肩を入れて、横にずらした。金具から滑り落ちた角材が大きな音を立てて、塔の立つ石の土台に叩きつけられる。その音と一緒に、角材が外れた側の扉が、ゆっくりと独りでに開いた。

「よし」

 そう勢いよく呟いて明日葉は中に踏み込もうとしたが、直前になって足が竦んだ。塔の中には光が全く入らず、漆黒が支配していたのだ。

 明日葉には、幼い頃に停電でエレベータに閉じ込められた経験がある。それが原因となって、今でも、暗所と閉所が同時に迫ってくる事には、耐え難い恐怖を感じるのである。あの時は父親が一緒で、ずっと明日葉を抱きかかえて宥めてくれていたから何とか乗り越えられたが、一人でいる分には、どんな高所よりも狭く暗い所の方がずっと苦手だった。

「うう……やっぱり無理かな……」

 明日葉が踏み込みかけた足をその場に戻し、鼓動の上がる心臓を手で抑えていると、塔の一階に蝋燭の光が灯り始めた。入り口の方から順に、両脇を回り込む形で、室内に八つの灯りが浮き上がる。

「誰かいるの?」

 そう聞いた明日葉の声は、中に反響して上の方へと消えていった。返事はない。しかし、これならば少し我慢すれば入る事が出来る。明日葉は、力を込めた拳を作って、塔へと足を踏み入れた。

 塔の中は、それでも暗かった。夏にも関わらず、此処だけ季節が違うかのようにうすら寒い。中央に朱色の大きな柱があり、四辺の壁に沿って、らせん状に階段がつけられている。あとは、壁に掛けられた金色の蝋燭縦だけ。

 明日葉が怖じ怖じと奥の階段の方へと足を進めていると、どん、と目の前に、何かが飛び降り、立ちふさがった。

「ひっ」

 短い悲鳴と共に、明日葉は尻餅をつく。手と尻に当たる床板が、ひんやりと冷たい。その体制のまま、見上げてみると、二メートルを越える巨大なからくり人形の背中があった。黒い着物に、白い頭巾をかぶって、大きな薙刀。弁慶型、とでも言うべきか。

 弁慶人形は、ゆっくりと振り返って明日葉を確認すると、手に持つ薙刀を思い切り振りおろした。空が掻き分けられる甲走った音が、コンマ数秒間だけ鳴る。

「わっ!」

 明日葉は間一髪で、転がって避けた。うつ伏せのまま横を見ると、鋭利な刃が深く床板に刺さっていた。これは殺される。捕まるのではなくて、殺される。生唾を飲んだ明日葉は、慌てて立ち上がり、出口を目指した。

 再び風切り音が聞こえて、明日葉は思わず身体を投げ出して伏せる。立ち上がりながら後ろを見ると、今度は中央の柱に刃が突き刺さっていた。明日葉の背筋の血管に冷水が走り、全身に鳥肌が立つ。しかし、今ならば弁慶人形は深く突き刺さった薙刀を抜くのに苦労している。

 明日葉は、這っているのか走っているのか分からない体制で、何とか外へと逃げ出した。転がるように石段を下りる。そこでやっと立ち止まり、震えの止まらない肩を摩りながら、塔の方を向いた。

 弁慶人形は、入口より大きかった。肩が出口につっかえたようである。歌舞伎顔の面に白頭巾を被った頭だけを塔から出し、身体を揺すっては何とか外に出ようと粘っていたが、暫くすると中へと戻っていった。

「諦めたかな……」

 明日葉が一安心したのも束の間、弁慶人形は直ぐに出口に向かって体当たりを始めた。引っ込んだのは、助走の為だったのだ。見かけより頑丈な建物は上方の屋根が小さく揺れるだけで、びくともしていない。それでも、その内に飛び出て来そうな気がして、明日葉はおっとり刀で五重塔を後にした。

 吊り橋の位置は分かったのだ。直接あのお城の辺りに行けばいい。今わざわざ、命を懸ける必要はない。そう考えた明日葉は、そのまま下山道に着いた。

 帰り道も霧は一切出なかった。あの橋を往路と同じように目を瞑って渡り、その先も真っ直ぐに歩けば、湖まで帰ってくることが出来た。後はそのまま小道を行けば、牧場に帰り着く。その頃には、もう日が赤く傾き、カラスの声が聞こえていた。それでも、どうにかして、あの吊り橋までは行きたかった。

 明日葉は先ず町まで戻ろうと、牧場を歩き出す。しかし、トウモロコシ畑の前に、二体の侍人形が見張りのように鎮座しているのを見て、回れ右。再度、サイロの陰に隠れる。

「うそ、まだいるの……?」

 仕方なく、明日葉はこっそりと、あのコの字梯子を渡ってサイロへと入った。窓から外を見てみるが、こちらに向かう者はいない。気付かれずに済んだようである。

 安全地帯を確保して一先ず安心した明日葉は、藁に身体を預けて一休みする事に。それから落ち着いて、この先の事を考えようと思っていたのだが、さすがに疲れが溜まっていた。一日中逃げ回り、山登りまでした身体では、徐々に襲ってくる睡魔から逃れる事は出来なかった。

 藁の心地よい柔らかさに包まれて、明日葉の瞼はだんだんと重たくなって行く。そして、ついにはそのまま小さな寝息を立て始めた。

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