壱、不思議の、国の、(3)
この土地の季節は初夏らしい。電池の切れかかったブザーのような鳴き声で作り出す、アブラゼミの不協和音ゲリラライブ。それが、其処彼処で開かれていて、明日葉の精神を平らに削っては、無我の境を歩かせた。
艶やかに新緑を尖らせた松葉の隙間からは太陽が漏れ出て、ちらりちらりと催眠術を掛けるかのように、定期的に目に入ってくる。それは敵か味方か、明日葉の意識を薄めると同時に身体を暖めてくれる。しかし、さすがに暑くなってくれば、生乾きの下着が浴衣の中で蒸されて気持ち悪い。それでも、ここで脱いで乾かす勇気は明日葉には無かった。
じわりじわりと汗が滲み出て来た頃、明日葉は樹林に挟まれた小道に辿り着いた。小道には目印に丸く平らな石が不定期的に連なっており、砂の色も周りの林より黄色く、粒が細かである。明日葉は辺りを確認し、追っ手の居ない事に胸を撫で下ろすと、その道を歩み始めた。
あれから何歩歩いたろうか。実際はそれ程長い距離ではなかろうが、不安に駆られた見知らぬ道は遠い。飛び飛びの敷石を追って目線を地面に落とし、無心で歩いていれば、土に粘り気が増して、草が生え始めて来たかと思うと、辺りからは海辺の香り漂う松が消えた。代わりに鬱蒼と苔のついた密度の高いクヌギが明日葉を囲い、太陽を覆っていた。
暖められた新鮮な空気も、この状況では寧ろ生臭かった。それが引き起こす胸焼けを忘れる為に、明日葉はやはり下を向いて無我で歩く。すると、突然、前方に何か大きな影が現れた気配を感じた。はっとして明日葉はそこで初めて顔を上げた。目の前には、三メートル程の高さの木製アーチが迫っていた。道の両脇にある大木二つ、その間に円弧状の板材を釘で打ち付けたもので、色むらのある薄いペンキでこう書かれていた。
『ようこそ、永幸村へ』
怪しげな名前。しかし、油断していた。これが巨大なからくり人形じゃなくて良かった。明日葉は軽い息切れの中に不安と安堵を交えながら、アーチを潜った。
そこからは視線を一直線にして進むと、道が広がり、石畳となった。木々が途切れ、向かい合った形で建てられた、赤煉瓦造りの建物が姿を現す。煉瓦は深紅に黒ずんだり、薄紅色になったりと色はまちまちで、角も殆どは丸まって、それ以外は欠けていた。煉瓦の大きさも安定せず、白く四角い窓枠の手前では無理やり調整したように、小さく切って隙間が埋められていた。それは、分厚そうな木製の扉を嵌め込む為にアーチ状に整えられた出入り口も同じである。
明日葉が立ち止って、突然現れた街並みの、そんな欧州史的な佇まいが醸し出す人間味溢れる空気感に妙なギャップを感じていると、手前の建物の扉が開いた。中からは、食指を刺激する焼きたてパンの香りと共に、紅いスカートと白いエプロンが印象的なディアンドルの格好をした三十路過ぎの恰幅のいい女性が箒を片手に出てきた。
女性は直ぐに明日葉に気付いて背筋を伸ばし、声をかける。大きなだみ声だ。
「あら、見かけない顔ね」
明日葉は何となく申し訳なさそうに、曖昧な愛想笑いを浮かべて、頭を下げた。そんな様子と、街並みにミスマッチな浴衣姿がよほど貧乏臭く見えたのかもしれない。さらに、先ほどのパンの香りのせいで、恥ずかしくも明日葉のお腹の虫が鳴いた。そう言えば、お昼ご飯を食べる間もなく片付けをしていて、そのまま飛び出してきたのだ。
そんな明日葉を見かねてか。
「んー少し待ってて」
女性はそう言うと慌ただしく扉を開けて、家に入って行った。待てと言われた矢先、そのまま歩いていく訳にも行かず、明日葉が落ち着かない様子で立ち尽くしていると、先ほどの女性は三分としないうちに小さな紙袋を持って出てきた。そして、にこにこと笑いながら、その紙袋を明日葉に渡して、こう言う。
「お腹、空いてるんでしょ? これでも持っていきなさいよ。うちの店自慢のサンドウィッチよ」
明日葉が中をのぞき込むと、バケットをスライスして間にハムとレタスとチーズを挟んだものが二つ、瓶牛乳が一つ入っていた。明日葉は紙袋を受け取りながらも、戸惑って上目遣いで女性の顔を伺う。
「え……でも……私、お金もってません」
女性は一瞬、真顔になったかと思うと、すぐに優しい顔になって心配そうな明日葉を笑い飛ばした。
「お代? あはは! 気にしなくていいわよ。困った時はお互い様よ。言うじゃない、情けは人の為ならずって。見ず知らずの人でも、困っている人を助けるのは当然よ」
大きな声でそう言って、ウインクをして見せる女性。そんな女性の声を聞いてか、パン屋の向かいの建物から、頬髯を生やした桑年の男性が顔を出した。こちらはポンチョに麻のズボンとシャツ、皮製のベスト、ウエスタンハットというメキシカンスタイル。先ほどの女性とは全く違った服装で、なんだか街並みにもミスマッチだ。
しかし男性は住み慣れた様子で、葉巻を口から離してわざとらしい口調でこう言った。
「なんだか騒がしいと思ったら、やっぱりニーナか」
「騒がしいってのは、余計だね。こんにちは、タオさん」
先ほどのパン屋の女性ニーナは冗談めかして口をゆがめた。
「ああ、こんにちは」
タオと呼ばれた男性はそう言ってにこやかに受け流すと、明日葉に物珍しそうな目を向ける。
「おや、そちらの御嬢さんは初めて見る顔だ」
「えっと……」
明日葉が返答に困っていると、タオは眉間にしわを寄せて、再び葉巻を口に戻す。それから、自分の羽織っていたポンチョを取って、明日葉の肩に掛けた。
「なんだか寒そうな格好だ。それじゃあ夜に冷えるから、これを持って行きな」
葉巻を口に咥えたままで、滑舌悪い言葉。
「え……でも……」
またも唐突の親切に明日葉は言葉を詰まらせたが、タオはお構いなく、陽気に口角を引き上げた。口から葉巻を離し、誰もいないところに煙を吐いてから、やんちゃっぽい恰好とは裏腹の優しげな瞳で再び明日葉を見る。
「いいから、いいから。ちょうど君と同じ年頃の娘がいるんで、なんだか放っておけなくてね」
その言葉に、ニーナが乗っかってきた。
「そう言えば、今日はそのセッちゃん見てないね。どうしたんだい?」
「あのお転婆娘、早朝からどこかに出かけててよ。どこに行ったんだか……まあ、そのうち帰ってくるさ」
「男でも出来たんじゃないのかい?」
顎を引いて、横目とも上目とも取れる表情でいやらしくイタズラな笑みを浮かべるニーナ。そんなニーナを、タオは一笑に付す。
「まさか、それはないさ。昨日までの様子を見ててもね」
「いやー分からないよ? セッちゃんもお年頃だもの」
「ないない!」
「そう信じたいだけじゃないの~?」
二人のたわいない会話について行きようもない明日葉は、しばらく脇で聞いていたが、ふと、この親切で年齢も重ねている二人なら分かるかもしれないと思い立ち、勇気を出して話に割り込んでみる。
「あの~……」
「おっと、悪いな。置いてけぼりにしてた。何だい?」
タオが少し申し訳なさそうに肩をすくめた。明日葉は、頭を下げながら、尋ねる。
「すいません、ここって何処ですか?」
明日葉の質問を聞いた二人は、ぽかん、という擬音が適切であろう、あっけに取られたような顔になった。二人で顔を見合わせて、首を傾げ合った後で、ニーナが答える。
「ここがどこかって? そりゃあ、永幸村よ」
それはさっき書いてあったから知っている。自分の知りたいのはそういう事ではない。明日葉は、言い方に悩みながら問い掛けを続ける。
「いえ、そうではなくて……もっと広い意味で、県名というか国名というか……」
「国名? 国名って言うのは、ロングハッピーアイランドの事か?」
タオの言葉に、それが国名なのかと嫌な予感で満杯の明日葉。もう少し具体的に聞いてみようと、頑張ってみる。
「えっと……どういったらいいのかな。その……世界地図で言うとどの辺ですか?」
「世界地図? 何だい、それは?」
ニーナの答えは、全くの予想外で、全くお話にならなかった。世界地図が良く分からないというのはタオも同じらしく、二人してまた顔を見合わせて首をひねっている。全く持って釈然としない。良く分からない場所であるという確信が明日葉の中で強くなり、喉まで上がって来る程、胃酸が強くなっただけだ。
しかし、これ以上は訊いても意味がないだろう。明日葉は、諦めて、二人に話を合わせてここを切り抜け、他の手掛かりを探す事にした。
「うーん……そのぉ……あれ、そうか。なんだか、変なこと言ってますね、私。ちょっと混乱してました」
「大丈夫かい?」
そう言うタオの顔は、本気で心配するそれだった。どうもあの仮面の男とからくり人形以外であれば、この島の住民達は人柄が優しい。さすがにこんな良い人達に心苦しい思いはさせたくない。そう感じた明日葉は、精一杯の作り笑顔で頷いた。
「はい、ちょっと寝惚けてました。それじゃあ、私はこれで。先を急いでいるのを、思い出しました。その、サンドウィッチとこの羽織、本当にありがとうございます!」
明日葉は、深々とお辞儀をすると、二人の顔を確認する事なく、その場を立ち去り、石畳の道を早足で歩み始めた。
「意味わかんない、意味分かんない」
眉間にしわを寄せて小さく何度も呟きながらも、折角の親切に対して失礼な事をしてしまっている自覚はあった。申し訳なく思う明日葉だったが、そのまま話し込んではパニック状態になりそうだった。今ですら頭の中を、口にした言葉通り「意味わかんない」が駆け巡って、胸焼けまでしている。他者に気を利かす余裕など無いのだ。
取りあえず、どこか座って落ち着こう。明日葉は自分に言い聞かせる。そうだ、腹ごしらえをしよう。そうすれば、もう少し冷静になれるかもしれない。何か良い考えでも浮かぶかもしれない。
益々明日葉の歩調は速くなり、街角を曲がると開けた場所に出た。木々と建物に囲まれた四角い広場で、真ん中には白い石で囲いが作られた円い水場に、静かに一メートル程吹き上がる噴水。公園の脇には、取って付けたかのような子供向けの砂場とトンネル山の遊具。広場の中央から少しずれた中途半端な所からは、斜めに境界が引かれる形で石畳が芝生に、別の場所は同じようにして花畑に変わっていた。
奥の方には、広場とも街並みとも全く合わない、真四角に窓と扉だけ切り取った、ポップな淡い空色の建物。建物の上の方には本当か嘘か英語でポリスの文字が入っている。その横は明日葉が辿って来たのとは別の道に繋がっていた。
どうも先程から明日葉が受ける印象では、この島は世界中の色々なものを節操なく置いているだけだ。広場で遊んでいる人々もそうである。先ほど出会ったニーナこそ、街並みに合った格好をしていたが、例えば、花畑で遊ぶ幼い女の子は、七五三のような赤い着物を着て走り回っているし、他の人達はもっと奇妙な恰好だった。
武士の鎧に丁髷をつけた男性は、白いアオザイの女性と向かい合ってパラソルテーブルの下で紅茶を飲んでいるし、香港映画に出てくるようなカンフー衣装の少女は花摘みをしている。華麗なるギャツビーよろしく、かっちり固めたオールバックにタキシード姿で子供と砂遊びをする若い紳士。白い布を身体に巻きつけた古代ローマ人がスケボーの練習。挙げ句の果て、緑色の糸を全身に纏うギリースーツを着た軍人は、芝生の上のベンチに腰掛け、呑気に読書に耽っている。
奇妙な風景に思わず顔をしかめながらも、明日葉は公園を横切って、ポリスと書かれた建物の前までやってきた。警察であることが嘘でないのであれば、先ほどの二人より、もう少しだけでも話が通じるだろう。そう思った明日葉であったが、交番の前に立って考えを改めた。
窓からのぞき込むが交番に人はおらず、ガラス張りの引き戸には鍵がかかっていた。そして、そのガラスにはメモ帳を千切ったいい加減な張り紙が出されており、
『平和な島なので、どうせ事件は起こりません。だから、私は彼女と楽しく見回りに行ってきます。見回りです。探さないで』
と無責任な文面が記されていた。平和なのか何なのか分からないが、明日葉にしてみれば取り敢えずうんざりである。警察がこれでは、この島の住民には何一つ期待できない。
仕方なく、明日葉は真ん中にある水場の脇に腰掛けた。ふてくされた顔で、手に持った紙袋を開いて、先程ニーナに貰ったサンドを口に運んだ。一口齧ると、まだ少し暖かいバケットから豊満な小麦の香りが漂い、口の中一杯に広がった。直後に、レタスの歯ごたえが来る。そして、生ハムのあっさりとした塩気。チーズにトマトソースが混じり合った粘り気のある味が、舌に絡みつく。
昔、家族でキャンプに行った時に作って食べたサンドウィッチの味に似ていて、懐かしさが込み上げてきた。噛みしめる毎に、冷静になろうと今まで無理矢理に感情を押し殺していた理性が、ノスタルジーに溶かされていく。それに付随して湧き上がる、行く先の見えない不安感、早く帰りたい焦燥感。それらは、明日葉の中で渦を巻き始め、竜巻の如く心の中を荒廃させて駆け巡る。
明日葉の目からは、熱いものが零れ落ちた。口に入り、生ハムの塩気が増す。一滴が落ちると心の堰がひび割れ、その隙間からさらに一滴、また一滴と染み出した大粒が、前の涙が作った道を辿った。唇が震え出し、鼻から吸い込んだ息が嗚咽となって喉の奥に詰まる。それを飲み込みたくて、明日葉は今一度サンドウィッチを頬張った。それでも、咀嚼しながら、世の中の理不尽に対する、怒りとも嘆きとも取れる感情が唾液と共に滲み出てくる。
明日葉は自棄になってサンドウィッチにむさぼりながら、思った。なんで自分ばかりにこういう不幸が訪れるのだろう。お父さんにしてもそうだ。本当に突然だった。身体が悪いとも聞いていなかった。なのに、何故、あんな、言葉一つ掛ける時すらなく、居なくなってしまったのか。
今度はまた辛くなってきて、牛乳瓶を開け、感情ごと、口の中に残ったものを胃に流し込む。生気のない仏頂面になった明日葉は、ため息を一つ。それから、もう一つのサンドウィッチを取り出した。
齧りつく前に、降りてくる鼻水を啜り上げていると、隣に小さな女の子が座った。先ほど花畑で遊んでいた子供だ。遠慮のあまりない年齢の少女は、潜り込むようにして明日葉の顔を覗き込む。口を尖らせながらも、心配そうな上目使い。
「お姉ちゃん、大丈夫? これ、かしてあげる」
少女はそう言って、自分のポケットからハンカチを取り出し、明日葉に差し出した。明日葉は、少し驚きながらも、それを受け取って濡れた目元を拭いたが、拭けば拭く程に余計に涙は溢れ出て、手を離せなくなってしまった。
そんな様子の明日葉に、少女は首を傾げて訊く。
「なんでそんなに泣いてるの?」
何故と言われても、明日葉には、色々な事が重なり過ぎて分からなかった。一番の理由はお父さんの事かも知れないし、この世界に投げ出された不安感かも知れない。或いは全てが胸を押さえつけて、涙を絞り出したのかも知れない。混沌としていて、答えを取り出すのは無理だった。そうして明日葉が言葉に詰まっていると、少女は独りでに話を続けた。
「悲しいの?」
少しの間。
「変なの、この島の人はみんなきっと幸せなのに。ほら、皆、笑ってるよ?」
少女の言葉に、明日葉は一度もハンカチを目から離して、再び周りを見渡してみた。確かに、自分の心の荒廃なんて知る由もなく、辺りの奇妙な人々は無邪気にも満足気な時を過ごしている。何故そんなに皆が皆、綻んだ顔をしていられるのか、今の精神状態の明日葉には理解出来なかった。
その周りのノー天気さが明日葉には妙に腹立たしくて、今一度鼻を啜ると不貞腐れた顔で八つ当たりに手前の地面を睨んだ。すると、突然、目の前に膝丈程のマリオネットが飛び出し、踊り出す。驚いた明日葉は思わず顔を上げて、目でマリオネットの糸を手繰った。
糸は白い手袋に掛けられた五つの指輪に繋がっており、そこから更に視線を上へ辿ると、黒色の生地にラメ入りの明るい紫の縦縞が入った、袖広がりのスーツ。胸元はフリルで派手に装飾されており、首元には蝶ネクタイが付いた赤いチョーカー。その上は真っ白に塗られた彫りの深い顔。口紅で大袈裟に口が描かれていて、鼻先には丸く赤い球体が貼り付けられている。エメラルドグリーンの美しい瞳に、長い睫毛。目の上には濃い紫のアイシャドーが引かれており、眉毛は白く塗られて皮膚と同化しているた。髪は金色のくるくる巻き毛で肩まで降りている。そして頭には、スーツと同じ柄の大きなシルクハットを被っていた。
一見して明らかにピエロのその男は、器用に両手で二体の人形を操っていた。みずぼらしい布を着せられた二体の繰り人形は、生きているかのように生き生きと踊りを終えると、片膝を地面に着いて片腕を前に、深々と明日葉には向かってお辞儀した。それからぴょんと跳ね、両手を伸ばしてピンと立ち上がる。所謂、「気を付け」の体勢だ。
呆気に取られる明日葉を余所に、甲高い男の声がピエロの口から発せられる。歌うような抑揚をつけて。
「ようこそ、シーザークラウンシアターへ。そう、そして私はシーザークラウンだ。笑いが大好き、滑稽な道化師。シーザーと気安く呼べばいい。あれお姉さん、お姉さん。なんで泣いてる、泣くな、泣くな。笑って笑って、泣いてちゃダメだ、泣いてちゃ笑わせ、られないぜ。さてよさて、さてさて、さてさて、さてやさて。なんと、今日の、演目は……?」
息継ぎの殆どないマシンガントークの後、シーザーは下を巻いて、今度は唸るように低い声でドラムロールを真似る。それからまた、声を張り上げて、
「デデーン!『退屈な、日々』!」
「きゃー楽しみー!」
移り気な隣の小さな女の子はパチパチと手を叩いて、大喜び。シーザークラウンの演目に興味津々だ。逆に明日葉は、突然始まった子供騙しに、まだ呆気に取られたままで、ただただシーザークラウンと名乗った奇妙な男を見つめるだけだった。それでもシーザーは気にせず、一度人形を自分の後ろに隠すと、日課のように慣れた様子で、リズミカルなナレーションを始めた。
「むかーしむかし、ある所、平和な村が、ありました。そう! そこに一人の若者の、お馬鹿なルーサー、住んでいた」
鼻歌奏でるシーザーの後ろから、ズボンを履いた人形が躍り出てくる。
「ルーサー、ズボラな怠け者。毎日毎日、寝てばかり。今日もお昼におはようだ。それから、お外をお散歩だ。すると、近所のケーシーが、前からてくてく、やって来た」
先ほどの人形とは逆の方向から、スカートを履いた人形を歩いてくる。二つの人形はシーザーの前で鉢合わせになった。シーザーは声色を変えて、掠れた裏声で台詞を言う。
「あらあら、ルーサー、こんにちは。今日もお昼に、おはようね」
ズボンの人形は手を大袈裟に振って挨拶した。シーザーの声色は自信過剰な野太い声に変わる。
「やあやあ、ケーシー、おはようだ。しかし、毎日変わらんね」
また、裏声に変わる。
「それは、あなたが、寝てばかり。だから一緒に感じるの」
再び、シーザーは野太い声で
「いやいや、そんな、事はない。毎日一緒、退屈だ。きっと昨日も同じ。きっと明日も同じ」
そんな調子で進んでいく話を、明日葉は呆然と観ていた。やっと涙は止まったものの、何も考えたくなくなっていたから、ただ眺めるのに、ちょうど良かった。しかし、唐突の悲鳴が聞こえる。
「うわー! な、なんだ!? 人形が、人形が動いているぞー!」
まさか、と思った明日葉は慌てて立ち上がって周りを見渡した。はらり、と借り物のハンカチが地面に落ちた事に気付く余裕もなかった。三方向から、明日葉に向かって、あの侍の形をしたからくり人形が走って来ている。人形達に恐れをなした人々は広場から逃げ出し、建物へと逃げ込んで扉を堅く閉ざしていった。
「きゃーー!」
明日葉の隣の少女が、高い声で叫んだ。小さな身体からどうやって出しているのか理解出来ない程の声量に、明日葉は思わず耳を塞いで、歯に力を込めてしまう。明日葉が耳鳴りの余韻に頭を抱えている間に、少女は一目散に駆け出した。器用にも、からくり人形の間をすり抜けて、素早く街路の方へと姿を消す。
結局、広場には明日葉と、未だ平然と人形劇を続けているシーザークラウンの二人だけになってしまった。明日葉が右に逃げようか左に逃げようか迷っている間に、からくり人形はどんどんと間合いを詰めてきて、ついに明日葉とシーザーを半径数メートルの円で囲み、速度を落とした。
「うう、ど、どうしよう……どうしよう」
水場を背に、三体へ順に視線を回しながら、明日葉は心臓の強く揺れる音を感じた。じわりじわりと小さな歩調でにじり寄るからくり人形達。もう逃げ道はなかった。
明日葉は生唾を飲み込んだ。油断、と言うより精神的に疲れていたせいだ。人形達の事を失念していた訳ではないが、他の感情に飲み込まれて、知らぬ間に警戒心が緩んでいた。我ながら情けなく思う。それでも、このまま捕まれば命に関わる気がして、はい参りました、と言う訳にはいかない。
覚悟など出来る筈もなく、緊張の汗を流している明日葉。それとは対照的に、揚々と人形繰りを続けていたシーザークラウン。しかし、そのシーザーがちらりと横目でからくり人形に目を馳せた後、今更ながら周りの変化に気付いた素振りを見せた。それでも、今までの悪戯な口調はそのままである。
「あらあら、今日は満員御礼。なんだか楽しいお客さん。でもでも、そんな仏頂面。楽しくないなら、踊ろう踊ろう。ルーサもケーシも君が大好き、皆君と踊りたい。ステキなステキな、お人形さん!」
そう言い終わるや否や、シーザーは口調に似合わぬ素早さで振り返り、その勢いのまま、手に掛かっていた二体の人形を目の前のからくり人形にぶつけた。長い繰り糸が、からくり人形の上半身に絡まり、動きが鈍る。そのままシーザーが糸を手繰り寄せると、からくり人形はバランスを崩して前のめりに転んだ。
繰り糸のついた指輪を外すと、シーザーはそのからくり人形の上に立つ。そして今度は、
「君は帽子と、踊ってな」
そう言うと、自らのシルクハットを手にとり、スナップを効かせてフリスビーの要領で他の人形の方へと投げた。くるくると回転しながら、浅い放物線で滑空した後ハットは、見事からくり人形の頭にすっぽりと覆い被さった。からくり人形は、両手を前に出し、引け腰で手探りを始める。
そんなシーザーの鮮やかな人形のあしらい方に、明日葉は硬直し、何が起こったのか理解するまでに時間が掛かった。数秒経ってようやく、この一見ふざけたクラウンピエロが自分を助けてくれている事を認識できた。
しかし、明日葉が口を開こうとする前に、シーザーは残る一体の方と対峙しながら、こう言う。
「逃げろや逃げろ、お客さん。今は逃げろ、とにかく逃げろ。捕まったなら、君も哀れなお人形」
逃げるべきなのは分かったが、最後の言葉の真意がよく分からなかった。明日葉は尋ねようとするが、シーザーは今一度だけ明日葉の方を向き、ウインクをして、交番の横の道を指差した。
「いけない今は時間ない。まだまだ来るぞ、お人形。兎に角逃げろ、今だけは。時間はあまり、稼げない。走れ走れ、遠くに走れ」
シーザーにそう言われて、明日葉はぺこりと頭を下げて、言われた方向へと逃げ出した。後ろを振り返ると、先程自分が歩いてきた街路の方から、また二体新たなからくり人形がやってきている所だった。シーザーは両手を広げて自信満々に人形を威圧している。
「ごめんなさい……ありがとう」
明日葉はそう呟くと前を向き直し、交番の脇の小道へと駆け込んだ。
そこからはまた、木々の生い茂る森だった。街へ出るまでと殆ど変わらない風景を、今度は駆け抜けていく明日葉。シーザーに言われた通り、とにかく走り続けた。
そうしている内に別れ道へと辿り着いて、そこでやっと明日葉は脚を止めた。周りを見渡すも立て札すらない。膝に手を当て肩で息をしながら、明日葉は切れ切れに独り言を呟く。
「どうしよ……どっち、行ったら、良いんだろ……」
明日葉は迷いながらも、心配で後ろを振り返ってみる。木々の影が揺れる小道には誰も居ないものの、今にも遠くの方から人形がやって来そうな不安が過った。
「ど、どっちも知らない道って言うのは一緒だよね……」
それならば迷うだけ無駄だ。明日葉は直感で右の道を選んで、走り出した。しかし、直ぐに戻ってきて、
「うーん、やっぱりこっち!」
そう言って左の道の方を走り出す。その道は少しすると川沿いの土手へと繋がった。川は十数メートル程の幅ながら、川底が見える程度に浅い。道の先には木で出来たアーチ状の橋が見え、対岸の先には背の高いトウモロコシ畑。
取り敢えず畑に逃げ込んで隠れてしまえば、簡単には見つからないだろう。明日葉はそう考え、橋へと速度を上げた。しかし、橋の手前まで来て、急ブレーキを掛ける。
トウモロコシの木の影に隠れて分からなかったが、あの侍型からくり人形が橋の向こう岸にいたのである。明日葉に気付いた人形は、当然、橋を渡ってきた。
慌てて踵を返した明日葉だが、遠くの方からは、別のからくり人形が一体追い掛けてきていた。またもや橋を前に、挟まれてしまったのだ。
「うー……橋に良い縁がない……」
そう言いつつ、明日葉は土手を降りるか、逆方向の道脇、つまりは森の中の道なき道へと飛び込むか迷った。それでも、後者の選択肢は直ぐに消えることとなる。
明日葉がくるくると森、川、橋、来た道へと視線を回していると、がさり、と森の方から音がした。肩を縮こまらせて、恐る恐るそちらに目をやると、道脇に石で出来たお地蔵さんが置かれていた。しかし、先程は気付かなかった。そんなものあったっけ。そう明日葉が思った矢先に、お地蔵さんはぱっくりと真ん中から割れて、中からからくり人形が現れる。侍型とは違って、こちらは腰丈程の大きさで、ずんぐりむっくりとした容姿。しかし忍者の格好をしていた。
「ギギギッ」
忍者人形は歯車の摩擦音を鳴らしながら、短い足を動かして明日葉へと迫ってきた。こうなると、もう土手を降りるしかない。
「もう、こんなのばっか……」
明日葉は捲れ上がる浴衣の裾を抑えながら、草の生えた斜面を滑り降りる。最後に軽くジャンプして河原へと着地すると、水中から顔を出している石を足場に川を渡り始めた。小さい頃に遊んだ飛び石の要領だ。急いで次の足場を探して飛び移って行く。
しかし、最後の最後で、岸まで二メートル程の距離をあけて、足場が無くなってしまった。振り返ると、あの忍者人形が文字通り転がりながら土手を降りて来ている。
再度前を向き、明日葉は近い足場を探す。川の上流から流れてきたのだろう、丸太が向こう岸に引っ掛かっており、それが一番近かった。
「飛ぶしかないよね……」
しかし、仮に届かなくても濡れるだけで、そこまで深い訳では無い。せいぜい膝ぐらいまでだろう。吊り橋の時とは全く難易度が違う。明日葉は直ぐに決めると、膝を曲げ、腕を思い切り振って飛んだ。
丸太に右足がかかる。
「やった!」
しかし、次の拍子にくるり丸太は回転して、明日葉はバランスを崩した。
「わっ……と!」
慌てて、もう片方の足で岸へと着地。丸太はそのまま岸から離れて流れて行ってしまったが、何とか渡る事が出来た。
対岸では、忍者人形が飛び石に精一杯短い脚を伸ばして、渡り切れずプルプルと震えていた。そんな様子を、明日葉は一先ずの安全圏で眺めて一言。
「な、なんか可愛いけど……そんな場合じゃないか」
明日葉は捲れ上がった裾を叩いて直すと、土手を登り、トウモロコシ畑へと駆け込んだ。
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