(7)寛子(ひろこ)

 二人目が授からないことで、武史はやはり自分の欠陥を意識し、そのことは同時に翔子に対する疑念を呼び起こさせた。子供の名前は寛子とつけた。武史が考えた名前であった。寛大な心をもった子になって欲しいという思いを込めたのだった。

 寛子はのびのびと育ち、美しい少女となり、娘になろうとしていた。中学二年生。成績もクラスで上位組みだし、友達の人気もあった。美術部に属し、美術の先生も「才能を感じますね」と言ってくれ、武史と翔子は将来フランスの美術学校に行かし、画家にさせようなどと親バカな話しをしたりしていた。


 寛子はスポーツ万能なのに、欠点と言えるのか、泳げないのである。小学校のとき、プールで後ろから突き落とされる悪さをされ、溺れそうになって、水を怖がるようになった。運動会にはいつもリレーの選手で、中学校になってからスラリと伸びた脚で、懸命に走る寛子に武史は見とれたものである。

 中学2年生になるというのに、翔子が勤務で居ないときなどは、武史が風呂に入っていると入ってきたりした。「ガス代がもったいないからね」とタオルを前に当てて入ってきた。ついこの間、小学校6年生まではいつも一緒に入っていた。さすがに中学校に入ってからは、翔子に注意されたのかそうでなくなった。2年生になっては6年生と違った仕草になった。チラッと見せる乳房に武史は息を飲んだ。ガス代ではない。一緒に入るのを断るセリフを考えなければと思った。


3人で葉山の海にピクニックに出かけることになった。武史の趣味は魚釣りとパチンコであった。「お父さんは、パチンコは下手だけど、魚釣りは上手ね」と、寛子はたまにパチンコにもついてきて、少しさせてやると喜んだ。

海にはついてくることはあったが、魚から針を抜くのを「魚がかわいそう」と、釣りはしなかった。イーデルを立てて一人海を描いていた。その日は急患が入って翔子は一緒に行けなくなった。


 久しぶりの海は気持ちよかった。海に突き出た突堤で釣ったのであるが、午後中程からの予報が雨予報だったのか、この突堤には武史と反対側で釣っている初老の釣り人の二人だけであった。

武史は最初から快調に釣れた。反対側の釣り人は釣れないのか、ブツブツ言っては武史の成果を見にきた。ちょくちょく来るので、「こちらで釣られたらどうですか」と声をかけたが、返事はなくブツブツ云いながら、反対側で釣りを続けた。


 本当に午後から雨?というような天気であった。お昼は寛子の手製のサンドイッチを一緒に食べた。寛子の絵を覗き込むと、突堤の上の武史が点描で描かれ、海と空と砂浜が描かれ、半ば出来上がりであった。寛子は外でのスケッチは淡彩の絵の具を使った。

「お魚釣れている?」

「ああー、魚屋出来るぐらい。快調。今日は刺身に、煮付け。フィッシュ・デイやで」

「お母さん喜ぶね。お魚大好きやもん。母さんも来れたらよかったのにね」

「寛子のサンドイッチは美味いや」

「サンドイッチだけ?」

「オムレツと焦がした卵焼き」

「カレーも出来ます。ビーフシチュウもね」

「あれはレトルトではあ~りませんか?」

「このー、こないだおいしい、おいしいって食べたやないの」

「ホンマに雨になるんやろか、悪くならんうちに帰らんとな」

武史が再び釣りに立ち上がったとき寛子がポツリと云った。

「私お父さんにいっこも似てないね」

「俺に似てたら大変だ。彼氏は永久にでけんことになる。お母さんに似て良かったよ」

武史は天候を気にするかのように空を見上げた。

「持てんでもいいわ。いっこぐらいどっか似て欲しかった」寛子の声が後ろでした。


 午後からも武史は順調に釣れた。反対側の釣り人は覗きにこなくなったが、釣れている様子はなかった。同じ海なのにコンクリートを隔てた東、西では、釣り人にとっては天国と地獄であった。何か世の中の現実を見るようであった。

午後からは絵の見通しがついた寛子が成果を見に来るようになった。少し海が波立ってきて、空の様子が変わり出したが、武史はもう少し釣っていたかった。反対側の初老の釣り人ももう少し粘る様子であった。


 寛子が「もう帰りませんか」と言いにきて、成果をのぞき込もうとして、足を滑らし海に落ちた。武史は直ぐに突堤にうつ伏せになって懸命に手を差し伸ばした。寛子の手が掴めたと思った。一体何だろう。世の中には魔が指す一瞬というものがあるのだろうか。

「この子は俺の子だろうか?」という疑念が武史の頭をよぎった。その一瞬で掴んでいた手が緩んだのだろうか、寛子の手は離れ、波立つ海に沈んで行った。武史が飛び込んで引き上げ、人工呼吸をしたが、水を飲みすぎたのか蘇生しなかった。


 寛子の悲鳴を聴いて、何ごと?と飛んで来た初老の釣り人も武史の足を支えて助けてくれた。寛子は事故として、処理される筈だった。その初老の男が意外なことを警察に喋った。『寛子は助かった筈だのに、武史が掴んだ手を離した』と申し出たのであった。

「親子なので、まさかと思いました。しかし家に帰ってもそのシーンが頭から離れず、『確かに見た』の確信が強くなって申し出ました」というのであった。警察は武史を尋問した。武史は「その人がそうだというなら、そうかも知れない」と、今までの経緯と一瞬頭をよぎった疑念を語った。取り調べ官は武史にこう告げた。

「念の為にDNA検査をしたが、99.99%実の親子でしたよ」と。

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