壱、不思議の、国の、(2)

 明日葉の目が覚める。薄っすらと白濁した視界に入るのは、心配そうに覗き込む見知らぬ少女。白い着物に身を包み、髪の毛を頭の後ろで団子に纏めている。

 姿から海女らしき、しかし明日葉と同じぐらいの年頃の少女は、瞬きをする明日葉に表情を緩めた。

「よかったがー、気がついて!」

 明日葉は手で目を擦り、尋ねる。

「ここは……?」

「ここは私ん海女小屋よ。そんでもって、私はカヤ。あんさん、砂浜に打ち上げられとってねー」

 視界のピントが合って来て、段々と自分に起こった事を思い出してきた明日葉は、ゆっくりと上半身を起こした。周りを見ると、木の板が並べられた質素な壁に畳の部屋。真ん中に足の低い卓袱台が置かれており、自分はその側に敷かれた布団に寝ている。それから次に、自分の胸元に目を落とす。浴衣姿になっていた。

「ああ。あんさん、びしょ濡れじゃったけぇ、うちの物着せとぉよ。丈が合うとって良かったわ。あんさんの着物やったら、ほれ、外に干しとるけん」

 海女の少女は、明日葉の側にある窓を指差した。窓、というより木の板をくり抜いて簾を掛けただけのものだ。今、簾は上げられていて、外には砂浜が見える。そして、その砂浜にハの字に打ち込まれた竹が二組。その間に張られたロープに、明日葉の下着類とホットパンツ、Tシャツにブラウスが掛けられていた。その下には、自分の履いていたスニーカー。

 日は傾き始めているものの外はまだ明るく、照りつける日光が砂に輝きを与えていた。橋より落ちてから、まだそれ程時間は経っていないようである。

「今日は天気がええけん、もう直ぐ乾くと思うで」

「ありがと……」

 自分の服を確認してから明日葉はカヤに礼を言う。カヤは頷いてから、立ち上がった。

「どういたしまして。さて、ちょいとあったかい飲みモンでも飲みや。今、外でお湯沸かしとるけん」

 良かった。洞窟を出てから怖い人形と不審者にしか合っていなかったから、まともで優しい人に出会えた事が嬉しかった。明日葉は一息、胸をなで下ろす。それから、歩いて小屋を出ようとするカヤを見上げて、呼び止めた。

「あの」

 カヤは振り向く。

「なん?」

「ここ……て、どこ?」

「だから、私んウチ……あ、とちごて、この島かいな。この島はロングハッピーアイランド言う島じゃ」

「ロングハッピーアイランド?」

 純和風な少女の口から出た胡散臭い横文字に、明日葉は思わず顔をしかめた。同時に心の中で身構えた。もしかしたら、この少女も表面は優しげながら、あの仮面の男と同質の者ではないか。

 しかし、カヤは特に自分が何か変わった事を言ったという素振りも見せず、自然体で応える。

「そや。長く長く、ずーっと幸せが続きますように言うて、そんな名前が付けられとるんや。まあ、幸せか言うたら、うちもまあ、幸せなんかなぁ。よう分からんけど、そんな不満もないけんなぁ」

 そう言って、微笑むとカヤは小屋を出て行った。

「へ、へー……」

 明日葉は生返事になった。少なくともカヤはあの仮面の男とは違いそうで一安心。しかし、幸せの島なら何故あんな胡散臭い仮面の男などが自分の元へ勧誘に来たのだろう。そもそも、ロングハッピーアイランドなんて聞いた事がないのだが、何県にあるのだろう。何県以前に、どこの国か。横文字の名前からして英語圏とは思うが、この建物と先ほどの少女、それから話している言語からして日本としか考えられない。そう言えばあの洞窟から出てきた所も神社の社だったっけ。

 明日葉が考えを巡らせていると、外から金属鍋を落としたような音がした。それから、カヤの声が聴こえる。

「な、なんやの、あんさん! うぐ……」

 明日葉は立ち上がり、こっそりと戸を数センチだけ開けて外の様子を覗いてみた。焚き火に掛けられていた鍋がひっくり返り、側の砂浜が色濃くなっている。その脇では見覚えのある侍の格好をしたカラクリ人形が、海女姿の少女の首を片手で掴んで持ち上げていた。人形はカヤの顔を確認すると首を傾げ、そのまま軽く手を放して解放する。地面に四つん這いなったカヤは、そのまま下を向いて咳き込んだ。なんとか無事なようだった。

 その様子に、明日葉は慌てて戸を閉めた。急いで、閉めてしまった。パタン、と空気が撓る。しまった、と思った明日葉は再び恐る恐る戸を開けて外を覗いてみた。案の定、カラクリ侍人形は、こちらへ向かってきていた。

 このままでは見つかってしまう。何とか逃げなければ。明日葉は頭の中で叫ぶパニック状態の小さな自分を抑え込んで、冷静に周りを見渡した。先程の窓が目に入る。

 もう、あそこから出るしかない。明日葉は簾を下ろし、それから急いで窓から飛び出した。そのまましゃがんで隠れる。簾のはためきが収まるのとほぼ同じくして、小屋の扉が叩きつけられるように開く音が鳴った。

 明日葉は四つん這いで、小屋に沿って移動した。砂浜の砂利が手に食い込んで痛いが、そんな事を言っている暇など無い。角を曲がって、小屋に背中を沿わせながら立ち上がると、明日葉は壁越しに先程までいた所を覗き込んだ。しかし、簾が跳ね上げられる音がして、慌てて顔を戻す。息を止めて、簾が落ちるのを待った。

 それから、足音を潜めて移動して、先ほどカヤがいた方を覗いて見る。もう一体、カラクリ人形がいた。カヤは腰を抜かし、尻餅をついて怯えているが、人形はもはや彼女には見向きもしない。探しているのは、明らかに明日葉だった。

 明日葉は、再び小屋に沿って窓の方へと移動した。また、壁沿いに覗き込んで、位置関係を確かめる。ここから物干しのあるとこまでは十数歩。そこで服を回収したら、砂浜が切れて木々の生い茂る雑木林まで走ろう。砂浜に足を取られる事を考慮しても、十数秒あれば行ける距離だ。

 今、簾は閉まっている。こっそりと動けば気付かれずに済むかもしれない。さっき咄嗟に、相手から逃げ道を隠そうと閉めたのは正解だった。

 明日葉は一度深呼吸をすると、抜き足差し足で物干しまで近付き、素足で靴を履いた。まだ乾ききっておらず、生温いが贅沢は言ってる時間はない。急いで他の自分の服も全て手に取って、松林まで走った。

「はあ、はあ……なんとか、見つからずに済んだ」

 木の陰に隠れて、小屋の方を覗くが、追っ手はいなかった。

「カヤさん……大丈夫だよね。私だけが狙いっぽかったもんね……」

 折角の親切を仇で返してしまった挙句に一人逃げ出してきた事が、今更ながら明日葉の心に棘を刺した。しかし、今、戻ったならば確実に捕まる。後から来た人形はカヤを完全に無視していたのもあって、明日葉はわざわざそのリスクを冒したくなかった。無事を信じ、申し訳ないが、このまま逃げよう。

 そこで改めて、明日葉は自分の状態を確かめる事にした。先ず、身体の状態。正直なところ、何が何だか分からないまま逃げて回って来たので、疲れはある。しかし、あの高さから落ちて海に流されたが、幸運な事にも身体には大した異常は見られなかった。ちょっと肩が重いぐらいだ。精神的には、混乱が解けないままに気が高揚していて所謂ハイ状態である。しかし、そのくせ、こうやって変に冷静になれているから、まだ問題はなさそうだ。

 次に所有物。財布は、あの調子で家を出たから持っていなかった。それならば、と、ホットパンツのポケットに入れていたスマートフォンの生死を確認してみる。可能ならGPSで現在地座標を調べて、誰かに迎えに来てもらおうと思ったのだ。しかし、大方は先のダイビングが原因だろう、案の定、見事にお亡くなりになっていた。見てみろよ、これで死んでるんだぜ。明日葉が名言を思い出すほどに、外傷はなくきれいな状態だが、電源すらつかなかった。

 最後に、先ほど急いで回収した衣類を調べたが、全てまだ生乾き。気持ち悪いが、取り敢えず、明日葉は下着だけを付けることに。さすがに生地の薄い浴衣だけで外を彷徨くのは、肌が透けて恥ずかしい。あとは浴衣のままにして、他の服はもう少し乾いてから着る事にした。

 明日葉はブラウスを風呂敷代わりにして、中に他の服を詰め込んで纏めた。それを腰の上から巻きつけて、準備万端。何か時代劇に出てくる旅座の娘っ子にでもなった気分だった。

「さてと……」

 再び、明日葉は木陰から砂浜を覗いた。ちょうど小屋の陰からカラクリ人形が現れたのを確認すると、慌てて木を基準に背伸びをした。胸に手を当てて、目を瞑り、深く息を吸って、吐く。それから、目を開けて、息を短く切った。

「とにかく逃げないと。それから、ここが何処か、何とかして調べよう」

 音を立てぬようにそっと砂と雑草の入り混じった地面を踏みながら、明日葉は雑木林の中へと足を早めた。

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