壱、不思議の、国の、(1)

 その日、少女はまだ明日葉だった。稲瀬明日葉と言う名前の、高校に入って初めての夏休みを田舎で過ごす、ありふれた少女だった。強いて一つ特徴的な事を挙げるとするならば、少女は悲しみから立ち直って居なかった事だ。少女がこの度、山間の田舎町へとやって来た理由は、父親の四十九日なのである。

 父を亡くして、はや二ヶ月目も半ば。しかし、突然の肉親の死は、まだ若き明日葉に十分な理解を与えぬまま、ただただ目の前の全てに群青色のフィルターを掛けるだけだった。お別れの言葉でも話せていたならば、或いは違っていたかもしれない。しかし、離別は残酷にも、予兆もない心筋梗塞による突然死だった。

 その日の記憶は、明日葉の脳内で未だに何度も繰り返される。

 ふとした切っ掛けで、塾の先生に呼び出された時点から音のない早送りが始まるのだ。講師室で電話を受けて、呆然と立ち尽くす。泣く事も出来ず、表情を失くし、ただ作業で帰り支度をした。そのまま、自宅の居間まで浮遊するかのように淡々と進む。そして、父の布団に仰向けになった身体、顔に掛けられた白布、直ぐ側ですすり泣く母親の姿。布を捲って顔を確かめる勇気もなく、膝から崩れ落ち、手で顔を覆った。

 その記憶のループが終わると、また辛さが込み上げてくる。足元の感覚が痺れ、顔面が火照って、背筋に寒けが走る。思い出が多い父の実家にいると、余計に増してその感覚は酷くなって来た。

 後悔も募る。明日葉は年頃だ。ご多聞に漏れず、思春期で、父親との会話もこの所無くなっていた矢先の出来事だった。最後に喋ったのはいつだろう。もしかしたら、喧嘩腰で、嫌な言葉を言っていたかも知れない。ごめんなさい。でもそれすら、もう言えない。明日葉には、自己嫌悪ぐらいしか出来なかった。

 四十九日を昨夜に終え、今日は朝から遺品整理をしていたが、それを手伝えば手伝う程に、明日葉の気分は、益々と塞ぎ込んで来た。父の部屋にあったレコードのコレクションを段ボール箱に纏め終えると、明日葉は立ち上がった。

「お母さん、ごめん。ちょっと外に行ってきて良い?」

 部屋の出口で雑誌類を纏めていた母親が、振り返って明日葉の顔を覗き込む。

「良いけど、大丈夫? 辛かったら、手伝わなくても良いのよ?」

「ううん、手伝う……」

「じゃあ、気分転換に、そろそろお昼ご飯にする?」

「うん……でも、ちょっと、外の空気、吸いたくなったから、出かけてくる。直ぐに戻るから……」

 言葉とは裏腹に、明日葉は飛び出すようにして家を出た。心を押し潰してくる昔の日々から、今は一刻も早く逃げたかった。早歩きの散歩のつもりが、知らない間に走り出していた。住宅地を駆け、竹林を抜けた。

 それでも足の赴く方向は、幼い頃に父と共に遊んだ公園だった。公園と言うより、崖に面した遊歩道に近い。明日葉は渓谷に沿った緩い階段を急いで上がり、行き止まりのベンチに腰掛ける。肩で息をしながら、谷底の川を見下ろした。

 結局、ここも父に教えてもらった思い出の場所だった。幼い頃、夏休みにはよく散歩に来ていて、行きしなに買ってもらったアイスクリームを、そのベンチに座って二人で食べていた。

「お母さんには内緒だよ」

 物静かな父が、そう言って優しげに笑い、アイスクリームをぺろりと舐める。息が整うにつれて、そんな思い出がじわりじわりと滲み出して来た。またも明日葉は、心臓を握り締められ、揺さぶられるような息苦しさを感じた。

 顔を両手で押さえ、必死で涙腺の爆発を止めようとするも、呼吸まで荒くなってきた。胸からこめかみに込み上げてくる熱い血潮が顔を赤らめた後に、透明な水滴となって目から零れ落ちる。

(ダメだ、これ以上は止まらなくなる)

 自分を何とか律しようと明日葉は息を止め、額に力を込めた。鼻から大きく息を吸い込み、しゃくり上げる喉を無理やりこじ開ける。今度は口で深呼吸をしながら、空を見上げた。上を向いて、涙が零れないように。名曲のワンフレーズを思い出して。

 そのまま明日葉は目を瞑って、息を止めて、それからまた深呼吸。それで何とか、涙を抑え込むことが出来た。

 同時に、突然、後ろから声を掛けられる。

「ねえ、君」

 驚いた明日葉が振り向くと、黒いスーツに黒いシルクハットの背の高い男が、後ろに立っていた。それだけでも十分に怪しいが、口が耳元まで裂けた笑い顔の白い仮面が、決定的に危険な雰囲気を噴き出している。

 男は胴体が伸びたかのように、前屈みになって乗り出してきた。顔を直角近く傾けて明日葉の顔を覗き込み、低く地響きのような声で言う。

「永遠の幸せ、要らないかい?」

 生理的嫌悪感と言う、本能がもたらす警報か。突き抜けた胡散臭さが危機感を刺激し、明日葉を椅子から跳ね除けて後退りさせた。

 暫時、明日葉と仮面の男は硬直した。時間が止まったように、川の流れとツクツクボウシの鳴き声だけが谷底に木霊する。

 不意に、再び仮面の男は滑らかな動きで背筋を伸ばし、こう言いながら、明日葉へと近寄った。

「愛しい人と、ずっと仲良く、永遠に暮らせる幸せ、要らない?」

 今の明日葉にとっては、とても魅力的な提案だったかも知れない。しかし、明日葉には言葉の意味など届いていなかった。男から伸びてくる腕に、直感がとにかく逃げろと喚き散らす。明日葉は一歩後退りするも、フェンスに背中が当たった。

 逃げ道は仮面の男の背中にしかない。しかし、逃げねば、何をされるか分からない。この場合、隙をついて正面突破する他ないが、その為には何とかして相手の気を一瞬反らす必要がある。そう考えた明日葉は咄嗟に、さも男の後ろに誰かがいるかのように、手を振って笑顔を作った。

「あ、お母さん!  こっち!」

 こっそりと年頃の少女に言い寄る男には、効果的だった。仮面の男は伸ばした腕をぴくりと止めて、背後を見ようと首を回した。

 今だ。明日葉は男を突き飛ばして、走り出そうとした。しかし、こんな場合に限って、先程まで座っていたベンチに脛を打ち付けた。

 鈍臭さは別として、あまりの緊張に、明日葉には全てがスローモーションのようにゆっくりと感じられた。踏ん張れず、どうしようもなく、バランスを崩す。そして、咄嗟に手で顔を守って、肘を前に突き出した。そのまま、仮面の男の鳩尾を目掛けて、身体を投げ出す。

「ぐっ」

 鈍い声を発した男を明日葉は押し倒した。しかし、ここから明日葉は不思議な感覚に囚われた。

 身体が水平になる直前、思わず目を瞑った明日葉だったが、そうなっても衝撃は来ず、そのまま回転して行く。真っ逆さまになって、男から離れて、一回転して元に戻って、また回る。縦に回りながらも、内臓が浮き上がるような感覚に陥った。絶叫マシンの降下時のそれに似ていて、延々と落ちているのだと明日葉は直感した。

 奇妙に感じた明日葉は恐る恐る目を開けてみるも、真っ暗闇だった。先程までの渓谷も、公園もない。気が付けば、蝉の声も川の流れも聞こえていない。

 状況が飲み込めず、明日葉が混乱している間に、遠くの方に光が見えてきた。その光に向かって転がっているのが分かる。内臓が軽く圧迫され、光とは逆方向に重力のような力が働き始めた。落下速度と回転速度が、徐々に落ちていく。

 と、完全に止まり切らないところで、光が照らす地面が迫っている事に明日葉は気付いた。思わず丸くなって、受け身の体勢へ。軽い衝撃と同時に、渇いてひび割れた土へ背中で着地した。

「痛……くは、ないけど……」

 それでも、背中を手で摩りながら身体を起こす。見渡すと、全く見覚えのない場所にいた。先方に見える光のお陰で、辛うじて自分の立つ地面が見える。しかし、直径十五メートル程の円形の地面と、光へと続く細長い通路より外は、吸い込まれそうな程の暗闇に包まれており、何も確認できなかった。地の縁より一歩でも踏み出せば、そのまま奈落の底へと落ちていく。明日葉はそう直感して、身を震わせた。

 円形地面の中央には、光を反射して煌めく泉と、その中心にある止まった噴水。泉の端に置かれた女神像の肩に担がれた瓶からは細い水が流れ出て、泉に波紋を拵えていた。後は、泉の前に置かれた大きく質素な木製椅子と、泉を挟んでその向かい側にある、平らで膝丈程の高さの一枚岩。岩の中央には、木の杖が突き刺されていた。

 冷やりとした空気が肌を撫で、四方八方の闇が身体から魂を抜き去るように孤独を煽った。何もないままに、枯れてしまった場所。それが明日葉のその場所に抱いた感想だった。それでも、暗く狭い場所が苦手な明日葉は、身震いした。

 それが束の間。軽いお手玉が地面に落ちるような音が鳴り、低い男性の唸り声が聞こえた。明日葉が再度周りを見渡すと、椅子の上に、先ほどの仮面の男が腹を押さえて座っていた。

 まずい、とにかく逃げないと。明日葉は立ち上がり、光に続く道を走り出した。

「ま、て……」

 男は椅子から立ち上がろうとするも、まだ鳩尾を押さえて咳をしている。

「待てと言われて、この状況で待つのはお馬鹿さんだけだよね」

 明日葉は独り言を呟きながら、走った。光が近付いた。どうやら外に続いているらしい。先には地面と快晴の青空が見える。何処かは分からないけれど、とにかく此処から出よう。明日葉は勢いよく、暗闇から飛び出した。

 一瞬で開けた強い日差しに目が眩む。明日葉は思わず瞼を閉じて、足を止めた。ザブン、と力強い海の音が聞こえる。それから、手で太陽を遮りながら、ゆっくりと目を開いてみた。

 そこは、波打ち寄せる海から生えた、細長く、小高い三角錐の岩島だった。明日葉が出て来たのは、ちょうどその中腹辺りに切り取られた、唯一の平らな足場である。

 明日葉の目の前には、石灯篭が二つ。それに挟まれるようにして、渡るには五分も掛かりそうな程、長い吊り橋が掛かっていた。人間一人が精一杯の横幅である。そして、その先には、この岩島からでも全容が見渡せる程の小さな島が見えた。

 明日葉は振り返る。そこには、垂直に切り立つ岩肌に、神社の社の前面だけが貼り付けられていた。先程の暗闇は、その入り口から入れる洞窟だったようだ。社の両脇には、侍の鎧を着た木面の人形が二台、正座して置かれていた。

 無骨な表情の木面だが、そのくせ今にも動き出しそうな気味の悪さを放っていた。鎧の隙間から歯車が見える為、余計にそう感じるのかもしれない。しかし、明日葉のそのカラクリ人形に対する直感は的中する事になる。

 悠長に目を慣らして景色を見ているうちに、仮面の男が社から顔を出し、両脇を睨んだ。否、仮面の中から睨んだように、明日葉には見えた。

「お前たち、この娘を捕まえろ」

 男がそう言うと、明日葉の嫌な予感通りに、カラクリ侍人形たちは、キリキリと木製歯車の擦り合わせる音を慣らして、立ち上がった。

「うそ……やだ、いや!」

 明日葉は慌てて踵を返した。しかし、先は恐ろしい程の長さと、高さと、オンボロさを持つ釣り橋。それでも、迷う余裕は無かった。三秒で決意し、振り返らずに明日葉は吊り橋を早足で渡り始めた。

 見た目よりロープが硬いのか、ゆっくりとしたスイングはあるものの、自分の足取りによる小刻みな振動は小さかった。その為、覚悟していたよりも少し安心して、足を止めずに済んだ。しかし、それも束の間。

「そんな……なんで……」

 明日葉の足取りは一気に重たくなる。島の方から、別のカラクリ侍人形が渡り始めたのである。振り向くと、十数歩もない位置にカラクリ侍人形。進んでも、カラクリ侍人形。吊り橋は細く、一本道。それでも、取り敢えず進まなければ捕まってしまう。

 明日葉はペースを落としながらも、歩みは止めなかった。止めなかったが、脳裏に浮かんだ選択肢を取るか否か迷っていた。

「これ、下って海だよね……岩とかないよね。島も近いし、なんとか泳げる距離だよね……」

 自分に独り言を言い聞かせながら、明日葉は自身に決心を迫った。飛ぶしかない。飛ばないと殺されるか、何かもっととんでもない事をされる。あの生理的嫌悪感という直感はきっと正しい。そもそも言っていた事が怪し過ぎる、あまりキチンと覚えていないけれど。そんな事より今よ、今。飛び降りないと。あ、でも飛び降りたらスマホ壊れちゃうかも。いや、でもそんな事言っている場合じゃない。飛び降りろ、私。大丈夫、何とかなるから。何の確証もないけど、何とかなるから。そう信じるしかないから。

 過呼吸なのか深呼吸なのか分からないが、早く大きく息を吸って吐く。私は飛ぶ、私は飛ぶ。自己暗示に近い形で、半ば強制的に、明日葉は飛ぶ事を決めた。あとはタイミングだ。出来るだけ島には近付いてから飛び降りたい。だから、前から来る人形とニアミスする所まで歩いて行ってからが最適なのだ。

 明日葉は、目の前の侍人形に集中した。周りの風音や波音が消え、聴こえるのは自身の高鳴る心臓の鼓動。まだ早い、まだ早い。徐々に大きく見える侍人形に、少し速度を落として、様子を見る。そして、ちょうど侍人形が目の前までやって来て、自分に向かって手を伸ばそうとした時だった。

「今だ!」

 明日葉は、手摺のロープを潜り、目を瞑る。そして、息を思い切り吸って足場を蹴った。しかし、いつまで経っても顔に水が当たる気配がない。それどころか、落下特有の感覚もない。代わりに、ぐっとお腹を締め付けられているように感じる。

 明日葉は、目を開けて呼吸を戻した。果たして、先ほどと大して変わらぬ高さに、宙ぶらりんで浮いていた。背後を振り向くと、侍人形が、片手で手摺のロープを持ち、片手で明日葉のホットパンツの後ろポケットを握り締めていた。前方に集中し過ぎて、後ろの侍人形まで気が回っていなかったのだ。

「やー!」

 明日葉は、手足を激しくばたつかせた。侍人形の手がポケットから滑るのを感じる。これはイケる。そう感じた明日葉は、身体の捻りも加えて益々激しく暴れる。少しずつ少しずつ、侍人形の手の感覚がポケットの浅い位置に動いてきた。そして、もはや掛かるのが指先だけとなった時だった。

 照りつける青天の太陽に、明日葉の鼻腔が刺激された。息を吸い込んだ明日葉の、気の抜けた顔のまま、一瞬時が止まる。

「……ックシュン!」

 明日葉はくしゃみをした。その拍子に、侍人形の手が、ポケットから外れる。声を上げる間もなく、明日葉は頭から海へと落ちていった。

 フクロウの鳴き声のような風切り音が一瞬、その後でゲンコツを食らったかのような衝撃が、明日葉の頭と肩に走り、脳髄にまで響く痺れを感じた。首が詰まり、息が鼻の奥で留められる。冷やりとした水が身体に絡みつき、急激に血管を締め上げた。聞こえよがしの耳鳴りに、明日葉の意識から自分以外の存在が消えた。

 泳がなくては。そう思って四肢に力を入れる明日葉だったが、身体は満足に動かぬまま、意識の紐はよじれ、細くなり、消えてゆく。地響きのような潮流の轟音に内臓を揺さぶられながら、明日葉は海の深い闇へと吸い込まれて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る