第2話 蝋燭片鱗Ⅰ
「やっぱりこのぐらいの時間になっちゃうよね」
あきらめにも似たため息をつい漏らしてしまう。しばらく同じ姿勢で作業をしていたため背伸びをしつつ外へと視線を向けてみる。どっぷりと街は黒色に染まり静かな夜の世界へと変貌していた。高層ビルから見る街の灯りはなにものにも代えがたい感動が何度も胸を叩いてくる。つい、数秒前にため息をしていた彼も夜景を視界に入れた瞬間、疲れが吹き飛ぶような錯覚を覚えてしまう。一旦、リフレッシュするためコーヒーを作りに椅子から立ち上がり視線の先で作業している女性へと声をかける。
「先輩もコーヒー飲みます?」
「ああ。頼む」
険しい表情でパソコンを睨みつけている。睨みつけたところで一向に求めている情報が手に入る訳でもないだろう。しかし、あれが先輩こと奈保瑞穂さんの癖である。せっかくの美形な顔立ちも眉間にしわを寄せているだけで台無しになってしまう。何度か注意した事もあったが一向に直す気は無いらしい。本人がそうと決めたのだったら仕方がない。本格的な珈琲なんて作れるわけもなく棚から粉末状の粉を入れお湯を注ぎ簡易コーヒーを作り彼女のもとへ持って行く。と、自然と彼女が睨めっこしていたパソコンの画面が視界へと入り込んでくる。
「どうぞ・・・どうですか?」
「ん・・・ああ。進展はないな。一向に尻尾の先の毛さえ見せて来ないよ。まあ、こうも簡単に掴ませてくれるなら誰だって苦労はしないだろうけどな」
椅子の背もたれに体重を乗せ一気にコーヒーを飲み干す。女性なのに相変わらず男らしい行動をとるひとだ。視線を急にこちらに向けてくるなり、
「私が男っぽいって思ったんでしょう?」
「そ、そんなことないですよ」
かっかっか。と、バカにするように笑いパソコンへ視線を戻す。空になったカップにもう一度コーヒーを注ぎ机に置き直し自分の席へと戻り夜の景色を堪能しつつコーヒーを啜る。
「美味しい」
奈保もこの景色に惚れこんでしまいこの
「・・・」
【夢彌痾】・・・ゆめみびょう 薬品摂取により人体が異常に拒否反応を起こしてしまい思考が蝕まれ抜け殻のようになってしまう奇病。抜け殻のようになってしまうが体は動くことが可能。肉体では無く精神を壊されてしまう。
「はぁ・・・」
病名を見た瞬間に重く深いため息をつきディスプレイに映し出される資料に目を向ける。と、背後から笑い声が聞こえてきたため振り返るとコーヒーカップを持ち微笑を浮かべている奈保が立っていた。肩に手を置きディスプレイに顔を近づけてくる。
「夢彌痾の事を調べるのかい?」
「あ、いえ。そう言う訳じゃあなくて。ちょっとこのファイルを開いたらこの事件が出てきて」
「最近は増えているからね。この件の事故は」
「事故って括りで片付けて良いんですか?事故じゃあなくてこれは事件だと思うんですけど。蠟燭を喉に流しこんで窒息とか聞いたことがありませんよ。明らかに悪意で行われているものですよ」
「でもないんだなっ」
陽気に口を開きながら夜景を見つつコーヒーをゆったりと飲み始める。どうしてこの事件を犯人の悪意で起きていないと言いきれるんだろうか?なにを根拠にそこまで明るく振る舞えるのだろう。彼女の不謹慎なほほ笑みに疑問を抱いていると出入り口辺りでカラカラと車輪の音が聞こえてくる。
「やあ、今日は早い出社だね。十六時間しか遅刻をしていない。これは何かいい事がありそうだ」
陽気に車椅子に乗っている女性に親しみを込めた声色で話しかける。返答をすることなく頷き自分のデスクへと収まる。彼女から返ってくる反応の結末が分かっていたかのように微笑み夜景を見つつコーヒーを飲み始める。さすがに会社の上司の発言に対してほぼ無視のような態度をするのはどうかと思ったのか注意を込めて櫨谷は車椅子に乗る彼女へと視線を向ける。
「遙堪。社会人として遅刻もダメだけど、上司の問いかけを無視するなんてもっての外だぞ?そもそも、何だ?遅刻ってレベルじゃあないよ。社会人なら決まった時間にくれない・・・」
「・・・五月蠅い」
「なっ」
遙堪が櫨谷に対して発した言葉を聞いたとたんに奈保は大笑いし始める。なにが面白いのかヒーヒーと涙を流しお腹を抱えながら笑い続ける。上司に大爆笑をさせた当人は静かに机に置かれた紙に文字を書き始める。
彼女は近代化文化を毛嫌いしている。以前、連絡が取れないのは不便だと思い携帯を購入し渡した瞬間、地面に叩きつけ粉砕してしまったほど。パソコンはもっての外。人口発行物も極力避ける。しかし、都会に住んでいるせいかさほど電子機器よりは拒否反応は弱めであるが、いい顔はしない。私生活ではどんな状態で暮らしているのか少し気にはなってみるけどそれこそ五月蠅い。関係ないでしょ。と、言われてしまうのがオチなので何も言えない。
「奈保さんは遙堪に対して甘いですよ。もう少し叱ってくれないと」
夜景を見つつ笑っている奈保に向かって抗議にも似た言葉を向ける。と、彼女は笑い肩を叩いてくる。
「いやー。やっぱりお前らを雇って正解だったよ。こんなに日常で笑わせてもらう事なんて普通じゃあ無いもの」
「笑いごとじゃあないですって。遙堪だって今からなにをするわけでもなくただああやって紙によく読めない文字を書くだけで給料をもらっているんですよね?僕なんか一日中働いて一緒の給料って割りに合いませんし」
「まあ、まあ。このご時世に仕事にありつけるだけでも幸福だと思わないと。寧ろ、拾ってあげた私に感謝してほしいぐらい」
「いや!奈保さんが決まっていた内定を本人が知らないところで蹴ったんでしょう!それでしかたがなく僕はここにいるだけですから」
「え?そうだっけ?」
年齢には似合わないお茶目な表情を浮かべると自分のデスクへと戻る。これ以上文句を言った所で何も出ない事は分かっているためグッと出かかった言葉を飲み自分の机に視線を戻し作業に戻る。改めて液晶に映し出された文字を見る。文章だけでここまで胸糞が悪くなる事件も初めてなのか無意識に険しい表情になってしまう。
先週の某日。ある男性が何者かによって殺害されていた。殺人に
この悪質な事件が事故死として処理されるのがオカシイ。しかし、奈保は【それでいいのよ】と、それが当然のように受け入れている。しかし、あまりにも彼にとっては受け入れがたい事実。何者かの圧力によって隠蔽されているのだったら公表するべきだ。そう考えに至り席を立とうとした瞬間、針に刺されいるのかと錯覚してしまうほどの痛みが背中を襲ってくる。背中を触ってみても針が刺さっていることは無かった。これは視線。誰が向けているものなのかなんて決まっている。針のような視線を向ける事ができるのは彼女しか居ない。僕に視線を向けているであろう人物へ視線を向ける。そこには先ほどの笑顔とは程遠く険しい表情をしている
「・・・お前はその案件にかかわる必要はない。その資料は見なかった事にしろ」
「でも、見てしまいました。奈保さんがどう言われても僕は現場に行ってみます」
「現場に行って何をする?もう警察が現場検証もし終わり事故として処理したことだぞ?素人のお前がなにをするつもりだ?お前には何もできやしない」
「特にするつもりはないです。ただ、あの場所に行って空気を・・・時間を見に行きたいだけです。ただ、それだけです」
櫨谷の言葉を聞いた瞬間、険しい表情が諦めたような表情へと変わり深くため息をつく。
「お前は素直だけど頑固だ。まあ、そう言う所を私は買っているのだけどね。遙堪。お前もついて行ってやれ」
「・・・」
沈黙の拒否。明らかに面倒くさがっているのが喋らなくても分かる。彼もまた一人で行った方が気を使わなくていい。そんな事を思っている。と、奈保は二人の姿を交互に視線を送り呆れたようにため息をつくと、
「あとでおしるこを買ってやるから」
奈保の一言で決着。遙堪はその言葉を聞いた瞬間に鉛筆を置きドアに向かい車輪を漕ぎだす。櫨谷も慌ててハンガーにかかっていたコートを羽織り出口へと向かう。
「櫨谷」
呼び止められ視線を向けると、
「殺人現場には色々な
「は、はぁ・・・」
意図が分からなく苦笑しつつお辞儀をすませ遙堪の後を追うように部屋から出ていく。エレベーター前では先に向かった遙堪が静かに待っていた。全身黒色の服を着ているため一瞬、車椅子だけがその場に置いてあるように見えなくはない。隣まで歩き立ち止まる。以前、何気なく後ろに立っていると夜叉の様な表情で睨みつけられてしまった事がある。ただ、睨みつけられただけで血液、心の臓を数秒止められてしまったような錯覚に囚われてしまった。それ以来、たとえ気のせいだとしても同じような錯覚に囚われたくないためこうして遙堪と共に行動するときは真横に立つことを意識している。
「ねえ。どうしてついて来ようと思ったの?」
「・・・」
ただ黙っているだけでもつまらないので少しだけコミュニケーションを取ってみようと思ったけど予想通り無視をされてしまう。彼女は無駄な会話があまり好きではない。見た目よりも必要な事は喋るし表情も豊か。それなりに意思疎通もでき寡黙と言う訳でもない。今は寝起きなのかいつも以上にご機嫌はよろしくない。しかし、ここで話しかける事を止める理由もなかったため彼女に向けて独り言をつぶやくことにした。
「そう言えば、最近できたコンビニエンスストアーって所に行った事ある?あそこは二十四時間営業をしているお店らしいよ。なんでもとはいかないけど、結構な品物が置いてあるらしい。食材はもちろん少量だけど雑貨も置いてある。そんなお店が二十四時間営業をしているって不思議じゃあない?これじゃあ、僕がよく利用している店が閉店に追い込まれてしまわないか心配だよ。あそこはまったりとしてじっくり品定めができるからいいんだよね。まあ、僕はまだコンビニエンスストアーなる店に行った事が無いからどちらがいいのかなんて分からないんだけどね。ははは」
カツっと床を蹴り横を向いてみると先ほどとまったく表情が変わってはいないように見えたが少しだけ口元が動く。
「・・・」
彼女の顔を僕は何度も見た事がある。しかし、いつ見ても芸術品と間違えてしまいそうになるほど美しい顔つきでいつも生唾、言葉を飲んでしまう。顔が整いすぎてこの世とは思えない作品。左目は赤く、右目は真っ黒な色。虹彩異色症も手伝ってか余計に自然造形ではなく人工造形に見えてしまう。
「・・・あるの?」
「ん?」
「そこにおしるこは売っているの?」
「お、おしるこか・・・どうだろう?帰りにでも奈保さんの夜ご飯を買うついでに寄ってみようか?実を言うと僕もちょっと興味があって。だけど、一人で行くのは心細くてさ。遙堪が一緒に行ってくれるならそれこそ嬉しいんだけど・・・どうかな?」
「・・・」
その問いかけに彼女は遠慮気味に小さく頷く。そのちょっとした仕草が先ほどから醸し出している雰囲気とは百八十度違いつい口元が綻んでしまう。職場に来てもいつも同じ表情ばかりで人間らしい動作、仕草をするところは最近見ていなかった。久々に人間らしい表情を見た気がする。
「そう言えばさ。遙堪の家に行った事が無いけどこのあたりなの?」
当たり障りのない会話を選んだつもりだったけど彼女にはお気に召さなかったようだ。また、だんまりを決め込んだのかジッとエレベーターのドアを眺め始める。ため息をすると少しだけ白い息が漏れる。部屋よりも気温は低い。両手を擦り暖を無意識にとってしまう。気になりだすと人は終わり。独り言を口にしている時は気にもしていなかった廊下の冷たさが両手、両足に襲いかかってくる。両手で擦り両足で迷惑にならない程度で足踏みをしてみるけど一向に暖かくならない。遙堪はいつも通りの表情を崩すことなくジッと凛とした姿でエレベーターを待っていた。
「あ、そう言えば」
いつもなら聞かないはずの質問を彼女に問うてしまう。きっと今から聞こうとしている問いなんて彼女は知るはずがない。だけど、少しでも寒さの気を紛らわせるために彼は口を滑らせたに違いない。
「遙堪はあの事件のこと知ってる?」
「ええ」
「あれってさ、奈保さんは楽観視して事故だって言ってるけどあれって結構な事件だよね?」
「何を基準に結構って言うのか分からないけど、頭はぶっ飛んでいる人間がやった事は間違いないでしょうね」
すると一枚の紙をさし出してくる。一瞬、彼女が何をしているのか分からなかった。それぐらい彼にとって彼女の行動は意味不明な仕草であった。
「どうしたの?」
「あ、いや」
彼女の言葉と共に思考が動き出し紙を受け取る。と、そこには手書きとは思えない達筆な字がずらずらと書かれていた。そこで目に着いた単語が【夢彌痾】【蝋】【錆びた鎌】【年齢10歳以下】と言うものだった。
「これは?」
「被害者のリスト。死体が見つかった場所。発見された死体解剖の結果」
「こんなもの・・・よく調べれたね」
「まあ、このぐらいはね。でも、あなたの直感には敵わないわ」
「そんな・・・僕は別に何も・・・ただ、【気がする】だけだから。奈保さんからは頼りにならないなんてよく言われるよ」
「そう?私から見れば櫨谷くんは瑞穂から十分頼られていると思うけど」
「な、なんだか遙堪にそう言われると恥ずかしいな。でも、そう見えてるなら嬉しいな」
「素直なところもいいと思うわ」
そう告げると彼女はもう一枚紙を出し手渡してくる。そこには先ほど以上に鮮明に死体発見の詳細が事細かく書かれていた。
「うっ・・・」
資料に目をやっているとムカつきが止まらなくなりポケットにあるハンカチで口を塞ぐ。そうでもしなければきっと嘔吐してしまっていただろう。文章でも残虐すぎる光景が頭の中に蘇り被害者である人物の意思がドバドバと頭の中に侵入してくる。グルグル、グチャグチャと頭蓋骨を砕かれ脳みそをぐちゃぐちゃにされている様な気持ち悪さ。
「う・・・が・・・」
「どうしたの?」
「かはっ・・・ご、ごめん」
横を向くと遙堪が僕の顔を覗き込むように見ていた。気がつくと地面に膝をついてしまっていた。ドク、ドクと心臓は脈を打ち続け呼吸もままならない状態に彼女は少し身を乗り出し背中をさすってくれる。遙堪の手の温もりのお陰か徐々に筋肉の緊張もほぐれていく。
「ゴメン。もう平気だから。ありがとう」
深呼吸を数回繰り返し立ちあがる。急に変な行動を起こしたものだから遙堪は驚きを隠せないようで未だ彼へと視線を向けていた。大丈夫だと伝えるように笑顔を向ける。笑みを見て安心したのだろう彼女はエレベーターのドアへと視線を戻す。
終末ノ意味 明日ゆき @yuki-asita
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